セビルはロサンゼルス、サード・ストリート・プロムナードで停まった。等間隔に植えられたシュロ、ひょろ長い信号、ファストファッションの看板。道の隅ではピエロの恰好をした大道芸人がジャグリングをしており、その隣ではストリート・ミュージシャンたちが自動車のバッテリーを電源にザ・クラッシュの『ロック・ザ・カスバ』を大音量で演奏している。レックスが「ここで停めて」と言うと、ボブロウはブレーキを踏んだ。
「何かあるの?」
「ここから始まるの」
「どういうこと?」
レックスは髪を撫で、小さく溜息をついた。
「ボブ、質問することは悪いことじゃないけれど、今は駄目」
「ぼくは君の運転手じゃない。これまで、君が言う通りにしてきたつもりだ。もちろん、お世辞にも完璧だったわけじゃないことは百も承知だ。でも、そんな言い方はあんまりじゃないかな?」
肩を落としたレックスがドアを開けて外に出た。
「そうね、たしかに、今の言い方はあんまりだった。謝るわ。あなたは良くしてくれた。あたしが寝ているからって自慰したりしなかったみたいだし」
「当たり前だよ」
「あたしにはしたいことがある。大きなこと、夢。今になってわかる。本当のところ、あたしは家族を見返したいとか、そういう動機じゃなかったってことが」
「君は何をしたいの? 最後なんだから、聞かせてよ」
レックスが悪戯っぽく笑った。
「教えない。いつか、わかるもの。あたしにはわかる。身体に気を付けて。煙草はやめたほうがいい。あなたに似合わないもの。それから、あんまり考えすぎないで。多分、あなたが思っている以上に単純なことだから」
「そうかな?」
「そうよ。そうに決まってる」
「誰が決めたの?」
「あたし。あたしが決めたの。なんだか、湿っぽくなりそうだから、これでさよならにしましょう」
ボブロウが身を乗り出してレックスの細い腕を掴んだ。
「レックス、お金持ってる? 財布はトラックに置き忘れたって言っていたよね?」
ポケットに手を突っ込んだボブロウが皺くちゃの一〇〇ドル札をレックスに差し出した。目を細めたレックスが「受け取れない」
「そんなこと言わないで。君に必要なものだよ。これだけあれば、とりあえず、二、三日はなんとかなるだろうし。もし、君に何かあって、ぼくがそれを知ったら、きっと凄く後悔する。君と寝なかったこと以上にね。だから受け取って欲しい。レックス、ぼくは君を憐れんでいるわけじゃない。ぼくの……今まで通りのワガママなんだ。だから……」
レックスが笑い、人差し指と中指で一〇〇ドル札をピンと摘まんだ。
「初めて、あたしの名前を呼んだわね」
「そう?」
「嬉しいから、もらってあげる。ボブ、ありがとう。じゃあね」
セビルのドアが閉められる。ボブロウのまばたきからは、それらが連続写真のように断片的に見えた。レックスが手を振り、投げキスの仕草をした。ボブロウも手を振り、それからアクセルを踏んだ。ハンドルを切ると、バックミラーに小さく映っていたレックスの姿も消えた。
「レックス、君は何かを見つけるだろう。それは、もしかすると君が思い描いていたものと違うのかも知れないし、思い描いた通りのものかも知れない。どちらにせよ、君は何かを見つけることができる。ブッチ、君もだ。初めて会った時、君の刺青まみれの身体には、驚かされたけれど、君が言いたかったこと、望むものは違う。ぼくには君たちが輝いて見える。キンバレン牧師や、囚人たちでさえ……」
夕暮れ時、ボブロウは露店でサンドウィッチを買うと、セビルの車体に寄りかかりながらサンドウィッチを頬張った。ロサンゼルス特有の風変りな人々が通り過ぎていく。ボブロウが指についたチリソースを舐めとると、シャンパンのような香りの香水を振りかけた女性がボブロウの横を通り過ぎていった。ジーンズにブラウス、湾曲した文字盤の腕時計。
「結婚しようと思ったことがある」
「それは初耳だね。相手は誰だい?」
「君が知らない人だよ」
「教えてくれたって、いいじゃないか。ぼくは知らないのだし」
「そう、知らない。それはぼくにも当てはまる」
「どういうこと?」
「ぼくは君でなく、君はぼくではない。思うに、人は大きな不幸に強い。家族や、大切な人を亡くしたり、怪我や病気で身体の機能の一部、あるいは大部分を失ったとしても、生きようとする力を失うことは稀だ。むしろ、人はそういったことをバネにして飛躍し、生を謳歌することに長けている。それでも、小さな、極めて小さな、始めに言った、君はぼくではない、という孤独に弱い。インターネットはぼくたちの生活を一変させた。個人主義というものがどういう性質のものであるか、皆が理解するようになった。個人主義は膨張している。一体、どこまで膨らむのだろう? 永遠に膨らみ続けることはありえない。どこかで萎むか、あるいは破裂する。個人主義が破裂する時、人は新たなコミュニティを創出するために戦いをはじめるだろう。形式は従来の戦争という形を借用する。しかし、根本的に違うんだ。人は弱い。小さな孤独の連なりに耐えられない」
