ノミのサーカス

連載第14回: ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅡ

僅かに開いた窓から風が吹き込み、セビルに搭載されたカーラジオが震えた音を響かせる。
「コウモリは哺乳類の中で唯一、鳥類に匹敵する飛行能力を備えています。コウモリは吸血鬼のモチーフとされていますが、動物の血液を採取する種は南米に生息するチスイコウモリのみです。コウモリの寿命は体重に比べると非常に長いことがわかっています。これは夜行性であることで天敵が少ないことと、飛行というメリットを選択したことによって生じるデメリットによるものです。コウモリは様々な感染症を媒介します。ニパウィルス症候群、ヘンドラウィルス症候群、重症急性呼吸器症候群、エボラ、マールブルグ、狂犬病……これらはヒトにとって極めて危険な感染症であるものの、げっ歯類が媒介したペストほどは危険視されていません。とんでもない誤解です。たとえば、ハンタウィルスはげっ歯類が媒介することがありますが、げっ歯類には飛行能力がなく、移動できる範囲は限られています。一方のコウモリは建築物、人家の屋根裏といった場所を好む種がいることから、ヒトと接触する可能性が上がります。コウモリは様々な感染症を媒介しますが、彼らは絶滅していません。そして、彼らの免疫システムは解明されていません。なぜ、これほど多くの感染症に罹患しても生存することができるのか? 仮説を立てることからはじめなくてはなりません。たとえば、飛行中、一分間で千回脈打つ心臓や……」
 ボブロウがカーラジオのスイッチを切る。車内にエンジン音だけが響く。ボブロウが首を捻ると機械的な空気音、関節が擦れる破裂音が響いた。

 二八七号線、コロラド州はアーバダの古い町並みを通り過ぎると、遠い昔、黄金に狂った人々の残り滓が見えた。二車線しかない道路の両脇には見渡す限りセロリが植えられ、遠くでは農薬を散布する軽飛行機が低空飛行をしていた。ボブロウはパワーウィンドウのスイッチを押して窓を閉めた。外界から遮断された狭苦しい車内にはクマバチの飛行に似たエンジン音が聞こえるだけ。単調さから眠気を感じたボブロウが溜息をつくと、前方に案山子が見えた。見る見るうちに近付く案山子に目を凝らすと、案山子の隣で若い女が〈LAまで〉という手書きのプラカードを掲げていた。ボブロウはブレーキを踏み、バックミラーに女が走り寄る姿が映し出された。助手席側のドアが開けられ、女が助手席に腰掛ける。
「助かったわ。こんな所でどうしようって、困り果てていたの。ロスまでなんだけど、お願いできるかしら?」
「いいよ」
「本当? 嬉しい。あたし、レックス。レックス・アンバー」
「恐竜?」
「RじゃなくてLのほう。あなたは?」
「ウィリアム・ボブロウ」
「変な名前。本名?」
「ボブでいいよ」
 ボブロウはレックスを見た。銀に染められた髪はショートカットだが、横髪だけが顎まで伸ばされており、肌は不健康なほど白い。薄ピンクの口紅には光沢があり、水色のTシャツはドクロマーク。デニム生地のショートパンツを履いている。黒のドット柄ソックスは太腿のあたりまで伸びており、ナイキ製の白いスポーツシューズを履いている。ソフトコア・ポルノに出演していそうな服装だった。レックスが手で胸を隠すような仕草をすると
「ジロジロ見られるのは好きじゃない」
「ごめん。そういう意味じゃないんだ」
「じゃあ、どういう意味?」
「変わったファッションだなって思っただけ」
 レックスは人差し指で上唇を触り
「ロリータ・ファッションっていうの。知ってる?」
「まぁね。でも、そういう恰好の女の子と話すのは初めてだよ」
 悪戯っぽい目をしたレックスが顎のあたりまで伸ばされた髪を触りながら
「ボブはいくつ? どこに行く途中?」
「二七歳。目的地は……決まっていない」
「一人旅ね。あたしと一緒。どうして、旅をしているの?」
 ボブロウはレックスの問いに対する答えを持っていない。なぜなら、彼は答えを探している最中なのだから。ボブロウが言う。
「友人が亡くなったんだ。名前はマイケル・ジャベス。彼は大学を首席で卒業したエリートだった。齢はぼくより二つ年下だったんだけれど、飛び級していた。彼は会社で兵器開発をしていた。書類上、ぼくは彼の秘書。秘書といっても、マイクは仕事を他人任せにするような性格じゃないから、ぼくの仕事といえば、もっぱらが彼の話相手。マイクは寛容な人だったけど、変人で、それは彼自身、よく理解していた。ぼくを友だちに選んだのは、ぼくが凡庸だからだ。彼はぼくを馬鹿にしたりすることは一度もなかったけれど、ぼくぐらい凡庸だと、気が楽だったんだと思う」
レックスは好奇心旺盛な目で「どうして、マイクは亡くなったの?」
「事故。書類上は」
「書類上? 何か不都合でもあるの?」
「マイクは完成した兵器の記念すべき第一号になった。照準を合わせて、自分でボタンを押して」
「それ、自殺っていうんじゃないかしら?」
「きちんと作動するか実験したのかも知れない。彼は真面目な性格だったから」
 レックスが座席の上で体育座りをすると、下着の白いフリルが見えた。レックスが言う。
「あなたってゲイ? 別に、ゲイを差別するつもりはないけれど、先に知っておきたいの」
「どうしてそう思うんだい?」
「いくら、友だちが事故死したからって、あてもなく旅をする理由にはならないじゃない?」
「そうだね。君の言う通り。どうして、こんなことをしているのか不思議なぐらい」
「答え、見つかりそう?」
「どうだろう、わからない」
 農薬を散布する軽飛行機がくるりと旋回する。少しすると、レックスの寝息が聞こえてきた。レックスの胸は規則的に膨らみ、水色Tシャツの隙間から鎖骨と、その下に黒くて小さいホクロが見えた。ボブロウはレックスの眠りを妨げないようにと、スピードを一定に保った。

