ダラス空港に到着したボブロウはダチョウの卵を三つ並べたようなターミナルCを歩き進み、ダラス高速運輸公社、オレンジラインに乗り込んだ。オレンジラインに乗る人はまばら。ダラス・マーベリックスの帽子をかぶった乗客が抱擁するように新聞を大きく見開きながらぼんやり顔で文字を眺めていた。対面に座るボブロウからはイラン海軍がホルムズ海峡を封鎖したという一文が見えた。ボブロウがあたりを見る。乗客たちは疲れた顔を浮かべているか、目を瞑ったまま音楽を聴いているか、怒った顔でSNSに思いの丈をぶちまけている。外界から遮断された車内で物体が等速度運動する。
(どうして、あんな真似をしたんだい? ぼくは何をすべきだと思う? 君は人生を簡単に放り投げてしまった。まるで、人生には意味がないとでも言うみたいに。君みたいな人の人生に意味がないと言うのなら、ぼくの人生にはもっと意味がない。人生の意味?)
問いはリトマス試験紙に浮き出る反応のように淡く立ち現れては消えていく。
モナーク通り四六九九。芝生が植えられた前庭は広々としており、庭の隅にサクラとフジが植えられていた。緩やかな石階段をのぼり、前庭を歩くと白塗りの平屋があらわれ、小さなポストには〈ナタリー、フランク、アイヴァ〉とタイプされていた。ボブロウは親指と人差し指でネクタイを直すと呼び鈴を鳴らし、虫が羽を擦らせるような音が聞こえた。少しすると、ドアが開き、ブロンドでくせっ毛の中年女性があらわれた。
「どちら様?」
「ウィリアム・ボブロウです。マイクの秘書をしていました」
中年女性が髪をかき上げ、小さく溜息をついた。吐息からはアルコールの臭いがした。中年女性が
「あがって」と言った。ボブロウがまごついていると、中年女性は腰に手をやり
「あがって頂戴。もしかして、ずっと立っているつもり?」
ボブロウは観念したような顔で家に入った。居間に貼られた壁紙は花柄だが、黄ばんでおり、所々が破れていた。「座って」と促されたので、ボウロウは灰色のソファに腰掛けた。中年女性は冷蔵庫の中からコーヒー豆をとり出し、目分量で豆をコーヒーマシンに放った。ガリガリという耳障りな音が居間に響いた。ボブロウは壁に画鋲で留められている写真を見る。最近撮られたものだろう写真には中年女性と、中年男性、小さな女の子が写っている。隣には軍服に身を包み、口髭を生やした首の長い青年の写真が貼られている。ソーサーとカップを受け取ったボブロウは湯気の立ち上るコーヒーを飲んだ。愛国的な薄味だった。中年女性が対面に腰掛け、口を開く。
「こんなことになると思っていた」
ボブロウはジャベスから聞いていた家族の話とかけ離れた現実に混乱していた。
「マイクから聞いていた? いいえ……身持ちの悪い母親のことなんて口に出さないわよね」
ボブロウは自身の血流を確認するように首に触れる。「日曜日が嫌いだったと言っていました。特にバケツみたいに大きなレモネードや紙パックに入ったアイスクリームが。でも、お祖母さんが焼いたクッキーは好きだと」
中年女性は力なく笑い、思い出に浸った目つきで「あの頃は幸せだった。ママも生きていたし。あたしはこの家で生まれ育った。スティーヴはすぐ近くに住んでいたの。あぁ、スティーヴはマイクの父親。でも、マイクが生まれる前に戦死した。スティーヴの父親の話は聞いた?」
「耕運機を改造して……逮捕されたということは」
「ろくでなしよ。九〇歳をとうに過ぎているのに、未だに死ぬ気配もないし、病気一つしない。あいつがスティーヴとマイクの時間を奪い取ったの。そうに違いない」
しばらくの間、沈黙が続いた。はじめのうちこそ、ボブロウは戸惑いを感じたが、今では目の前で座る、ジャベスの母親であり、未だ名乗っていない、おそらくナタリーという中年女性に対して、ある種の憐れみを感じていた。中年女性は手をヒラつかせると「ちょっと前までは、ひどいものだったけれど、フランクと結婚して、アイヴァが生まれてからは少しマシになった……これでもね」と言った。彼女の笑みは卑屈で、ボブロウはいっそう憐れみを感じた。
「マイクは大学に入ってから電話を寄越さなくなったけれど、毎年、バースデイカードを送ってくれたの。見る?」
「えぇ」
「ちょっと待っていて」
