じみ

連載第10回: にじみ

アバター画像山田佳江, 2022年06月13日

勇気を出して自転車にまたがりペダルを踏む。ぐわっと左右から家がせまってくる。住宅のはずなのに人の気配がない。どの家もずっと同じ家に見える。前に進んでいるような感じがしない。景色だけが私から通り過ぎて行くみたいだ。風すらも感じない。両脇の圧迫感に押し潰されそうになりながら、必死で自転車を漕ぐ。とっくにマフラーも手袋もはずしているのに、暑くなってきた。たまらず空を見上げる。
 そこにはいつものような青空が、細長く伸びていた。空から空気が降りてくる。安心感が沸いてくる。きっと由美ちゃんも博多の空を見上げて、こんな気分になったのだろう。落ち着いた気分になると同時に路地を抜けた。右手に関門橋が見えた。門司港だ。

 日がかげり始めていた。関門橋に向かって急いで自転車を漕ぐ。橋の向こうにはもう、山口県が見えている。景色に見覚えがあった。関門橋の下あたりに関門トンネルの入口があるはずだ。一度自転車を止めて、地図を取り出し確認する。自転車にまたがったまま、地図を見ていると、「環ちゃん!」と叫ぶ声が聞こえた。
 反射的に顔を上げると、対向車線を走るバイクに浩一君が乗っていた。後ろには緑川のお姉ちゃんも乗っている。なんだかすごく懐かしい人たちを見た気がして、お姉ちゃんのなびく髪を眺めていたけれど、ハッと我に返った。まずい。私を連れ戻しに来たのだ。
 あわてて地図を前かごのリュックサックにねじ込み、自転車を走らせる。浩一君のバイクがUターンする。このまま関門トンネルを突っ切っても追いつかれると思ったので、港の細い道に入った。なるべくバイクの通りにくそうな道をジグザクに走る。時々背中からバイクの排気音と、緑川のお姉ちゃんの声が聞こえる。どうして、私がここにいると分かったのだろう。呼吸が苦しくなってくる。潮の匂いが鼻につく。門司港の街並みを抜けて、駅前まできた頃、もう駄目かなと思い始めた。浩一君は一方通行も何も無視して追いかけてくる。
 門司港駅の前でおとなしく捕まろう。一体どんな顔をして会えばいいのだろう。そう思って速度を落とした途端、右半身にすごい衝撃を感じた。ぐわん、と頭が揺れて、世界が急にスローモーションになった。体が宙にゆっくりと浮かぶ。白い乗用車のボンネットにたたきつけられる。倒れていく自転車の前輪がひしゃげている。ボンネットから自転車の上に転がり落ちる。自転車の上を通り過ぎて、私の体は車道に仰向けになった。空はこれから夜になろうとしている青さだった。

 ビデオのコマ送りから、急に普通の再生モードに戻ったみたいな感じで、街の喧騒が耳に入って来た。車のドライバーが扉を開ける音がした。浩一君の叫ぶ声が聞こえる。たまきたまきたまきだいじょうぶかたまき、浩一君が呪文みたいに何度も私を呼ぶ。大丈夫どこも痛くないよ、そう言おうとして声が出ないのに気付く。視界に髪を振り乱した浩一君の顔が入ってくる。知らない人たちも私を覗き込んでいる。浩一君が私の首の後ろに手を入れる。ぬるりとした感触があった。私のことを抱き起こしかけて、途中で手を引っ込めた。浩一君は自分の手についた血の様なものを眺めた。後ろに緑川のお姉ちゃんが立ち尽くしている。顔面が蒼白だ。遠くから救急車の音が聞こえる。大丈夫なのに、なんともないのに、救急車なんて大げさだなあ、一体誰が呼んだのだろう。救急車が通ります道を開けてください、こっちだ、こっちだぞ、大騒ぎする大人たちの声が聞こえる。困ったな、こんなに大事になっては、きっとお母さんはすごく怒るだろうな。青く染まっていく空と大人たちを見つめながら、両親にどうやって言い訳したものかと考えていた。

 *

 あたりは真っ暗だった。私は救急車に乗せられたはずなのに、ここはどこなのだろう。ベースの音が聞こえた。振動が体の中に入ってくる。何人かがベースを弾いているみたいだ。違う。人の歌声かも知れない。
 四方が真っ黒の空間に淡い光の線が現れた。私の視界を横切っている。ベースの音に合わせて、線は波状にリズムをとっている。光はリズムに乗って回転し、光の奇跡を残して行った。光の帯はオレンジ色に変化し、たくさんの粒子になった。白い線とオレンジの粒子はゆっくりと私の後ろに流れていく。この景色をどこかで見たことがある。そうか、雪の日に空を見上げた時の、自分が天に上っていく錯覚に似ている。それとも私は今、本当に上っているのだろうか。足元を確認した。どこにも足は無かった。足どころか体すら無かった。体も無いのに、どうやってこの景色を見ているのだろう。次第にベースの音が複雑になってきた。リードギターやドラムのような音も入ってきたみたいだ。メロディーがよく聞き取れないけど、音の波動を感じる。風景が色味を帯びてきた。光の線からたくさんの色がにじみ出して、不規則なパターンを作っていく。赤、緑、紫、黄色。知っている。こういう色彩感をサイケデリックと言うのだと、父から聞いた。光と光の境界線がにじんで、混ざりあって、どんどん通り過ぎて行った。リズムがテンポを増すごとに、景色の流れも速くなっていく。朝日、夕日、水の波紋、雲、オーロラ、木漏れ日、虹、世界中の綺麗なものを全部集めて溶かしたみたいな景色だった。黄緑と茶色のマーブル花模様のトンネル、緑のゼリー状に輝きながら流れる階段、水色と紺色の台風みたいな渦。どれもまぶしいくらい美しかった。たくさんの人の歌声みたいなアップテンポのリズムに包まれながら、自分自身がどんどん剥けていく気がした。それはとても気持がよかった。最高に楽しい気分で、私はすっかり光の一部になっていった。大声で歌いながら、分かった、全部分かったよ。こういう事だったんだ、と実感した。
 私はここにいた事があった。忘れていただけだった。ここでは全ての事が思い出せる。おびただしいエネルギーの洪水の中に飛び込み、世界に挨拶した。こんにちは、だけどさようなら。せっかく来たけど、あっちに戻ります。もう分かったから。また忘れてしまうと思うけど、もう少しあっちに戻ります。小さなエネルギーのかたまりが、親しげについてきた。そう、君に決まったの。じゃあ一緒に行こうか。光と音の世界に少し名残を感じながら、来た道に吸い込まれるように私は帰っていった。


1974年生まれ。福岡県北九州市出身。『SF雑誌オルタニア』『銃と宇宙 GUNS&UNIVERSE』などで小説を連載。代表作に『泥酔小説家』『白昼のペンタクル』など。