給食を食べた後ノートを持って、「図書室に行こう。」と大きな声で由美ちゃんに言った。「えっ。」と驚いた顔をして、もじもじする由美ちゃんの手を引いて教室を出た。クラスの女子たちや田中がこっちを見ている気がした。そういえば教室で由美ちゃんと仲良くするのはこれが初めてかも知れない。
図書室には図書委員と数人しか人がいなかった。コの字型の部屋の、なるべく奥の窓際の席に由美ちゃんと並んで座った。
「由美ちゃん、本当にお父さんに会いたい?」
彼女の顔を見た。少しうつむいて、見上げるような目線で私を見ている。由美ちゃんの顔をこんなにしっかり見るのも初めてだと思った。肌が真っ白で、まつげが長くて、お人形みたいだ。
「うん…。」
「あのね、探偵ってすごくお金がかかるんだよ。それに小学生が頼んでも駄目な気がする。住所がここまで分かっているんだから、由美ちゃんが直接会いに行くのが一番早いと思う。」
驚いた顔をする由美ちゃんの返答を待たずに、交換日記を開いた。
「調べてみたんだ。お父さんの住所が博多でしょう。私も行った事が無いけれど、黒崎のおばあちゃんの家に行く時、博多行きの電車に乗った事があるよ。それに乗って終点まで行けば博多に着くはず。ここからだと日豊本線に乗って、小倉駅で鹿児島本線に乗り換えれば二時間くらいで行けるよ。子供料金ならお年玉で行って帰ってこられると思う。博多駅についたら駅員さんにこの住所を見せて道を聞けばいいよ。もしかするとそこからバスかタクシーに乗る事になるから、お金は多めに持って行った方がいいね。」
昨日ノートに写しておいた時刻表と電車の運賃を指差しながら、乗り換え時間について説明していると、急に由美ちゃんがすすり泣きを始めた。
「えっ。何?ごめんね。おせっかい過ぎた?」
「ううん。ありがとう、たまきちゃん。ありがとう。」
泣き止まない彼女の背中をおろおろとさすったりしながら、恋人に泣かれる男の人ってこんな気持ちなのかなあなどど考えてみたりした。
*
あの雨の日以来、ずっといい天気が続いている。真冬の冷たい空気ときりりとした青い空を全身に感じながら、緑川家に向かってゆっくりと歩いた。空気が澄んでいるせいか、あたりがきらきらして見える。家の屋根瓦も、道のブロック塀も、側溝の隙間に生える雑草も、みんな光っている。浩一君の言う「内部から発光している。」とは、こんな感じなのだろうか。
玄関脇の原付バイクを確認してから、門の中に入り犬小屋に呼びかけた。パタパタとしっぽを振りながら出てくるコロも最近機嫌が良さそうだ。
お姉ちゃんの部屋のサッシが小さく開いた。顔を上げると、浩一君がちょっとまぶしそうな顔で私たちを見ていた。
「お姉ちゃんは?」
「お母さんが忘れ物をしたとかで、パート先まで届けに行ったよ。」
緑川のおばちゃんは近所のクリーニング屋さんで働いている。浩一君に上がったら、と促されてお姉ちゃんの部屋に入った。
コーヒーカップが二つ、床の上に置いてあった。お姉ちゃんのと思われるカップには、まだ半分以上コーヒーが残っている。さっきまでこの部屋で、二人でコーヒーを飲んでいたんだな、と思った。
部屋はとても静かだった。窓の外の景色ですら、絵画のようにじっとしていた。彼は床に座り、本棚の方を見ていた。考え事をしているようにも何も考えていないようにも見えた。窓から光の帯が差し込んで、緑色のカーペットに置かれた浩一君の手を照らした。陽の光を浴びるそれは、苔のむす大地に生える大木の根元のように見えた。傾いた体を支えている手の平から、光をぐんぐん吸収して浩一君自身が輝いていく。
「血管が太いだろ。」
急に声をかけられ顔を上げると、彼も私の方を見ていた。手をじっと見ていたのに気付いたみたいで、自分の右手の甲の血管を左手で押した。
「うん。すごいね。」
私も浩一君の手の甲を指先でそっと押してみた。太い血管がぷにっと移動した。
「こうすると無くなるんだよ。」
そう言って彼は座ったまま右手を高く上げた。立ち上がって手の甲を見ると、鉛筆みたいに太かった血管が、するするとしぼんで平らになってしまった。
「本当だ!」
浩一君の手を両手で触ってみる。暖かくてごつごつしている。
「こうするとまた元に戻る…。」
ゆっくりと下ろされる彼の手に引っ張られるようにして、私もまた座り込んだ。両手の中で、彼の右手に血液が送りこまれて行くのを感じた。
心臓がどんどん早くなっていって、私の両手にも血液が運ばれている。細い血管が少し浮き出して見える。彼の手の甲を両手の親指でゆっくりと探りながら、顔を上げると、浩一君は子供みたいに自慢げな笑顔を作った。
「緑川遅いな。」
と浩一君がつぶやいた。一瞬、緑川のお姉ちゃんの存在を忘れていた自分自身にハッとなった。迎えに行こうと彼が言ったので、上着を着て二人でサッシから外に出た。「留守番頼んだぞ。」と彼がコロに言う。
玄関脇に停めてある原付バイクを撫でながら、乗せてやるよと浩一君が言った。
「このバイク知ってる。新聞屋さんが乗るやつでしょう。」
「そうだよ。中古で買ったんだ。」
紺色のそのバイクに二人でまたがった。「しっかりつかまってろ。」と言って、浩一君はエンジンをかけた。彼の背中にぴったりとはりつき、胸に手を回した。バイクはどぅるるるるんと音を立ててゆっくり走り出した。
空気が流れていく。風の無い日なのにすごい風が吹いているみたいに感じる。耳が冷たい。いつも歩いて行く通学路をいつもと違うスピードで進んでいく。怖さで胸が高鳴る。背中側に恐怖が、お腹側に安堵がある。上着のせいで体温や肌の質感は感じられないけれど、浩一君とくっついているそこは確かに安心感があった。
「浩一君、ずっと三人で一緒にいられたらいいな。」
少し大きめな声でそう言ってみたけど、彼は「何?聞こえない。」と大声で言った。