そう言うなり中年女性はソファから立ち上がり、居間を歩き去った。くたびれ、すり減ったスリッパのペタペタという音が聞こえた。ボブロウは窓の外を見た。隣に建つ三階建てのアパートはピエト・モンドリアン風の現代的な建築物だった。五分ほどすると中年女性が小さな木箱を大事そうに小脇に抱えながら居間にやってきた。中年女性はテーブルの上に木箱を置いた。木箱には蛍光色の恐竜のシールが至る所に貼られている。ふたを開けると、絵ハガキがぎっしりと詰め込まれていた。圧縮され続けた絵ハガキは外界の空気に触れたことで膨らんだように見えた。中年女性が絵ハガキをテーブルに次々と並べていく。その表情からは楽しげなものが見てとれ、先ほどに比べると、幾分、若返ったように見えた。ボブロウは絵ハガキを見る。理路整然とした神経質な文字は空間を埋めるように敷き詰められており。それらは絵の合間に書かれているので、エドワード・カミングスの詩のようだった。ボブロウは絵ハガキを一つずつ丁寧に読み、読み終えるとテーブルの上に置いた。
「妙なことを言うかも知れませんが……これまで、ぼくはマイクのことを孤独な変人だと思っていました。彼がひとりぼっちじゃなかったとわかって、安心しました」
ボブロウはコーヒーを飲み干すとカップをテーブルに置き「ご馳走様でした。貴重な時間をありがとうございます」と言ってソファから立ち上がった。
「もう帰るの?」
「えぇ、満足しました」
ボブロウが家を出ると、通りの反対側に黄色いスクールバスが停まるのが見えた。スクールバスからは栗色の髪をした女の子が通りを横切り、ボブロウに向かって歩いてくる。前庭を歩きながらボブロウは隅に植えられているサクラを見る。
「ボブ、君はサクラを知っているかな?」
「子どもの時には毎年、セントラルパークで見たよ」
「素晴らしい。では、サクラ染めは?」
「それはなんだい?」
「布や服をサクラ色に染めるものだよ。サクラ染めは何から作るかわかるかい?」
「サクラ色になるのだから、花を絞るんじゃないのかな」
「普通はそう思うだろう。だが違うんだ。まず、花が咲くより前に枝を切る。枝は小さく刻んで水に浸す。火にかけ、冷ます。これを一か月繰り返す。その後、椿灰と酢を混ぜたら煮立たせるんだ」
「その口ぶり、もしかして実験した?」
「もちろん。家の庭にサクラが植えられていたんだ。サクラは病気に罹りやすいから、枝を切るのはやめたほうがいいんだけどね。やらない手はない」
サクラに見とれていたボブロウに向かって発せられる声。我に返ったボブロウの前には栗色の髪をした女の子が立っている。女の子は背こそ低いものの眼光には鋭いものがあり、利発そうな顔をしていた。
「ウチに何か用?」
「もう済んだよ」
「マイクのこと?」
「……君はマイクと会ったことがあるのかい?」
「ない。会ったことはないけれど、凄く優秀だって、ママが言ってた。あなた、マイクの友だち?」
「そう。それで、秘書でもあった」
「秘書ってどんな仕事をするの?」
「話し相手。彼は自分で何でもできたからね」
「自分でできるのに、あなたが必要? どういうこと?」
「ぼくが聞きたいぐらいだよ」
女の子は僅かに首を傾げ、人差し指で顎の下をなぞった。
「変だけど、あなた悪い人に見えない」
「ありがとう」
女の子が「それじゃあ」と言って芝生が植えられた前庭を歩いていくと、ドアを開け、白塗りの平屋に入った。
モナーク通りを通り過ぎてロス・アベニューに差し掛かると、黄色い看板が見えた。看板には〈アレン・モーター社〉と書かれており、看板の下には黒マジックで〈異星人モーター社〉と落書きされていた。金網の内側にはピックアップトラックがずらりと並んでいる。ボブロウは吸い込まれるように〈異星人モーター社〉に入った。〈異星人モーター社〉の事務所の中では薄茶色のハーフパンツに横縞模様のTシャツを着た、太った中年男がラジオを聴きながら競馬新聞を読んでいた。ボブロウの姿を見た中年男が気だるい様子で身体を揺らした。
「何の用だ? 営業ならお断りだぞ」
中年男は壁にセロハンテープで留められた、脅し文句のように見える一文を指差した。
——口先野郎は北部に帰れ——
中年男が不機嫌な顔で「北部人が何の用だ?」と言った。ボブロウが言う。
「車が欲しいんだ」
