朝教室に入ると、昨日と同じように男子たちの視線を感じた。自分の席に着こうとすると、机の上にチョークで落書きされている。汚い字で「田中、水上」と相合傘が書いてあった。ランドセルを床に叩き付けるように下ろし、雑巾を濡らすため教室を出た。ちょうど田中が登校して来たところだったので、思い切り睨みつけてやった。
放課後、緊張しながら緑川家に向かった。どうか浩一君があのラジオを聞いていませんように、と心の底から願った。
いつものように、浩一君は緑川のお姉ちゃんの部屋にいた。「おう。」と挨拶する浩一君に、何も変わったところは無かった。
お姉ちゃんに「コーヒー飲む?」と聞かれたので、「うん。」と答えた。彼女がコーヒーを入れに行った隙に、浩一君に、「ラジオとか聞くの?」と何気なく聞いてみた。「ラジカセ持っていないんだよ。」との答えに私は胸を撫で下ろした。
お姉ちゃんがコーヒーを持ってきた。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
いつものやりとりに、ふと違和感を覚えた。顔を上げると、彼女は普段のように笑顔を浮かべている。だけど普段と何かが違うように見える。
「どうしたの?」
ちょっと困ったような顔をするお姉ちゃんの肩越しに、ラジカセが見えた。
頭が真っ白になる。直感的に「聞かれた!」と理解した。緑川のお姉ちゃんは、私のラジオでの告白を聞いたに違いない。コーヒーカップを持つ手が震える。全身の毛穴から冷たい汗がふき出してくる。
「おい、大丈夫か?」
浩一君が私に声をかける。その声がすごくやさしくて、急に涙があふれそうになった。
「あの、お腹が痛くなっちゃった。帰るね。」
やっとの事でそれだけ言って、逃げるように緑川家を後にした。二人が心配そうについて来ようとしたが、走って家に帰った。もう駄目なんだ。もう終わったんだ。悲しさと恥ずかしさで泣きそうになるのを一生懸命こらえた。
鼻をすすりながら家に帰ると、母が台所で座って待っていた。
「ちょっとそこに座りなさい。」
何か怒っているようだった。どうしてこう悪いことは重なるのだろう。
「緑川のお姉ちゃんのお友達と、バイクで二人乗りしていたそうじゃない。」
机を挟んで母の前に座ると、たたみ掛けるように言われた。
「洋太君のお母さんが見ていたのよ。危ないでしょう。最近いつもお姉ちゃんとお友達と三人で遊んでいるみたいだけど、もう行くのはやめた方がいいんじゃないの?本当はお姉ちゃんだって迷惑かも知れないし…。」
「そんなの分かっているよ!だからもう行かない!」
たまらず母に怒鳴った。ガタンと椅子から立ち上がり、階段を駆け上った。自分の部屋でベッドに突っ伏して泣いた。もう、何が悲しいのだか分からなくなっていた。色々な事全てがいやになっていた。自分自身の存在が恥ずかしくて、消えてしまいたいと思った。
三時間ほど一人で泣いて、色々な事を考えていた。消えてしまいたい自分を本当に消してしまうには、どんな方法があるか思索した。真っ先に死ぬことを候補に上げてみた。死ぬのはあまり怖いと思わなかったし、死んだ後の世界も見てみたいと思った。だけど、きっと両親は悲しむだろう。いつかは死ぬのだし、まだ先の楽しみにとっておいてもいいか、と思った。次に家出することを考えた。私の事を誰も知らない所へ行くのはどうだろう。いい考えだと思ったけど、その先どうやって生活していこうかと悩んだ。親切な老夫婦でも探して、畑仕事などを手伝って生きていけないものだろうか。小学生が一人で生活する手段は、そう多くなさそうだった。子供ってめんどくさいと思った。
たくさん泣いて、たくさん考え事をしたら、喉が渇いた。お腹もすいた気がする。こっそり一階に下りたら、台所のテーブルに焼きうどんが一皿置いてあった。両親は仕事部屋にいるようだった。音を立てないように冷蔵庫を開け、牛乳をコップに注いで、ラップをかけたままの焼きうどんと一緒に自分の部屋へ持って上がった。
冷めた焼きうどんを食べたら、気分も少し落ち着いて来た。家出の計画も、頭の中でどんどん膨らんで行った。ずっと、知らない土地で暮らそうと思うと無理があるから、ちょっとだけ家出してすぐ帰ってくればいいか、と考え出した。どこか知らない土地に自分だけの力で行くことが出来れば、由美ちゃんみたいに気分も変わるかも知れない。そう考えると次第にわくわくしてきた。どこに行こう。本棚から社会科地図帳を取り出した。自分の住んでいる町を探す。地図を指でたどりながら、そうだ本州に行こう、と思った。
*
私の冒険のために綿密な計画を立てた。日曜日に決行するつもりで、土曜日は普通に学校に行った。放課後、いつものように交換日記を持ってきた由美ちゃんに、
「ごめんね。二、三日書けないかも知れないから、しばらく持っていてくれるかな。」
と謝った。
緑川家には行かなかった。浩一君と出会って以来、初めての自宅で過ごす夕方だった。部屋にこもって、父の蔵書から持ってきたツーリングマップを見る。お金があまり無いので自転車で家出するつもりだった。ここから本州までは、裏門司を通って門司港まで行けばいい。そこから関門トンネルの人道を渡れば下関に着くはずだった。私は生まれてから一度も九州から出たことが無かった。門司港までは両親と遊びに行ったことがあるけれど、その先の山口県は未知の世界だった。とりあえず本州に渡る事を目的として、後の事はその時考えよう。もしかしたら、もっと先まで行けるかも知れない。
何気ない顔をして、両親と一緒に夕食を取り、早めにベッドにもぐった。明日が楽しみで、なかなか眠りに就くことができなかった。