 空に黒いカーテンが引かれる。星々が煌めき、安っぽいクリスマスツリーのように輝く。ボブロウが轢死した野ウサギを避けようとハンドルを切ると、窓ガラスに頭をぶつけたレックスが悪態をつきながら目を覚ました。
「着いた?」
「まだ」
「お腹、空いた」
「ダイナーが見えたら寄ろう」
「あたし、お金ない。トラックに乗せてもらったんだけど、そいつが変態で、あたしが眠る度に運転しながら自慰するの。気味が悪くて、トイレのふりをして逃げたんだけど、うっかりバッグを忘れちゃって……」
「食事代ぐらい出すよ。退職金が結構、出たんだ。あと、ぼくは君が寝ているからって自慰したりしていない」
「あなたが変態じゃないってことぐらいはわかる」
「レックスはどこから来たの? 学校は?」
「メーン州のイーストポート。学校は肌に合わなくてドロップアウトしちゃった」
「両親は?」
 レックスが吐き捨てるように「嫌い」と言った。
「両親とは不仲?」
「二人ともコチコチのメソジスト。弟のマルセルは真面目だし、成績優秀。いいところは全部、マルセルに吸い取られたんだって」
「ぼくには兄弟がいないから、うらやましく聞こえるよ」
「なら、家族になってみる? きっと、二日もしないうちに嫌になるから」
 ボブロウがすまなそうな顔で「マイクが西か南に行けと言っていた。何があるのかはわからないけれど、多分、ぼくが行くべき場所なのだと思う。だから、イーストポートには行けない」
「その友だち、預言者?」
「マイクは研究者だよ。彼は無新論者だった。不可知論者でもあったかも知れない。もしくは……」
「神秘主義者?」
「そんなところ。彼について考えても、ぼくの頭では彼を想像することができない。大学では専攻が違うのに、いつも一緒にいたのにさ」
「寂しい?」
「妙なことを言うようだけど、遅かれ早かれ、こうなったんだと思う。彼は終わりを探していた。その発想は、多分、彼がまだお腹にいる時、イラクにいた父親がロケット弾で吹き飛ばされた時から決まっていたことなのかも知れない」
 レックスが頭を掻き「考え過ぎよ」
「そうかな?」
「そうよ。きっと、そんなに複雑なことじゃない。一つ一つは簡単なことだけど、重なり合うと複雑に見える。それだけ」
「それだけ?」
「多分ね。あっ、あれ、ダイナーじゃないかしら?」
 ボブロウは闇の先に煌々と灯る看板に向かって目を凝らす。看板が近付くと、ドライブスルーに入った。盗難防止用の鎖に繋がれたメニューを見たレックスが
「テイクアウトだけみたい」
「どれにする?」
「美味しければ、なんでもいい」
「そう、じゃあ、チキンにするよ」
 レックスがうなずき、ボブロウがボタンを押して注文した。五分ほどすると、窓からテイクアウト用の茶色い紙袋をさげた手が出てきた。腕まくりした赤いシャツ、手の甲には揚げ物油による火傷の痕。指で紙袋を摘まむ様はファン・デ・バルデス・レアルによる絵画『世の栄光の終わり』のようだった。ボブロウは天秤のようなプラスチックのカルトンにクレジットカードを置いて、数字が羅列されたリモコンが差し出された。ボブロウが暗証番号を押し、カルトンに小さく丸まった感熱紙とクレジットカードが返却された。接触を拒絶した、それ以上でもそれ以下でもないと断言する無機質な行動。