「へぇ、それで?」
「北部人に車は売れない?」
中年男が新聞を乱暴に畳むと机に置き「車次第だ……ついてこい」と言って身体を揺さぶりながら立ち上がると、事務所を出て行った。ボブロウは後ろを歩いた。ボブロウは中年男の後ろ姿を見ている。のっそりとしているが広々した背中。サンダルを履き、白い靴下は妙に長い。中年男は歩きながら手をヒラつかせ「ここらはピックアップトラックだ。おれみたいに馬力がある」
「運転しづらそうだ」
「すぐに慣れる。カミさんと同じだ」
「小さいものでいいよ」
中年男が舌打ちして「北部人め」と毒づくのが聞こえた。青い車体を指差したボブロウが
「あれは?」
「セビル。キャディ、キャデラックって言えばわかるか?」
「どういう車?」
「おれと同い年の年代物。オイルショックが起きると、キャディも今までみたいに作っていられないってことに気が付いた。デビル、シリーズ五九、エルドラド……どれもいい面構えだったのにな」
ボブロウは青いセビルの車体に手を伸ばした。車体は光沢があり、澄み切ったメキシカン・ブルー。フロントは無骨で、しかめっ面をしている。ボブロウが言う。
「いくら?」
「オンボロだぞ」
「気に入ったんだ」
「そりゃ、キチンと走るようには整備したし、問題はないが、本当にいいのか?」
「気に入ったんだ」
「後で、気に入らないからと返しにきても引き取らないぞ?」
「そんなことしない。ダラス生まれの友人の名にかけて、約束するよ」
中年男は目を細めて顎に手をやると「そいつはテキサス人か?」
「そう。モナク通りの家で育ったんだ」
「モナーク通りだ。しかし、随分と近いな。誰だ?」
「マイク、マイケル・ジャベス」
「スティーヴの息子か?」
「スティーヴという人は、よく知らないけれど、多分」
中年男がうなずきながら「人生ってものはわからん。スティーヴとおれは同じ小学校だった。あいつの親父、〈耕運機〉のことは聞いたか?」
「マイクから聞いたよ。ドラッグ製造機に改造して逮捕されたって」
大笑いしながら中年男がボブロウの肩を叩いた。
「とんでもない爺さんだよ。でも、スティーヴは一人前の男だった。戦死しなきゃ、名の知れた男になっただろう。ところで、スティーヴの息子、お前さんが言ったマイクだが、死んだんだろう?」
ボブロウは声を詰まらせ、咳払いした。
「事故死した」
中年男は鼻先を撫でると「あいつが小僧っ子だった時、通りを三輪車で走るのをよく見掛けたもんだ。まったく、人生はわからんな」
ボブロウは空を見て、それからセビルを見た。水平線と地平線が溶けたような青色だった。
「それで、これはいくらで売ってくれるんだい?」
「一五〇〇、と言いたいところだが、一〇〇〇ドルでいい」
「値引きの理由は?」
「気分だよ。ちょっとばかり、センチになったのかもな」
「クレジットカードは使える?」
「あぁ、IDは持っているか?」
「持っている」
「それなら事務所に来て、書類にサインしてくれ」
ボブロウが中年男に促されるままに事務所に行くと、中年男は肘掛け椅子に腰掛け、引き出しから書類を一枚とり出して机の上に置いた。
「それにサインしてくれ」
「これだけ?」
「他に必要なものがあるのか?」
「ないの?」
「あるかも知れないし、ないかも知れない。それでも、咎められたことがないのは折り紙つきだ」
ボブロウが書類にサインをすると、中年男が埃をかぶったクレジットカード読み取り機をとり出した。中年男は慣れない手つきでデスクトップパソコンを操作している。ボブロウは白茶けた壁紙を床から天井まで見上げると、壁には〈アメリカを再び偉大に〉と刺繍された赤い帽子がかけられていた。
「トランプを支持したのかい?」
中年男はパソコンの画面を横目に言う。
「おまえさんたちは、この国が変わると思ってオバマに投票しただろう? 結果はどうだ? 何か変わったか? おれはトランプに投票した。結果は? ご覧の通りだ。まるで変わらない。相変わらず中国製品が幅を利かせている。おれの叔父はヒンデズールで製材所を経営していた。昔気質で、ビジネスなんてものを知らない、大らかな男だった。おれが尊敬していたように、まわりの連中だって尊敬していたはずだ。それでも、中国からやってくる安い材木に歯が立たずに破産した。時代の流れ? 資本の原理? ここはアメリカだ。中国じゃない。アカに負けるわけがない。そうだろう?」
