じみ

連載第11回: 暖かいコーヒーと絵を描く道具が欲しい

アバター画像山田佳江, 2022年06月20日

目を開けると、射すような光が飛び込んできた。真っ白な天井にぼわぼわと様々な色のかたまりが見える。まだ目が慣れていないのだなと思った。左に首を曲げると、両親が椅子に座って寄り添い、うたた寝をしていた。連れが迷っているみたいだったので、左がお母さんだよ、と教えてあげた。彼女はふわふわと母の体の中に入っていった。
 びくっと体を揺らして、母が目を覚ました。私に気付いて「環!」と声をかけてきた。その声に父も目を覚ます。両親が駆け寄ってきた。二人の体があたたかいオレンジ色の光に包まれているため、表情がよく見えない。
「環、何か欲しい物はあるか。」
 思いがけない父のやさしい言葉に、
「…暖かいコーヒーと、絵を描く道具が欲しい。」
 と、自分の声が出るのを確認してから言ってみた。

 *

 お医者さんが病室に来て眼球を見たり、色々な質問をされた。白衣の上に緑の光をまとった男性は、名前や、年齢や、単純な引き算を尋ねた。今日は何曜日か分かりますかと聞かれて、分かりませんと答えた。答えは月曜日だった。丸一日、眠りについていたらしい。相変わらず両親も看護婦さんもカラフルな光のかたまりに見えていた。その事を医者に告げると、
「脳がまだびっくりしているんだよ、そのうち治るから心配はない。頭を打って手術をしたんだよ。覚えているかい。」
 と言われた。全然覚えていなかった。せっかくの初救急車、初手術なのに覚えていなくて残念です。と言うと、医者は緑の光を揺らして笑った。

 医者の許可が下りたのか、その日のうちに母が缶コーヒーを買ってきてくれた。大人になるまでコーヒーは禁止だったはずなのに、いいのだろうか。母の表情を伺おうとしたが、やはり光に邪魔され顔が見えなかった。しょうがないので黙ってコーヒーを飲んだ。甘くて暖かいコーヒーが喉を通ると、帰って来たんだなとしみじみ実感した。

 次の日には父が絵を描く道具を買って来てくれた。ホルベインの旅行用の固形水彩セットだった。水入れや絵筆も内蔵されている。それと、大きな水彩紙のスケッチブックと二十四色の色鉛筆も一緒に持って来た。
 誕生日でもクリスマスでもないのに、こんなに上等な物を貰って驚いた。父は怒ってはいないようだった。たまには入院するのも悪くないなと思った。

 入院四日目の昼、着替えを持って来た両親は病室の入口で立ち尽くした。部屋中の床とベッドの上と窓際に、書きなぐった絵を撒き散らしていたからだ。昨日から、食事の時間と睡眠以外はずっと絵を描いていた。忘れたくなかった。忘れる前に全部描いてしまおうと思った。
「すごい。カンディンスキーみたいだな。」
 床の絵を一枚拾い上げ、父は感嘆の声をあげた。私は水彩で表現した様々な色のにじみに、色鉛筆の線で音のリズムを重ねていった。
「私ね、宇宙を見てきたよ。お父さんの言うとおり、宇宙はエネルギーのかたまりだった。」
 そう両親に報告すると、父は「そうかすごいな。」と笑い、母はハンカチで目頭を押さえ泣き出した。
「あ、そうだ。」
 これも忘れないうちに言っておかなくてはと思った。
「妹がね、お父さんとお母さんによろしくおねがいしますと伝えてって。気の強い子みたいだったから、気をつけた方がいいよ。」
 絵を描きながらそう言うと、両親は驚いたように顔を見合わせた。

 五日目に由美ちゃんがおばあちゃんと一緒にお見舞いに来た。交換日記と花束を突きつけて、
「交通事故に会うって分かっていたの?」
 と、ちょっと怒った声で言った。
「まさか、知らなかったよ。あれ、知っていたんだったっけ?」
 記憶が混乱しているのだろうか。自分でもよく分からなくなって、すごすごと日記を受け取った。人の周りに見える光のかたまりも、大分薄くなってきていた。由美ちゃんは綺麗なピンク色をしていた。おばあちゃんが花瓶に水を入れに行ったので、
「実は家出して、港での逃走中に車に跳ねられて。」
 と小声で言うと、由美ちゃんは「ええっ!」と目を輝かせ、
「今度家出する時は私も連れて行って。」
 と羨ましそうに言った。

 六日目に浩一君と緑川のお姉ちゃんが来た。透明に近い水色の光をまとった二人は、神妙な面持ちで病室に入って来た。ベッドのそばに立ち、しばらく誰も何も話さなかった。
「ごめん。」
 浩一君が振り絞るように言った。なんであやまるの、と聞くと「俺が追いかけたから、あんな事が起こった。」と本当につらそうに言った。
「なんであんなに逃げちゃったんだろう。」
 笑いながら浩一君に言った。本当に、どうしてあそこまで逃げたのか分からなくなっていた。もう二人を前にしても、消えてしまいたい気持ちは沸いてこなかった。
「二人に見つかったせいで、本州に行き損ねちゃった。」
 と言うと、「やっぱり山口県に行くつもりだったのか。」と浩一君が言った。どうして分かったのか尋ねると、緑川のお姉ちゃんが、「環ちゃんなら絶対山口県に行く。」と断言したとのことだった。そこで、両親は博多方面へ、浩一君たちは門司港方面へ捜索に行ったそうだ。ただ、どこかですれ違ったらしく、二人は色んなルートで何往復もしたらしい。
「お姉ちゃん、ごめんね。」
 ずっと黙っていた彼女に声をかけると、急に崩れ落ちるように、ベッドに突っ伏して泣き出した。涙をぽろぽろと流して震える彼女の髪を撫でる。お姉ちゃんも子供みたいだな、と思った。


1974年生まれ。福岡県北九州市出身。『SF雑誌オルタニア』『銃と宇宙 GUNS&UNIVERSE』などで小説を連載。代表作に『泥酔小説家』『白昼のペンタクル』など。