ニューヨーク州はシラキューススタジオの控室。スタンダップコメディアン、アフロ・アメリカンのマーティ・ワシントンが大袈裟な身振りで
「なぁ、シド。こんな仕事、誰が期待しているんだ?」と言うと、ワシントンのマネージャーでアイルランド系を自称するシド・ヘクターが
「マーティ、最高だよ。その勢いで喋ればいい。客は抱腹絶倒、冠番組だって夢じゃない」
「おれにクイズ番組の司会でもしろってか?」
ワシントンのカリフォルニア訛りはいささか間が抜けているように聞こえるものの、ヘクターにとっては、それすらもワシントンの武器に感じられた。
「この番組の数字が悪いことを知っているかい?」
「こんな時代に『今は戦争か?』なんていうクソ真面目の討論番組。そんなものを観る奴の気が知れないね」
「いっそのこと、君が論客の仲間入りをすればいい」
「やめろよ。それこそクソだ。『今は戦争か?』だって? 馬鹿言うな。シド、お前も黒く生まれてみればわかる。手を挙げても、中々、タクシーは停まらないし、店に入ればジロジロ見られる。何か盗むんじゃないかと疑っているんだ。こんなことはおかしいと言えば、黒んぼ呼ばわりだ。つまるところ、おれたちの毎日が戦争なんだよ」
目を白黒させたヘクターが大袈裟に笑った。
「笑い飛ばしてやるといい」
「抗議の電話で帰れなくなるぜ」
「放送されないんだ。好きに喋ればいい」
「クソッタレ前説のスタンダップだもんな」
ヘクターは手を波打たせ「今日来ている連中にジェットコースターを味わわせよう」
「こんな番組を観に来るような、クソ真面目な奴らだ。きっと、二〇年は笑っていない」
「君が笑いを思い出させてやればいい。笑い方の講義とか言えば、大丈夫だよ」
頭を掻いたワシントンが「やれることはやるよ。せいぜい、笑い飛ばしてやるさ」と言い、ヘクターが「さぁ、時間だ」と言ってワシントンの肩を叩いて、ワシントンを立ち上がらせた。
青を基調としたセットを横切り、浴びるライトはいつもより熱く感じられた。ステージの真ん中に立ったワシントンが言う。
「おれ、マーティ。今日は笑い方について話しにきたんだ。まずは、両手の人差し指を口に突っ込んで、両手をグイとやってみてくれ。さぁ、そのまま一〇分、キープだ。さぁ、いくぜ」
隣で真剣な顔でパネリストたちの意見に耳を傾け、小さくうなずく妻の横顔を見たシャノン・ジャクソンはポロシャツの上から腹を撫で、冷たい脂肪が揺れた。ジャクソンの褐色の腕はふともものように太い。ジャクソンは、リングマガジン誌で〈史上最高のヘビー級ボクサー〉として三五位にランクインしているが、三〇年前に激闘を繰り広げた相手選手よりもランクが下であることには不満がある。三〇年前、ラスベガスでの一夜がジャクソンの人生を変えた。その夜、彼は人生最高のファイトをしたものの、結果は九回、テクニカルノックアウト。その後のドクターチェックで網膜剥離を診断されたジャクソンはなし崩しに引退した。引退後はそれまで蓄えた富を焼尽した。豪邸、彼が乗るには小さすぎるスーパーカー、レストランとフィットネスジムの経営、三度の結婚と二度の離婚。すり寄っては金を無心するだけの血縁者たち。気が付いた時、ジャクソンは税金滞納のために刑務所に収監されていた。
出所後に出入りするようになったホームレス・シェルターで、今、隣で真剣な表情でパネリストたちの話を聞いている三番目の妻と出会った。彼はボランティアスタッフが世界で最も強靭な精神を持っているということを知った。ジャクソンの人生は少しずつ好転している。彼の回顧録は大きな売り上げとは言い難いものの、講演の依頼は絶えない。ジャクソンはテーブルの上に祈るように指を組んでいるパネリストたちを見る。彼には正しく発音することができない肩書の学者たちが呪文のような言葉を繰り出している。ジャクソンは彼らに興味がない。今日、シラキューススタジオを訪れたのは、先日、彼が購入した中古のトヨタ・タコマを一目見てから機嫌が悪い、妻のためだ。ジャクソンは収録前のスタンダップコメディアンを思い出し、小さく笑みを浮かべる。
「どうしたの? 急に笑って」
妻の言葉で我に返ったジャクソンは顎に手をやり「なんでもないよ」と答えた。ジャクソンが前を向くと、斜め前に腰掛けている男が感極まったように肩を震わせていた。ジャクソンはパネリストたちの言葉に打ち震える男を理解できずに首を鳴らした。男が立ち上がった時、民主党と共和党、両方を否定するパネリストが怪訝な顔をした。男はズボンの中から黒いモノをとり出した。二〇二〇年に米国で最も売り上げたグロック社製自動拳銃、グロック一九。男はパネリストや観客たちに向かって、しどろもどろになりながら世界を渦巻く陰謀と不誠実な社会への憎悪を振りまいた。観客たちは頭を下げ、パネリストたちはテーブルの下に隠れる。
「九一一に電話してくれ」
「警備員は何をやっているんだ」
悲鳴、叫び声のカノン。自動拳銃が指揮棒のように振られる。敬虔な人びとは指を組みながら神の言葉を繰り返す。ジャクソンが喉を鳴らし、彼の腕を掴んだ妻が頭を横に振った。ジャクソンが妻の髪の匂いを嗅ぐとアーモンドの香りがした。ジャクソンは妻の指に触れ、指を離すと立ち上がった。