 エンジンは快調。コロラドの古き良き景色は昼間ならば絵葉書のように映えただろうが、夜は同じ顔をしていた。レックスは底に脂が染みた茶色い紙袋に手を突っ込み舌打ちした。
「コロラドって、アメリカで一番、食事が充実しているって聞いたんだけど、間違いみたいね」
「間違いは誰にでもあるよ。とはいえ、ボルダーのソムリエは人口ベースならニューヨークよりも多いって読んだ。でも、ここはアーバダだし」
 レックスはフライドチキンを頬張り、骨をティッシュの上に置いた。レックスは脂ぎった指先を舐めながら「物知りなのね」
「そうかな?」
「やっぱり、大学を出たから? 大学で何を学んだの?」
「経済を学んだよ。でも、ぼくが決めたことじゃなくて、父さんの仕事の関係」
「パパは何をやっているの?」
「投資会社を経営しているよ」
「じゃあ、ボブの家はお金持ちなのね」
「育った家はペントハウスだけど、そんなに大きいわけじゃない」
「どこ?」
「ロウアー・マンハッタン。目の前がハドソン川」
「すごい! じゃあ、ワールド・トレードセンターが見えたのね」
「うん。でも、あの日のことは、あんまりよく覚えていない。子どもだったし、メイドが絶対に外に出ちゃいけない、って言ったし。こっそり、カーテンを開けたら、空が埃で茶色に染まっていた」
沈黙が続き、ボブロウはラジオのスイッチを押した。ノイズ塗れのニュースは断片的に、しかし、はっきりと〈戦争〉という言葉を伝えた。レックスが言う。
「戦争、起きると思う?」
「戦争は世界中、今も起きているよ」
「そういう意味じゃない。第三次大戦が起きるかって話」
「どうだろう? マイクは起きるって言っていたけれど」
「そんなの嫌。あたしはロスに行きたいの」
 レックスが脂ぎった指先を、ハエを払うようにヒラつかせた。
「どうして、ロスに行きたいの?」
レックスがハッキリとした口調で
「ロスには夢がある。夢があるの。実現させたい」
「どんな夢?」
「笑わない?」
「答え次第」
「じゃあ、教えてあげない。多分、笑うもの。パパやママと一緒」
「無理に聞くつもりはないよ。夢は胸の中にしまっておいたほうがいいから」
 ナイキのスポーツシューズを脱いだレックスが座席の上であぐらをかいた。ショートパンツの隙間から白い下着と控えめな丘の曲線が見えた。ボブロウが言う。
「下着、見えてるよ」
 苛立った口調のレックスが「別に、減るものじゃない」
「男の前でそういうことはやめたほうがいい。たとえ、ゲイみたいに見える男の前だとしてもね」
「貞淑な女の子が好きなの? 男って、みんなそう」
「そういうわけじゃない。目のやり場に困るんだ」
 レックスがTシャツをパタパタとなびかせると、ドクロマークが笑っているように見えた。レックスが「シャワー浴びたい」と言うと、ボブロウは小さくため息をつき
「モーテルが見えたら、そこに泊まろう」

