要するに本を売るには名刺配りや挨拶まわりが唯一の正解なんだけど、 社会的能力に秀でていなければ生きていかれないっていう種類の正解であって、 だったらおれは小説なんて書いていないっていう。 でも現実問題、 社会的能力あってこそ読まれるのだし、 読まれない小説に存在価値はないし、 それ以前に存在しないも同然なので、 社会的能力に欠陥のあるおれみたいな人間に小説を読んだり書いたりする権利はない。 おれみたいな生きる資格のない人間でも客として認めてくれる小説を読みたいですね、 おれしか書いてないけど。 正直にいえば趣味のいい独立系書店に置いてもらう夢を見たことは過去に何度もある。 まずおれの街には駅前の紀伊國屋か郊外の TSUTAYA みたいな店しか本屋がない。 駅前一等地のビルは取壊し費用をだれも負えずに廃墟と化し、 寂れた郊外の光景は全国どこも判で押したように同じ。 そして書店内の光景は駅前だろうが郊外だろうがどこも判で押したように同じ、 それが現代の地方都市だ。 気が滅入るからおれはもう何年もそれらの書店に行っていない。 どの本屋にも判で押したような本ばかりが並んでいて、 だれがこんなもの読むんだよ、 少なくともおれは客として疎外されていると感じる。 おれはあのなかに自分の本を置きたくない。 一緒くたにされたくない。 だからおれはおれが自分の本を置きたくなるような棚を自分でつくることにした。 それが 「本の網」 だ。 見せ方には改良が必要だと感じているけれど。
二年前に取次の業者さんに問い合わせたらその方はおれみたいな知的障害者にも親切で、 「最初から大きな流通を目指す方」 「最初は手売りで始めたが次はもう少し大きな流通でやりたい、 と来られる方」 が多いそうで、 「オンデマンド印刷のみですと、 一般取次流通する書籍としては難しい」 と教えてくれた。 同時期にほかのいろんな方面に問合せなり相談なりしてみたけれど、 全体的に敷居が高くて、 読みたい本を出版したいだけの人間には門前払い感があり、 その敷居の高さは読者にとって必然性があるとは思えなかったんで、 おれが進む道としてはちょっと違うなと思った。 そもそも何かをある場所から別の場所へ移動するためだけに、 やたら金なり人なり法律なり制度なり実績なりを、 専門的な知識とスキルと実績と資本で乗り越えないといけないなんて、 ただ読みたい本を読みたいだけの人間としてはあほらしく感じる。 どうせ 「なじみ感」 は名刺配りと挨拶まわりでしか手に入らないんだから手売りでよくね? マーティン・ニューウェルだって何十年もそれでやってるんだし。 なのでサイトのコンテンツを強化して集客し、 メールマーケティングで手売りするのが正解かなと思っている。 じっさい海外で成功している著者は自サイトからのメールマーケティングが欠かせないらしいし。 メール情報を預かりたくないしまだ客が少ないからサブスクライブすらまだ手をつけてないので道は遠いけどね。 自著だろうと他人のだろうと本をつくるのが好きなだけだ。 読まれるかどうかはどうでもいい。 他人の本については読まれてほしいけれど、 そのために出版しているのかどうかはわからない。 おれには他人に評価される能力が極端に欠落しているから。 読んでほしいだけなら他人に任せる、 おれは手を出さない。
プラットフォームのアルゴリズムが生成した市場価値に適応しない本は淘汰される、 という意味のことをいわれたことがあって、 それはすなわちおれという境界領域知能の社会不適応者は価値がないので淘汰される、 という意味なので、 まぁ確かに仰せの通りで、 現に淘汰された結果がこれなのだけれど、 作家が公然とそれをいうかよとびっくりした。 そういうのをやるのは国家とかそういうのであって、 おれら作家は抗って地下出版 (サミズダート) する側じゃないのかよという。 まぁ権力に媚びる側にまわる作家もいるだろうけれど、 別にそれで安泰ってこともなくて、 風向きが変わればそいつも粛正されるわけだし、 やっぱり違うと思うよ。 おれらの視界は国家や企業の力関係で決まっている、 現代の作家はそう強く意識したほうがいい。