通りの隅にトラックが停まり、運転手が降りてくると、運転手は幌がかかった荷台から積み下ろしたダンボールを台車に積みはじめた。淡々とした作業はテープの巻き戻しのようにも、早送りのようにも見えた。運転手の手が滑り、ダンボールがアスファルトに叩きつけられ、口が開いたダンボールから鉤十字の腕章が飛び出した。ボブロウは指をズボンで拭くと、運転手に近付いた。
「手を貸すよ」
運転手が目を細め、団子鼻に触れた。運転手は赤ら顔をしており、苔色のハンチング帽をかぶっている。運転手は
「ありがたい。それじゃあ、お言葉に甘えて」と言って、口の開いたダンボールをボブロウに渡した。
「そいつを、のせてくれ。バケツリレーといこう」
ボブロウは運転手から渡されたダンボールを台車にのせていく。機械的な作業は考えることを拒絶する。
ダンボールを積み終えた時、ボブロウの額にはうっすらと汗が滲み出ていた。ボブロウは汗を手で拭うと、運転手が「ありがとよ」と言った。運転手がボブロウの顔をしげしげと見て、口を開く。
「あんた、どこから来た?」
「どうして、そんなことを聞くんだい?」
運転手が団子鼻を擦って
「ここいらじゃあ、手伝ってくれるような奴はいないからな」
「ベセスダから来たんだ」
「どこだ?」
「メリーランド州」
「へぇ、随分と遠出だな。おれみたいに年がら年中、こうやって物を運んでいると、一体、どこが自分の家なのか忘れちまう。一年中、旅みたいなもんでな」
「自分の家を忘れたりする?」
「するさ。ずっとトラックで寝泊まりしていりゃあな。ところで、あんた。中身を見ただろう? 別に隠さなくたっていい。とやかく言わない。この荷物、なんだと思う?」
「ナチス」
「そう、それだ。大昔のキャベツ野郎のマークなんて、何に使うのかサッパリだ。ここだけの話、これはヨーロッパに送るんだ。信じられるかい? ヨーロッパじゃ、こいつが欲しくてたまらない連中が沢山いるんだと。まったく、信じられない馬鹿者さ。言ってやりたいよ。つまり、おれを見ろってさ。こいつが欲しくてたまらない連中っていうのは、移民が嫌いっていうだけの甘ったれに決まっている。甘ったれだから、仕事を移民に奪われたと言い出すのさ。とんでもない。仕事がないのは間抜けだからさ。四の五の言わずに皿洗いでもなんでもやればいい。一つ、話をしよう。おれの弟は大学で教えていたんだ。算数。あぁ、哲学だったかも知れない。どっちでもいい。どうせ、おれにはわかりっこないんだからな。弟は考え過ぎたんだろう。ある日、いきなり部屋でショットガンをぶっ放した。誰にも当たらなかったのは運が良かったとしか言い様がない。それから、弟は精神病院にいれられちまって、壁に向かって頭を打ち付けた挙句にあの世行きだ……なまじっか、頭が回るってことはロクでもない。頭を回すからいけないんだ。頭を回すと、それだけ色んなものが見えちまう。そんな暇ないように、毎日、あちこちに行っていればいい。そうすりゃあ、悩みなんてない。毎日が旅行気分だ」
——〈砂漠の正義作戦〉は成功か? 勝利はどこに? ニューヨーク・タイムズ紙——
連載目次
- イタロ・マリネッティ記
- Q
- ルイジアナ・ホット・セブン
- ダラー・デイ
- ウィリアム・ボブロウ ~朝日のようにさわやかに
- セルロイドの塔
- ルイジアナ・ホット・セブン ~私を月に連れて行って
- イタロ・マリネッティ記 ~LAプレッパー
- ウィリアム・ボブロウ ~テキサス州ダラス
- ルイジアナ・ホット・セブン ~川走
- イタロ・マリネッティ記 ~ロスに唄えば
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅠ
- 一八時二五分、停止なし
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅡ
- 不戦試合
- ウェイク・レコード
- ルイジアナ・ホット・セブン ~テキサス州会議事堂前
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅢ
- イタロ・マリネッティ記 ~インターナショナル・プレッパーズ
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅣ
- イタロ・マリネッティ監督、インタビュー ~インタビュアー、アンブローズ・ロック