 三〇分ほどセビルを走らせると、蛍光ブルーのモーテルという文字が見えた。ボブロウはハンドルを切って駐車した。モーテルに入ると、ボブロウは電光掲示板の有機ディスプレイを押し、クレジットカードを挿し込んだ。乳白色の萎れた紙が吐き出され、紙を引きちぎってポケットに放った。部屋に入るなりボブロウはベッドに横たわり、レックスが「先にシャワーを使うわね」と言ってシャワールームに向かった。お湯が滴り落ちる音と、レックスの鼻歌。ボブロウは花柄プリントの悪趣味な壁紙を見て、意を決したように小さな冷蔵庫からビールをとり出して飲んだ。テレビのスイッチを入れるとスーパーボウルが映し出された。シングル発売毎にビルボード・ホット一〇〇、二〇位以内にランクインされる歌手がベルベットのように織り込まれた髪を揺らしながらマイクを握る、成功の証としてのハーフタイムショウ。全米に住む四〇パーセントを超える人びとがトイレに押しかけ、下水道局職員たちは手に汗を握る。投資家たちはNFCの勝利、あるいはAFCの勝利によって引き起こされるニューヨークダウの上昇と下落を予想する。感謝祭に次ぐ食料が消費される祝日、勝利の燔祭。
 金属のドアノブが軋む音の後、レックスの「好きなの? 意外」という声が聞こえた。ボブロウの心拍数が上がる。ボブロウはしどろもどろになりながら
「うぅん、別に……ルールも知らない」
 身体にバスタオルを巻いたレックスがベッドに飛び移り、スプリングが悲鳴をあげた。レックスが耳元で囁く。
「シャワー、空いたけど、服を洗ったからそのままにしておいてね」
 レックスが悪戯っぽく笑った。ボブロウはダラスからずっと着ていた黒のスーツと、すっかり黄ばんだシャツ、下着を脱いだ。レックスが着ていた水色のTシャツや白いフリルの下着を視界にいれないように注意しながら蛇口を捻った。シャワーヘッドから温水が滴り落ち、湯気が立ち上る。ボブロウは溜息をつき、牛乳と化学物質の匂いのする石鹸で身体と頭を洗った。その後、黄ばんだシャツをシャワーで洗うと、ハンガーにかけてシャワールームの乾燥スイッチをいれた。

 腰にバスタオルを巻いたボブロウがシャワールームを出ると、レックスはベッドに寝転がりながらビールを飲んでいた。テレビは二〇秒ずつ広告があらわれては移り変わる。
「レックス、いくつ?」
 テレビを観ながらレックスが「ビールを飲む齢」と答えた。振り向いたレックスは真っ赤な顔をしていた。アルコールにまったく慣れていないことが伝わってきた。ボブロウがベッドに腰掛け
「良くないよ」
「何が?」
「ビール。飲み慣れていないのに、飲んだっていいことないよ」
 レックスは伸びをすると上体をそらせ「飲みたいの。それとも、あなたもパパやママと同じように言うわけ? 子供のくせにって」
 ボブロウが宥めるような口調で「したいようにすればいいよ。そういえば、ブッチがこんなことを言っていたっけ。〈やるべきことをやるな。やらなくていいことをやれ〉って」
「ブッチって誰? 恋人?」
「ブッチとはダラスで会ったんだ。フリーウェイで、半ば強引に乗って来た。彼はナッシュビルから来たみたいだけど、どうも合わなかったらしくて、オースティンを目指していた。彼をオースティンまで乗せてあげたんだ」
「何をやってる人?」
「歌手」
「映画みたい。歌は聞いた? どうだった?」
「バーベキュー店で歌ってくれたよ。変な歌だなって」
「それは、売れそうにないってこと?」
「わからない。ぼくは音楽に詳しくないから」
 レックスが残念そうな顔で「そう」と言った。

