ニューヨーク証券取引所にほど近いトリプレックスのペントハウス。ガストン・ボブロウの背後には巨大なスクリーンが広がっており、ドル、ユーロ、日本円、現在、保有している銘柄のすべてが代わる代わる映し出されていく。グラフが動き、世界が巨体を動かす。ガストンが深縹のスクリーンに向かってレーザーポインターを照射すると、トロント在住の投資アドバイザーで髪を緑色に染めたパンクロッカー風の二三歳の天才、グレゴリー・チャンの半身が映し出された。チャンは食品添加物を一切含まないガムを噛みながら「日本円が下がりそうだよ」と言った。
「グラフを見た通りだな」
「どうするの?」
「全ての円を手放す」
 チャンの地毛と同じ色の眉が上下に揺れる。
「買い足すのは? こう言っちゃなんだけど、良い手とは思えないな」
「グラフにあらわれるのは、実体として浮かび上がる時は既に過去のものだ」
不満そうなチャンが「それじゃあ、ボクはいらなくなる」と言った。ガストンはヒューゴ・ボスのネクタイのコブを指でなぞり
「君は役立っている。君や、他の連中……君ほど優れていない年長の薄毛たちから指摘されることは重要なことだ。とはいえ、最も重要なことは先端を走ることだ。いつだって先端は正しいのだから」
「今、プレイしているゲームだと、最初に的にされちゃうね。先頭の旗振りなんて、いい的さ」
「それも正しい」
 チャンが観念した顔で「ボスの言う通りにするよ」と言った。チャンの映像が消えると同時にスクリーンから日本円が消え失せ、異変に気付いたAIたちがアルゴリズムに基づき投げ売りをはじめる。雪崩のような落下。ガストンの目尻に皺がくっきりと浮かぶ。スクリーンの両端に埋め込まれた縦長の大型スピーカーからコール音が響き、スクリーン中央にゴシック体で〈ウィル〉と浮かび上がる。
「やぁ、父さん。久しぶり」
 ガストンにとって血を分けた唯一の息子、ウィリアム・ボブロウの疲れた声。ガストンはチャンと話していた時と同じ調子で「どうした?」と尋ねた。ウィリアム・ボブロウは自分の名前が嫌いだ。ウィリアムに対するボブは愛称なので間抜けに聞こえるから。ボブロウを〈ウィル〉と呼ぶのはガストンだけ。これまで何人もあらわれては消えていった、彼の母親たちは名前を呼ぶことすらしなかった。
ボブロウを生んだ女とガストンは病院の事務局を通して出生申請がされ、ボブロウにソーシャル・セキュリティ・ナンバーが付与された日に別れた。精力的で、野心に溢れた巨大な存在であるガストンは子育てに興味を示さなかったものの、無垢な生命体に対する投資意欲が家庭教師を雇わせ、ボブロウが通う学校に多額の寄付をさせた。ボブロウが、自身がガストンの期待に応えることができない不肖の子であると自覚したのはいつのことか? 物心がついた頃のことだろうか? それとも、大学を首席で卒業することができないことを知った日のことだろうか? 
「マイクが亡くなったんだ。マイケル・ジャベス。覚えている?」とボブロウ。
「保有銘柄を忘れたことはない」
「そう……マイクはダラスに生まれたんだ。だから……」
 ウィリアムの声が霞み、痩せ細っていく。
「葬式に出掛けるというわけだな」
「うん」
 レーザーポインターを照射したガストンが「チケットを手配しよう」と言うと、ウィリアムが
「いらない。それぐらいは自分でなんとかする」
「わかった」
「うん、ありがとう」
 電話が切れ、スクリーンには急降下するグラフが浮かび上がる。ガストンが自動音声認識システムに向かって「旗を振ろう」と言うと、スクリーンに日本円があらわれ、急激な上昇を開始した。
 トロントの自宅でパソコンのモニターを眺めているグレゴリー・チャンは腹を抱えながら笑い、ティッシュにガムを吐き出すと、すぐに新しいガムを口に放り込んだ。

——イランとの交渉決裂  ニューヨーク・タイムズ紙——


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。