ボブロウは答えることができない。これは中年男の言葉から重苦しいものを感じ取ったというより、混乱した思考、言葉に答えることができなかっただけだが、肯定されたと感じたのだろう、中年男は満足気な顔で「テキサス人が負けるはずがないんだ」と言って自動車の鍵を差し出した。
「ありがとう」
「買ったのはお前さんだ。近くでガソリンをいれるのを忘れるなよ?」
「わかった。ありがとう」
「出る時に、ちょっとでも擦ったら容赦しないからな」
「気を付けるよ」
ボブロウがノーズランド通りのエクソン・ガソリンスタンドで給油していると、駐車場では背の高いアフロ・アメリカンが通り過ぎようとしている人々に向かって声を掛けているのが見えた。給油を終えたボブロウと目が合う。アフロ・アメリカンが近付いてきたが、ボブロウは身構えずに茫然と佇んでいる。やがて、目の前にきたアフロ・アメリカンが灰色の上着の胸ポケットから名刺をとり出した。ボブロウは名刺に印刷された文字を見る。
——ベン・キンバレン 警察牧師——
キンバレンの頭部は卵型で、髪は短く、縮れている。手足は細長く、仄かに大地の匂いを漂わせている。キンバレンが言う。
「ベン・キンバレン。名刺の通り、警察牧師をやっている。君、名前は?」
「ウィリアム・ボブロウ」
「いい名前だ。どこから来たのかな?」
ボブロウは緩めたネクタイのコブを撫でながら
「ベセスダです。メリーランド州の」
キンバレンが探るような目で「それはどうして?」と尋ねた。非の打ちどころがない発音だった。ボブロウは頭を掻き
「亡くなった友人の家族を訪ねに来ました」
キンバレンの眉が僅かに下がる。
「友人の名前は?」
「マイク、マイケル・ジャベスです。ですが、マイクは無神論者でした。だから……」
「神の言葉は必要ないと?」
「えぇ、そうですね……必要ないと思います。それで、何の用ですか?」
首を傾げたキンバレンが駐車場を見つめながら「昨夜、そこで拳銃強盗殺人があったんだ」と言った。
「それはぼくに関係がありますか? ぼくはダラスに来たばかりで、拳銃だって持っていない」
キンバレンは宥めるような態度で「君を疑っているわけじゃないんだ。もし、そう聞こえたのなら謝罪させて欲しい」
「謝罪だなんて、そんな……」
「不快にさせたことを謝罪させて欲しい。申し訳ないと思っている」
沈黙、上空をカラスが飛び去る。キンバレンが言う。
「四十八時間以内に情報が得られなければ事件の解決は絶望的なんだ。犯人が逃亡してしまうし、目撃者は一生、口をつぐんでいようと決めてしまう。犯人を捕まえることは私の仕事ではないにせよ、帰りを待っている家族に報せてあげたい」
「家族に会って、何を話すんです? 殺されたことに変わりはないのだし、徒労に終わるだけでしょう?」
「心はどんなものよりも傷つきやすい。そして、一度傷ついてしまうと修復するのは容易なことじゃない。犯人が逮捕されたとして、犯人が死刑か終身刑になったとしても被害者の家族たちの傷は治らない。だからこそ、彼らの話を聞くぐらいはしたい。私の話をしよう。私には息子がいた。どこにでもいるような青年で、私と同じように何かに秀でていたわけじゃない。普通の子だった」
「だった?」
「五年前、ここから二ブロック離れたアパートに住んでいた息子は、夜、買い物に出掛けた。小腹が減っていたんだろう。コンビニエンスストアで冷凍パスタとチョコレート・クランキーを買った。通りを歩いていると、警察官から職務質問された。君は一人で歩いている時に職務質問されたことはあるかな?」
ボブロウが首を横に振る。
「調書によると、息子は警察官に罵声を浴びせた挙句、殴りかかったそうだ。当然、警察官は息子を取り押さえた。警察官が無線で応援を呼んで、応援が駆け付けた時には息子は死んでいた」
ボブロウは黙っていた。彼は言葉を探していたが、見つかりそうになかった。キンバレンが口を開く。
