ノミのサーカス

連載第13回: 一八時二五分、停止なし

テーブルにロースト・チキンとフライド・シュリンプ、コールスロー、並々と注がれたダイエット・コーラが置かれると、ダーシーは黄ばんだ歯を打ち鳴らした。ダーシーは乳白色のプラスチック製フォークやナイフに目もくれずにロースト・チキンの骨を折り、肉に齧りついた。ダーシーはフライド・シュリンプの尻尾を嚙み砕き、コールスローを指で弄んだ。舌打ちしたダーシーがドアの前に立っている男に向かって
「ニンジンを入れるなって言っただろ? お前ぇのせいで台無しになっちまった」と言うと、ニンジンの切れ端を床に捨てて紺色のズック靴でニンジンを踏みつけた。男は制帽に手をやり、小さく舌打ちした。ダーシーはダイエット・コーラを、喉を鳴らしながら飲み、ロースト・チキンを舐めるようにしゃぶった。灰色の脛腓骨が露出した。ダーシーは肉がついた大腿骨を振りながら
「まぁ、いい。今日は許してやるよ」
 男は答えず、無機質なアスファルトが塗られた床を見た。

 食事を終えたダーシーは調子が外れた鼻歌を歌っている。脂まみれの手はオレンジ色に染められた服で拭き、両手の指を振った。指を鳴らしたダーシーが言う。
「食後の一服はないのかい?」
 男は壁にかけられた禁煙マークを指差した。舌打ちしたダーシーが
「お前ぇの胸のポケットはなんで膨らんでいるんだ?」
 男は大きなため息をつくと、黄色と黒に印刷された煙草の箱と安物のライターをテーブルの上に置いた。口笛を吹いたダーシーが箱から煙草を一本とり出して火を点けた。尾を飲み込む蛇のように輪状に吐き出された煙は、精神の奥底に積もって忘却される記憶と同じように消えた。ダーシーはテーブルに両足をのせると首を撫でた。半袖の黒いシャツとズボン姿の教誨師が部屋に入ってくると、隅で立っている男が制帽を撫でた。教誨師が口を開いてもダーシーは薄ら笑いを浮かべていた。

 廊下にブーツの重々しい音が響く。壁の片側には赤いペンキが床と平行に塗られており、延々と伸びる動脈はミニマル・アートのように示唆的に見える。ドアの前に立つ看守の前で足を止めた老人は真っ白の顎鬚を撫で、カウボーイハットのつばを撫でた。看守が「やぁ、エミール。わざわざすまない」と言って、手を出すとエミールが看守の手を握った。
「立ち合い人が、急遽、ダメになったんだ。ところで、痩せたように見えるけど、調子は?」
 エミールはループタイの金具を引っ掻き「心臓に手を入れられていいわけない」
「病気なのか?」
「もう治った」
「なんの病気だったんだ?」
「心臓だ。医者はチューブを入れると言っていたな」
 看守が「ハートは大事にしたいもんだ」と言い、エミールは胸につけたローンスターを指差した。看守は親指を突き立てるとドアを指し
「今、中で坊さんが話している。もう少しで終わる……まったく、無駄なことだよ」
 エミールはカウボーイハットのつばを撫でると「改心するには遅すぎる」
「そう、まったくその通りだ。興味本位で一つ聞くが、今まで生きてきたうちで一番悪いことはなんだ?」
「……殺しだろうな」
「あんたの場合は仕事だ。そうじゃない。車を盗んだとか、そういうやつだ」
「それを聞いてどうする?」
「ただのお喋りだとも。看守は手持無沙汰、暇な時間が多いんだ。暇潰しばかりを考えちまう」
 エミールは顎鬚と口髭に触れ、目尻から頬骨にかかる一筋の皺が揺れた。
「ガキの頃、鶏小屋の世話が日課だったが、そこで飼葉の上で煙草を吸った」
「それだけか?」
「鶏小屋が燃えた」
 看守は鼻先を撫で「クリスマスを先取りしたな。それとも、イースターか?」と言ったが、エミールは答えなかった。看守が首を捻るとドアが開き、教誨師が顔を出した。エミールが言う。
「どうだ?」
 教誨師は黒く輝くボタンに触れ「言うべきことは言いました。それだけです」と言い、看守が
「あんな奴にもったいない」と言った。エミールはため息をつき
「言いたいことは理解できるがな。ご苦労様」と言って、教誨師の肩を叩いた。

 エミールと看守が部屋に入ると、ダーシーは煙草を吸っていた。床には吸い殻が落ちていた。
「掃除はお前がしろよ」と看守が言うと、ダーシーは口笛を吹いた。エミールは腰に手をやり
「時間だ。さっさと立て」
「デザートの注文はできねぇのかい?」
 看守が「戻ってからにすればいい」と言い、ダーシーがひとりごちた。カウボーイハットのつばを撫でたエミールが顎を振った。立ち上がったダーシーは手をヒラつかせ、両手を差し出した。エミールが言う。
「手錠はしない」
「寛大なレンジャーに感謝感激さ」と言ったダーシーが薄ら笑いを浮かべた。

 廊下を歩いている間、ダーシーはペンキで赤く塗られた線に触れていた。廊下にはエミールの重々しいブーツの音、合間にダーシーのズック靴がペタペタという音を立てる。立ち止まったダーシーがズック靴の靴底を見た。
「すっかり、古くなっちまった。新しく買わなきゃな。ここじゃあ、おれは顔が利くんだ。安く手に入れることができるんだ」
 エミールはカウボーイハットのつばを撫でると「さっさと歩け」と言い、ダーシーが口笛を吹いた。
「そういや、お仲間の具合はどうだい?」
 目を細めたエミールが「ベンジーは退職した」と言うと、首を振ったダーシーが
「目玉を一つ潰してやったからな。もう一つもと思ったら」と言い、左肩を指差した。
「ところがどっこい、お前ぇに止められちまった。なぁ、今の気分はどうだい? 最高の気分かい?」
「お前こそどうだ?」
「おかげ様で晴れやかなもんさ」
 喉を鳴らしたエミールが「歩け」と言った。

 一面が緑色に塗られた部屋に入ると、ダーシーはおどけた態度でガラス窓を見た。窓の外には正装した人々が椅子に腰掛けており、彼らは演奏会の開演を待っているように見えた。椅子に腰掛けている老人が憤怒で蝋人形のように引きつった顔のまま写真を掲げ、ダーシーがウィンクした。三人の看守たちがダーシーを寝台にベルトで縛り付け、オールバックスタイルに黒縁眼鏡をかけた白衣の男がダーシーの腕、静脈を確認すると鎮静催眠薬のペントバルビタールを投与した。緑の部屋に一人で残されたダーシーは喉を震わせながら、消え行く鼻歌を歌った。一〇分ほど経ち、心血管と呼吸器系が抑制されたダーシーは一切の不安や悩み、煩わしさを取り除かれたといった顔で動きを止めた。
 緑の部屋に入った白衣の男がブローバ製腕時計、アキュトロンⅡの文字盤を眺めた。一年で一〇秒しかずれることのない高精度、クォーツムーブメントが使用された斬新なデザインを見た白衣の男は真面目な顔でうなずくと、エミールと三人の看守たちが部屋に入った。ダーシーは寝台にのせられたまま二人の看守によって運び出された。一人、残った看守が言う。
「やっと終わった。これで帰れる。せいせいしたよ」
 エミールは窓ガラスに近付いた。窓の外で腰掛けている人びとの翠や青、茶色い瞳にエミールの姿が映し出された。カーテンを閉めたエミールが
「いいや、終わらない。死ぬまでな」と言った。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。