ノミのサーカス

連載第6回: セルロイドの塔

メナシェは木製パレットに白、黒、朱、黄土色の絵具を落とすとブリキのペン立てに無造作に放られた筆をとり出して筆先に絵具をつけた。メナシェはボサボサの髪を振り、額を撫でると壁に向かって絵具を擦り付けた。黒が混ざった黄土色は緑がかり、鍾乳石のように複雑な色合いの壁が厚みを増す。シルバーホワイトとリンシードオイルが塗られた非吸収性キャンバスの前で椅子に腰を下ろしたメナシェは少し離れたところで木製の丸椅子に腰掛けるデヴィッドを見た。デヴィッドの刈り込まれた髪に混ざる白髪は雪のように輝いている。デヴィッドが履いているコーデュロイのズボンはエチケットブラシで撫でられたことで細畝が綺麗に揃っており、白いシャツは汚れを感じさせなかった。デヴィッドは身体を動かさず、顎、唇だけを動かす。
「進み具合はどうだい?」
「見ていないの?」
「完成するまでは見ないようにしているよ」
「それは君が画商だから? それともパートナーだから?」
「ぼくが助言したとしよう。昔みたいにね。きっと、君は素晴らしい作品を仕上げるだろう。でも、それでは君自身が見つけるべき発見や驚き、アイディアを台無しにしてしまう」
「ぼくにだって意見は必要だ」
「もう必要ないよ。君は君自身のやり方を見つけている」
「ぼくは孤独だ」
「人は誰しもが孤独だよ。見て見ぬふりをしているだけ。でも、君にはぼくとジョエルがいる」
「姉さんが亡くなってジョエルを引き取った時、ぼくはどうしたらいいのかわからなかった」
「ゲイのカップルが子どもを育てるなんて不可能なことだと思った?」
「そう……そう。ぼくは子どもなんて考えていなかったし、そもそも、ぼく自身が子ども……大きな子どもだった。親らしく振舞うなんて到底、できそうになかった」
「そんな君がジョエルを毎日、スクールバスに乗せた」
「無我夢中だった」
「ジョエルの肖像画を描いたことは君のキャリアにとって正解だったけれど、それ以上に君とジョエルに必要なことだったと思う」
「あれは君が言ったことだよ」
「そうだっけ?」
「制作している時、奇妙に感じた。姉さんや父さん、母さん……見たこともないような人たちを感じた」
「遺伝? それとも魂や、そういった霊的なもの?」
「どれでもないと思う。視覚と記憶が混ざり合ったような感じ」
「貴重な体験をしたね」
「それは君も。ぼくが寝坊した朝、君はジョエルを自転車に乗せてスクールバスを追い掛けたことがあった。それまで、ぼくは君が乗り気じゃないと思っていた。なんというか……ジョエルに嫉妬しているように思っていたんだ。今思えば、考えすぎだったし、なにより、君への信頼が足りなかったと思う」
「多少は嫉妬していたよ。ぼくよりも彼のほうが君に近いからね。血縁は不思議だ。ぼくたちはそういうものと遠ざかって生きてきた。今でもそうだ。大して知りもしない相手から詮索されるのは苦痛だ。血縁というだけで、何を理解できると考えているのだろう?」
「ぼくの家系は血縁を大事にするんだよ。むしろ、大事にし過ぎていたと思うぐらい」
「そうみたいだね。まぁ、今では笑い話だけどさ。時が経つと、大体のことは笑い話になる」
「そして、消えてしまう。永遠に」
「君は違う」
「そうかな?」
「君の仕事は偉大なものだ。初めて君の絵が売れた時、ぼくたちは有頂天だった。それから、流行を意識した。ぼくは沢山助言して収集家や記者、評論家に熱心に売り込んだ。あのままでも良かった。金額はどんどん上がっていたし。でも、ジョエルがすべてを変えた。ぼくたちは初めて会った時に戻ったような、そんな感じだ。君はより無垢な前衛にいる。デ・クーニングやロスコ、ポロックといった古いタイプの前衛じゃない。形式はありふれているかも知れない。だけど、視覚、網膜ではない記憶の中に潜んだものを捉えようとしている」
「まるで評論家だ」
「画商は評論家でもあるからね」
 僅かに開いた窓から風が吹き込み、天井から垂れ下がる糸が揺れる。木製のクリップで留められたノートの切れ端に走り書かれたスケッチ、ピントがずれたポラロイド、頬を寄せ合う小さな証明写真、新聞記事の切り抜き、乾燥と湿潤を繰り返されて丸みを帯びた紙片たちが擦れて乾いた音を立てる。笑みを浮かべたメナシェが頭を振り、ボサボサの髪が揺れる。キャンバスには歪み、呆けた空洞がポッカリと口を開けていた。


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。