「息子を殺した警察官を恨んだ私は拳銃を買って、その警察官を殺すことを計画した。いよいよという段階になった時、ふと、その警察官のことを何も知らないことに気が付いた。私は新聞を読み直した。少し調べると、警察官はアントン・パイクという名前の三八歳の白人で、住所はSNSから容易に想像できた。それから、非番の日を推測すると自動車に乗り込み、彼の家の前まで行った。彼は離婚していたが、娘と暮らしていることを知っていたので、自動車の中で彼が家から出てくるのを待った。一時間ほどすると、彼が出てきた。起きたばかりなのだろう。髪の毛はボサボサでジャージ姿。だらしない姿だった。自動車を降りた私は彼に近付いた。彼の顔にはひどいクマができていた。思わず〈大丈夫ですか?〉と聞いてしまった。彼は絞り出すような顔で、〈不眠症がひどくて〉と言い、私の顔をまじまじと見た。彼は、私が誰なのかわかったのだろう。驚いた顔をした。その時、家の中から彼の娘がトカゲのぬいぐるみを抱いたまま出てきた。彼は怯えていた。何か言おうとしていた。私にも言いたいことは山ほどあったが、何も言わずに彼と抱き合って泣いた。偶然が重なった結果、私は殺人者にならずに済んだ。それでも、私のような人間は沢山いる。だからこそ、少しでも力になりたいんだ」
ボブロウは言葉を探す。言語野の中を微弱な電気信号が駆け巡るが、適切な言葉はあらわれず、絞り出されたのは「そうですか」という素っ気ない言葉だけだった。キンバレンが筋張って細長い手を差し出すと二人は握手を交わし、キンバレンは駐車場に戻った。ボブロウは給油を終えて息巻いているセビルに乗り込んだ。
空に溶け込むような色のセビルがフリーウェイにのる。等間隔を維持する自動車はチェスの駒のようにも、アリのようにも見える。直線、緩やかなカーヴ、曲がりくねった道。車列は脳を持たずに生に執着するアメーバのように伸びている。ボブロウが路肩に目をやると斑色の腕が振られていた。タンクトップにカウボーイハット、デニム生地のジーンズ、履き潰したブーツ。左手にはギターケース。ボブロウはセビルを路肩に停め、窓を開けると顔を出して叫ぶ。
「こんなところを歩いちゃ駄目だよ!」
「オースティンだ!」
「なんだって?」
「オースティン! えぇい、クソ! 聞こえないぞ!」
斑色の腕をした男がセビルの助手席に乗り込んできた。男は前方を指差し「おれはオースティンに行かなくちゃならない。どこまで行ける?」と言うと、ボブロウが半開きの口から「目的地はないんだ」という言葉を絞り出した。男が眉をひそめた。
「ドライブか?」
「そんなところかな」
「名前は?」
「ウィリアム・ボブロウ」
「芸名か?」
「本名だよ」
「そりゃ失礼。おれはジョン・フレイザー」
「よろしく、ジョン」
「ブッチって呼んでくれよ」
「どうして?」
「ステージでの呼び名だからさ」
「ミュージシャン?」
「そうさ。証拠を見せろって言うのなら、ここでギターを弾くけど、どうだい?」
頭を掻いたボブロウが「遠慮しておくよ」と言い、ブッチは残念そうな顔で
「後で聞かせてやるよ」と言った。
——アメリカ軍、バクダード国際空港を攻撃 ニューヨーク・タイムズ紙——
連載目次
- イタロ・マリネッティ記
- Q
- ルイジアナ・ホット・セブン
- ダラー・デイ
- ウィリアム・ボブロウ ~朝日のようにさわやかに
- セルロイドの塔
- ルイジアナ・ホット・セブン ~私を月に連れて行って
- イタロ・マリネッティ記 ~LAプレッパー
- ウィリアム・ボブロウ ~テキサス州ダラス
- ルイジアナ・ホット・セブン ~川走
- イタロ・マリネッティ記 ~ロスに唄えば
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅠ
- 一八時二五分、停止なし
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅡ
- 不戦試合
- ウェイク・レコード
- ルイジアナ・ホット・セブン ~テキサス州会議事堂前
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅢ
- イタロ・マリネッティ記 ~インターナショナル・プレッパーズ
- ウィリアム・ボブロウ ~ザ・パッセンジャーⅣ
- イタロ・マリネッティ監督、インタビュー ~インタビュアー、アンブローズ・ロック