じみ

連載第9回: ノルウェーの森と異世界トンネル

アバター画像山田佳江, 2022年06月06日

リリリリリと鳴る小さな目覚ましの音で飛び起きた。消音のため、時計をくるんでおいたタオルをはずした。日曜午前五時、出発の時間だ。
 パジャマのまま一階に下りて、台所をあさる。ツナの缶詰を開けて、缶の中でマヨネーズとあえ、食パンに挟んでツナサンドを作った。二つ作ってアルミホイルに包んだ後、湯沸かし器のお湯でインスタントコーヒーを作って、魔法瓶に入れた。
 自分の部屋に戻り、リュックサックにサンドイッチと魔法瓶を入れた。中にはツーリングマップと、少しの着替えと、全財産二千五百円が入っている。
 服を着替えて机に向かった「お父さん、お母さんへ、ちょっと冒険に行ってきます。二、三日で帰ってくると思います。」と、簡単に書いた手紙を机の上に置いた。

 ジャンパーに手袋とマフラーという重装備で、勝手口からこっそり家を抜け出した。外はまだ暗かった。昨日、しっかりメンテナンスしておいた自転車が庭で待っていた。
「行くぞ。」
 自分自身に声をかける。自転車にまたがり、力を込めて最初のペダルを踏んだ。
 冷たい風が頬にあたる。ゴルフ場の森がざわざわとうごめいている。空には星が輝いている。まだ夜みたいだ。自転車のライトをつけて、通学路とは反対方向にどんどん漕いでいく。冷たかった体が温まっていくとともに、気分が高揚してきた。頭の中に、「デイ・トリッパー」のイントロが流れてきた。
「ごったぐっりーずん、てくみいーじうぇいあう、ごったぐっりーずん、てくみいーじうぇいあなう、しーわざでえーいとりっぱー、わんうえいちっけ、いえい、いとっくみーそーおおろんぐ、たふぁいんだう、あんふぁいんだあう。」
 歌いながら自転車を漕ぐと、色々な事が洗い流されていく気がする。赤ちゃんの頃から聞いてきたビートルズの歌詞は、ほとんどを暗記していた。呪文のように聞こえるその歌は、きっと中学校に入って英語を勉強すれば、意味が分かってしまうのだろう。それはなんだかつまらないなと思った。きっとこの歌も私が思っているのとは違う内容のはずだ。
 ビートルズを歌い続け、「ノルウェーの森」の冒頭に入った所で空の色が変わってきた。小さな声で歌詞をつぶやきながら、上を見る。濃紺の空に星が輝いている。ごく薄いグラデーションを作りながら、下へ向かって空は水色に近くなる。道は長い坂になっていた。起伏する車道の最初の頂上に上り詰めたとき、森と空の境が白くなり、それからゆっくりと、だけれど急速にオレンジ色がにじみ出してきた。夜明けだった。自転車を漕ぐ足が自然に止まった。マフラーを外すと、空気が心地よかった。じわじわと登ってくる太陽を見ていると、不思議な感じがした。太陽はそこにじっと止まっていて、私の自転車が地面ごと、前のめりにゆっくりと回転していく気がした。だけどそれは錯覚ではない、本当は地球の方が回っているんだった、と思い出した。私は太陽を見つめて、地球の自転の速度を体感していた。

 初めは気持ちよかった自転車も、だんだんと疲れてきた。地図と睨みあったり、道に迷ったりしながら、裏門司を進んだ。途中でツナサンドを食べて、しばらく自転車を漕いでいると、寂れた街に出た。門司港は近いのだろうか。
 すっかり昼を過ぎていた。予定では本州についている頃だ。コーヒーも全部飲んでしまったので、自転車を止めて自動販売機でオレンジジュースを買った。ジュースを飲みながらぼんやり街の景色を眺めていると、車道を挟んだ向こう側の歩道で、車椅子のおじさんがゆっくりと坂を登っていた。変わったおじさんだった。背中に半畳分の畳を積んでいる。黒い紐で自分の体にくくりつけているようだ。膝の上に大きなカバンを乗せている。ぐらり、と畳が揺れた。落ちてゆく畳に引きずられ、車椅子ごと転倒するおじさんの姿が見えた気がした。とっさに車道に飛び出し、おじさんに駆け寄った。畳を押さえたとたん、おじさんにくくられた紐がはらりとほどけた。彼は一瞬おどろいた顔をしたが、「ありがとう。」と笑顔で言った。
 おじさんは随分みすぼらしい格好をしていた。ずっと洗濯していないような、茶色いジャケットを着ている。どこまで行くのか聞かれたので、関門海峡は近いのか尋ねると、近道を教えてあげるから途中まで一緒に行こうと言われた。

 自転車を押し、おじさんと話をしながら歩いた。彼は自分を占い師だと言った。真っ黒に焼けた顔から、黄色い歯を覗かせて
「嬢ちゃんは感受性が強いな。」
 と言った。どうしてか尋ねると「物事が起こる前に気付いただろう。」と笑う。さっきの事か、と思った。おじさんは気付かなかったかも知れないけど、すでに畳はぐらぐらと動いていた。占い師と言っても大したこと無いな、と勝手に考えていた。
「嬢ちゃんの願いはもうすぐ叶うぞ。いや、嬢ちゃんはもうすぐ願いを叶えるぞ、と言い直すべきか。」
さも仰々しく、占い師のおじさんは言った。「本当ですか。」と話に付き合ってみる。
「ただ、苦痛をともなう事になるかも知れん。しかし、嬢ちゃんの相なら大丈夫だろう。」
 苦痛なのか大丈夫なのか、叶うのか叶わないのか、一体どっちなんだ。心の中でつぶやいた。占いというのは曖昧なものなのだと改めて実感した。

 しばらく歩くと「そっちだよ。」と言われた。
「あの道を抜けると港に出る。秘密の裏道だ。」
 もったいつけて路地の入口を指差した後、自分はこっちだからと違う道を差した。
「ありがとうございました。」
「くれぐれも気を付けてな。」
 お互いに芝居がかった挨拶をして、路地の前まで自転車を押した。どこまでも続いているような、細くて長い、まっすぐな道だった。両脇をせり出すように家に挟まれている。何故か異空間へのトンネルのように感じてしまう。先が見えない。振り返ると遠くからまだ、おじさんが私をみていた。


1974年生まれ。福岡県北九州市出身。『SF雑誌オルタニア』『銃と宇宙 GUNS&UNIVERSE』などで小説を連載。代表作に『泥酔小説家』『白昼のペンタクル』など。