ノミのサーカス

連載第7回: ルイジアナ・ホット・セブン ~私を月に連れて行って

上半身裸で地面に新聞紙を敷いたサブーの短く縮れた髪から水が滴り落ち、水滴が国際紛争調停官の顔写真に染み込んだ。青みがかって歪んだ顔の上にサブーは両膝を折ると、崇高な神の栄光を讃えるイスラム教徒のように頭を垂れ、ポケットから剃刀をとり出した。サブーは断頭台で落下する刃を待つ罪人のように敬虔で澄み切った顔で後頭部から側頭部へと剃刀を走らせる。木箱の上に腰掛けるヒックスがクロード・ドビュッシーによる弦楽四重奏曲のポケットスコアのページをめくり、ヴィオラパートを口ずさむ。無遠慮に降り注ぐ太陽光が、サブーの剃髪されたばかりの褐色の頭部を照らす。地面を覆うように生えるツキヌキヌマハコベのヘラ状の葉が揺れ、縮れた髪の毛の残骸が塵のように飛んだ。
〈クロックネック〉がやって来ると「他のみんなはどこに行ったんだい?」と言った。ヒックスはポケットスコアを胸ポケットに入れ
「ドナテロとジェフはメシを食いに行った。オーヴィルは練習しに行くとか言っていたな。ニッキーは女のところだ。あいつは州の全部に女がいるらしい。あのヒモ野郎」
「自由時間なんだ。別に、何をしたっていい。クラシックの譜面を見たって」
 ヒックスが喉を鳴らした。伸びをしたサブーが立ち上がって新聞紙を丁寧に折り畳んだ。ヒックスが
「それで、仕事は?」と尋ねると〈クロックネック〉が口笛を吹いた。
「お流れってわけだ」とヒックス。
「別に全部が流れたわけじゃないぜ」
「酷いもんだ。仕事が消えたことは一度や二度じゃないが、こんなことは初めてだ」
サブーが「逃げるようなものは、最初から手の中になかったものだ」と言い、舌打ちしたヒックスが
「運命じみた言い方は嫌いだ」
〈クロックネック〉は肩を竦めて「今回はツキがなかっただけ。次に期待すればいい」
「運が尽きている。この世が終わりそうだっていうのに、呑気に音楽を聴きながら酒を飲もうなんていう奴はどうしようもない馬鹿だ」
「ステージに上がれば、ツキだって戻って来るさ」
 木箱から腰を上げたヒックスは黄ばんだズボンの尻を手ではらい「どうだか」と言った。サブーはシャツに袖を通し、ボタンを留めながら
「いつだって、この世は終わりかけている。でも、終わったことはない」
 ヒックスは腰に手をやり、首を回した。
「おれにとって、世界はとっくの昔に終わっている。おれがカーネギーホールでハチャトゥリアンの『ピアノソナタ』を弾くなんてことは絶対にあり得ない。学校で言われたのは〈君はソウルかジャズを演奏したほうがいい。そのほうがしっくりくる〉……おれはその通りやった。だが、これだ。いい加減、潮時なのかもな」
〈クロックネック〉は指を鳴らし「それじゃあ、カーネギーホールを目指そう。揃いの燕尾服を着て、ガラスみたいにピカピカの靴を履く。最初の曲はハチャトゥリアンでいいし、アンコールはドビュッシー、ヴィヴァルディでもいい。アレンジはヒックスに任せるからさ。どデカいスタインウェイのピアノを真ん中に置いて、指揮をしてくれよ」
「ドサ周りのミュージシャンがあり得ない」
「あり得るさ。どんなことだってあり得る。現に今がそうさ。予想できないところにオチる。お決まりのコード進行じゃあ、満足できない。だろ? ヒックス、変化だ。物事も変化している。おれたちも」
 サブーは「オースティンは中止じゃない。向かうだけだ」と言って、グレイハウンドに乗り込んだ。〈クロックネック〉が口笛で『私を月に連れて行って』のメロディを吹く。顎に手をやったヒックスが
「シナトラのフレージングを聴け」と言った。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。