驚いた男が振り返り、斜め後ろに立っている六フィート三インチのジャクソンに向かって銃口を向けた。男の唇はおろか、肩も指も銃口すら震えていた。ジャクソンは落ち着き払った声で
「頼むから銃を下ろしてくれ」と言うと、黒のタートルネックに黒いズボン、厚手のロングコートに身を包んだ男が額から噴き出した汗を湿った手で拭った。ジャクソンが言う。
「君、名前は?」
男は消え入りそうな声で「マーソン……ケルビム・マーソン」と答えた。
「ケルビム、いい名前だ。おれはシャノン・ジャクソン。今日、ここに来たのは他でもない。隣にいる妻のためだ。それというのも、先週、中古でタコマを買った。ローンで、値切れる限り値切った。でも、妻は〈こんな大きな車なんていらない〉……今日はご機嫌取りというわけだ。ケルビム、家族はいるか?」
マーソンが頭を振った。ジャクソンは半歩進んだ。既に七フィートのリーチが届く距離ではあったものの、ジャクソンは拳を固めることをしない。ジャクソンが言う。
「そうか。そういう人生もある。色々な生き方、価値観がある。多少、おかしなものでも尊重されている。たとえば、テーブルの下で子鹿みたいに震えている学者の彼。彼が言っていることは、おれにはサッパリわからない。おれが大学を出ていないからか、単におれが馬鹿すぎるのか……多分、両方だろう。でも、尊重しなくちゃいけない。昔、おれは相手をねじ伏せることができれば、何をしてもいいと考えていた。とんでもない誤解だ。ところで、ケルビム。今、君がしたいことはなんだ?」
マーソンは目に涙を溜めながら「刑務所に行きたくない」と言った。
「あぁ……わかっている、わかっているよ。ケルビム、君は嘘だと思うかも知れないが、おれは敵じゃない。誓おう。誰も君をひどい目に遭わせたりしない。約束する。だから、銃を下げて欲しい。おれや、おれの妻、頭を下げている人たちや、テーブルの下にいる彼のためじゃない。誰かのためじゃなくて、ケルビム、君のために」
銃を下げたマーソンが泣きじゃくり、涙と唾液、鼻汁がジャクソンのポロシャツの肩に染みた。ジャクソンはマーソンから銃を取り上げると、警備員たちがやってきた。マーソンは怯えた目で人びとを見ていた。警備員がマーソンの腕を掴もうとすると、ジャクソンが静止した。
「彼と約束したんだ。必要ない。それよりも、道を開けてくれ」
ジャクソンがマーソンの肩を抱き、二人は歩き出した。細くて白い廊下を歩きながら、ジャクソンはMGMグランド・ガーデン・アリーナの廊下を思い出す。収容人数一七一五七人、コンサートホールとしても使用される殿堂の廊下を。
出口のドアノブを捻ったジャクソンがドアを押し、マーソンに向かって手を差し出した。マーソンは汗でびっしょりの震える手でジャクソンの大きくてレンガのように固い手を握った。ジャクソンが言う。
「ケルビム、ここであったことは内緒にすると約束する。君は家に帰ったら、シャワーを浴びて、そのままベッドに入ればいい。考えなくていい。何も心配するな」
マーソンが手を離し、そそくさと立ち去った。闇の中、黒いロングコートが一瞬で飲み込まれた。回れ右をしたジャクソンは肩を揺らすと「戦うだけが人生じゃない」とつぶやき、スタジオの廊下を歩いた。
控室でスタジオの映像を見ていたシド・ヘクターがマーティ・ワシントンを指差し「マーティ、これは絶好の機会だよ」と言ってワシントンの背中を押しながらスタジオまで進んだ。スタジオは溢れんばかりの拍手に包まれていた。拍手は大男に向かって叩かれており、大男は後頭部を掻いていた。パネリストは水玉模様の蝶ネクタイを揺らしながら一心不乱に拍手している。ステージに上がったワシントンは両手をヒラつかせ
「みんな、どうだい? 笑い方は思い出したかい?」と言った。
連載目次
- イタロ・マリネッティ記
- Q
- ルイジアナ・ホット・セブン
- ダラー・デイ
- ウィリアム・ボブロウ ~朝日のようにさわやかに
- セルロイドの塔
- ルイジアナ・ホット・セブン ~私を月に連れて行って
- イタロ・マリネッティ記 ~LAプレッパー
- ウィリアム・ボブロウ ~テキサス州ダラス
- ルイジアナ・ホット・セブン ~川走
- イタロ・マリネッティ記 ~ロスに唄えば
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅠ
- 一八時二五分、停止なし
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅡ
- 不戦試合
- ウェイク・レコード
- ルイジアナ・ホット・セブン ~テキサス州会議事堂前
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅢ
- イタロ・マリネッティ記 ~インターナショナル・プレッパーズ
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅣ
- イタロ・マリネッティ監督、インタビュー ~インタビュアー、アンブローズ・ロック