〈デルガド ハ アナタ ニ 最高 ノ 時間ヲ〉

 テレビに映る静止映像が不動産取引を持ち掛ける。安っぽいBGM、安っぽい書割のビーチ。筋骨隆々、胸毛がカールした俳優が笑みを浮かべ、どこからともなくすらりとした肢体の女優があらわれ、俳優と抱き合う。そして、甘いストリングスオーケストラが流れる。レックスは口に入った髪を指で引っ張り出し
「古いCMね。こういう風に撮ったのかしら?」
「古くなったんだよ。ぼくが子供の頃には流れていた」
「ニューヨークでも、こんなCMが流れるの?」
「カリフォルニアで放送しているテレビ番組が観たくて、個別契約してもらったんだ」
 レックスがボブロウの顔を覗き込み「どんな番組を観ていたの?」
「切り貼り漫画に声を足したアニメ」
「サウスパーク?」
「違うよ。政治的なジョークはなかった。タイトルは忘れたけど、色んな動物たちの家族の話」
 シーツにくるまったレックスが剥き出しの右腕を振り、薄桃色の腋が見えた。
「家族、好き?」
「好きも嫌いもない。ぼくには父さんだけだし」
「ママは?」
「これまでママと呼べる人は何人もいたけれど、一度もママと呼んだことがない。どういうものなのか、わからないんだ」
「パパとは?」
「関係は悪くないよ。でも、父さんは結婚とか、家族に向いていない人なんだ。ビジネスと恋愛を燃焼剤にしている。そういう意味で、ぼくは邪魔者だったと思うけれど、不思議と邪見にされたことがない。子供の頃、父さんと一緒に仕事をすることが夢だった。二人でキャッチボールをしたことすらないのにね。大学で首席になれず、途方に暮れた。仕事はマイクが声を掛けてくれたからなんとかなったけれど……」
 レックスがボブロウの手を撫でた。力仕事など一度もしたこともない、弱々しい手を。
「あたし、物心がつくと、自分が変わり者だってことに気が付いた。パパやママ、弟のマルセル、まわりの親戚たちとも違う。皆、敬虔。言いつけられたことに背くことがどれだけいけないことかっていうことを、うんざりするほど聞かされた。どうして、いるかいないかもわからない神さまの言葉を信じるの? あたしにはわからない。わかりたくもない。だから、あたしは見返してやる。狭い世界でよろしくしている家族をね」
 レックスは糸が切れた人形のようにボブロウの腕に頭を落とした。ボブロウはテレビの音量を切った。無声テレビの空疎な身振りが展開された。

 暗闇の中、腕の痺れで目を覚ましたボブロウはレックスの頭の下に枕を置くと、シャワールームに向かい、すっかり乾いた下着を履き、微かに湿り気が残るシャツを着た。ボブロウは濡れタオルで黒のスーツを拭くと袖を通し、ネクタイを緩めに締めた。

 静寂の中、モーテルの前に立つ看板が淡い光を放っている。ボブロウは音を立てずに外に行くとセビルに乗り込み、睡眠用アイマスクをとり出そうとダッシュボードを開けた。すると、ブッチが忘れていった紙巻き煙草の箱が落ちた。ボブロウは逡巡したものの、口の開いた、湿気た紙巻き煙草を一本とり出し、シガーソケットで火を点けた。一酸化炭素、ニコチン、タール、フェノール、ベンゼン、ナフタリン硫黄化合物、シアン化水素といった、合計で四〇〇〇を超える有害物質が肺を駆け巡る。ボブロウがつぶやく。
「ぼくは食品添加物を知っている。ぼくはギターの弾き方を知らない。ぼくは煙草の吸い方を、たった今、知った」

 朝、ボブロウはセビルの窓ガラスがノックされたことで目を覚ました。窓の外にはレックスのふくれっ面が見えた。ボブロウがパワーウィンドウを下げると、レックスが
「いなくなっちゃったんじゃないかと心配した」
「支払いは済ませてあるから、大丈夫だよ」
 レックスが顔を近付ける。彼女の身体からは牛乳のような匂いが漂っている。
「そういうことじゃない。そういうことじゃないの。ボブ、いい? いくら他人であっても、お別れするまではいなくなったりしちゃ駄目」
「お別れするつもりはなかったよ。ただ……」
「ただ?」
「君は未成年だろうけど、ぼくだって男なんだ」
 腰に手をやったレックスが「それは、あたしが魅力的って意味?」
「お互いを傷付けるだけだよ」
 腕を伸ばしたレックスがボブロウのネクタイを引っ張り
「あたしが見返したい奴が一人増えた。いつか、あなたがこんな馬鹿げたことを言ったことを後悔させてやるんだから」
 言い終えたレックスがネクタイから手を離し、ドアを開けて助手席に座った。
 
 セビルは州間高速道路七〇号線からユタ州を突っ切る州間高速道路一五号を駆ける。眠たげな直線。ボブロウが慣れない手つきで紙巻き煙草に火を点ける。レックスが言う。
「煙草吸うんだ」
「身体に悪い?」
「えぇ」
「身体に悪いものは嫌い?」
「そうね。何が言いたいの?」
「ブッチが聞いたんだ。身体に悪いものは嫌いか? ってね」
「あなたは何て答えたの?」
「うん、って」
「それで、ブッチは何て?」
「えぇっと、ハンバーガーなんてもってのほかで、デンプンとか炭水化物、脂なんか死にたい奴しか食べられない。だったかな? その時、ハンバーガーを食べていたんだ」
 レックスが笑い、かたくなった腰をよじって、背中を伸ばした。ボブロウが「そうだ、思い出した」
「あなたの旅の理由?」
「違うよ。思い出したのは、ブッチの歌」
「へぇ、聞かせて」
 ボブロウは喉ぼとけを触り、咳払いをして口を開く。
 
 丘を越えると、君の家がある。
 羊の群れを横切って、半神たちとジャムをして
 落ちてきた星を拾うんだ。

 丘を越えれば、君の家がある。
 トウモロコシ畑を通り過ぎたって、紫色の雌牛なんかいない。
 ハイウェイマンたちと賭け事しよう。

 丘を越えれば、君の家がある。
 大きなお尻の番人が通せんぼ、構わない。
 ぼくは迂回する。ただ、それだけ。

 丘を越えると、君の家がある。
 舞い上がってラッパを吹く子どもたちとジャムをする。
 ページがめくられ、行先が告げられる。

 すり鉢みたいな勾配をまっさかさま。
 今度は十字路でブルースを教わるんだ。
 待っているよ、待っている。ずっと。

 開け放たれた窓からだらりと垂らす手を引っ込め、頬杖をついたレックスが
「いい歌だと思う。でも」
「でも?」
 レックスが前髪、妙に伸びたもみあげを撫で、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ボブ、歌手は向いてないんだなって」
 ボブロウは大きく息を吸い込んで吐いた。

 ユタ州特有の乾いた空気、背広から漂う埃。昨夜、ボブロウとレックスが使った合成石鹸の安っぽい匂い、お互いが持つ、個体識別するには弱々しい体臭。微かな匂いは鼻孔を通り、嗅細胞によって電気信号に変換され、脳へと伝えられる。そして、現実の微細な震えは取るに足らないものとして忘れ去られてしまう。レックスが言う。
「あたし、家族とうまくいかなかったから、部屋で映画を観たり、音楽を聴いて過ごしたの。多分、インターネットがなかったら、自殺していたんじゃないかと思う。ネットはいいところも悪いところもある。でも、知りたいと思えば、なんだって知ることができる。爆弾だって作れるんでしょ? 調べたことないけど」
「調べなくて正解だよ。NSCのブラックリストに入るだけ」
「あたし、画面の向こう側に行ってみたいと思ったの。手始めに自分を撮ったりしてね」
「裸になったの?」
「……ボブがそういうのが好きだってことはわかった」
「違うよ」
「何が違うの?」
 風がレックスの髪を揺らす。Tシャツがはためき、レックスの乳房が膨らんだように見えた。レックスが「スクリーン、画面の向こう側に行きたいと思ったこと、ある?」
「スターになりたいと思ったことはないよ。ぼくはこんな性格だしね」
「暗い性格?」
「うん」
「でも、悪い人じゃない」
「それ、褒めてる?」
「えぇ」
「ぼくはスターみたいに輝いたり、父さんみたいに先見の明があるわけでもない。薄めたもの。きっと、薄めたものだから、レックスには悪い人じゃないと思えるんだ」
「消極的ね」
「事実を言っただけだよ」
「事実? 大学で首席がとれなかったとか、友だちが自殺して悲しいとか、妙な歌手とドライブしたとか、出来のいいパパがいて心苦しいとか?」
「そうだね。事実」
 レックスが座席の上であぐらをかく。ショートパンツの隙間から下着と、恥丘の緩やかなカーヴが見えたものの、ボブロウは見て見ぬふりをした。レックスが言う。
「あなたは事実を言っているかも知れない。でも、大切なことを見落としている。わかる?」
「大切なこと?」
「えぇ、そう。とても大切なこと」
「なに?」
「それ、あたしの口から言わせる?」
「うん。聞きたいんだ」
 大きな溜息をついたレックスが「じゃあ、言わない」
 片手でハンドルを握るボブロウは、空いたほうの手で煙草の箱をまさぐって、紙巻煙草をとり出すとシガーソケットで火を点けた。眉をひそめたレックスが
「それがあなたのしたいことってわけね。いいわ、我慢してあげる。でも、肺がんになるのはあなただけにして」

——米軍、ホルムズ島を制圧  ニューヨーク・タイムズ紙——


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。