じみ

連載第1回: 青空のノートとビートルズと西洋美術史

アバター画像山田佳江, 2022年04月11日

ことことと背中で筆箱の動く音がする。顔を上げると、雲の無い青空から風が降りてくるのが分かる。冷たい空気に顔を撫でられながらどんどん歩く。学校での出来事やこれからの予定、昨日読んだ本の内容、色々なことが無秩序に頭の中を通り過ぎて行く。あの森を曲がればもうすぐ家に着く。

「ただいま。」と玄関を開けると、ガシャコンガシャコンと大きな音と、おかえりの声が聞こえる。部屋のドアには『水上写植』と書かれた小さなプレートが下がっている。部屋に入ると父は顔を上げて、もう一度「おかえり。」と言ってからまたガシャコンと大きな写植機に向かった。半間の押入れの中から母が「おやつはテーブルの上だからね。」と言いながら出てきた。ツンと酢酸の匂いがする。この部屋の押入れは父が改造して暗室になっている。
 おやつ~おやつ~つつつつ~。今作ったでたらめな歌を歌いながら仕事部屋を通り抜ける。カーテンで仕切られた隣は台所だ。テーブルの上にはラスクが置いてあった。ラスク~ラスク~クククク~。ランドセルを降ろし、マフラーと上着を椅子の上に置く。冷蔵庫から牛乳を取り出しコップに注いで椅子に座り、ランドセルの中からノートと筆箱を取り出す。牛乳を飲んで一息ついてから、そのノートの表紙を眺めた。

 私のクラスの女子は三つのグループに分かれている。グループが違う人とはどうやら遊ぶことも会話することも、暗黙のうちに禁じられているようだ。そういった人間関係が煩わしく、あえてどこのグループにも入っていないのだけれど、もう一人どこにも属さない子がいる。由美ちゃんだ。彼女は色白で、髪をおかっぱにしていて、いつもフリルのついたスカートをはいている。かわいらしい少女だと思うのだが、おとなし過ぎるためかどこのグループにも入れて貰えなくて、いつも一人でいた。
 その由美ちゃんに今日の放課後、突然呼び出されて「交換日記しよう。」と言われた。驚いた。確かにクラスでは交換日記が流行っていたけど、ほとんど話もしたことが無いような人とするものではないと思っていた。ふと見ると、左手を強く握り締めている。勇気を振り絞ったのに、断るのも悪いと思って了承すると、彼女は喜んでランドセルを降ろした。
「あのね、ノートはもう用意してあったの。親戚の叔父さんから貰った物なんだけどね。」
 誇らしげに赤いランドセルから出したのは、驚くほど綺麗なノートだった。教科書と同じサイズで、厚みも二センチくらいある。そして表紙と裏表紙と背表紙の全面に青い空と白い雲の写真がプリントしてあった。イラストではなくて、本物の青空の写真だ。
 私は、わあ素敵なノートだね、とかなんとか言いながら、由美ちゃんはこのノートを何かに使いたくてしょうがなかったんだろうな、と一人で納得していた。

 四枚入りのラスクを一枚食べて、手をパタパタとはたき、ノートを開いた。裏表紙の内側には小さく外国の言葉が印刷されている。アルファベットみたいだけど、AやOに点々が付いている。
 まだ何も書かれていない一ページ目を開く。筆箱からシャープペンシルを取り出す。新しいノートに最初の一文字を書く時はすごく緊張する。
「由美ちゃんへ。こんにちは。まずは自己紹介します。水上環、十二歳。好きなものはビートルズと読書です。ビートルズはお父さんにカセットにダビングしてもらって、ねる時に聞いています。学校の休み時間はだいたい図書室にいます。本が好きなのは、知らないことをたくさん知ることができるからです。私の家は自営業なので、放課後は時々お父さんの仕事を手伝います。写植といって、大きな機械で広告などの文字を打つ仕事です。大変だけど、けっこう楽しいです。あ、そういえばコーヒーも好きです。由美ちゃんは何が好きですか。」
 ここまで書いて、こんなもので良いのかなあ、と二枚目のラスクをかじりながら頭を抱えた。

 *

 交換日記をランドセルの中にしまって、上着だけ羽織り「緑川のお姉ちゃんのとこに行って来まーす。」と大声を出しながら玄関を出た。
 少し風が強かった。常緑樹がざわざわと音をたてている。家の前は車道を挟んで森になっている。外からはどこまで行っても森しか見えないけど、中心にゴルフ場があるらしい。通学路の途中に入口がある。そこから家まで随分歩くから、きっとすごく大きいのだろう。
 家を出て、森とは反対側に少し歩いた所に緑川家はある。門柱の後ろに青い屋根の犬小屋がある。「コロ。」と呼びかけると、キツネに似た犬がのそっと出てきてお愛想程度に軽く尻尾を二、三回振った。しばらくコロにかまっていると、玄関横のサッシが少し開いて、「寒いでしょう。上がって。」と、緑川のお姉ちゃんが笑顔を覗かせた。
 玄関を通らずにサッシから入ると、そこはお姉ちゃんの部屋になっている。畳の部屋に小さいカーペーットが敷いてある。机と大きな本棚がある。ラジカセから渡辺美里が流れていた。この部屋に遊びに来るのが私の日課になっている。三年前、緑川家が子犬を貰ってきた。同じ町内だった私は毎日のように犬を見に来ていた。そのせいで当時高校生だった緑川家の長女と、まるで姉妹のように仲良くなった。
 部屋に入って本棚を眺めていると、お姉ちゃんがコーヒーを入れてくれた。この家でコーヒーを飲むことも、楽しみの一つになっている。母は大人になるまでコーヒーを飲んでは駄目だと言う。だから、ここで毎日飲んでいることは内緒だ。家で禁止されていることも、緑川のお姉ちゃんには内緒だ。ミルクと砂糖がたくさん入っている甘いコーヒーを一口飲むと、喉の奥がじーんとあたたまる感じがした。

 お姉ちゃんはコーヒーを飲みがら、机に向かってノートに何かを書き始めた。私も本棚からファッション雑誌を取り出した。いつもこんな感じで、この部屋で二人は思い思いの事をしている。パラパラと何ページかめくってから、
「ねえ、大学の教科書見せて。」
 と言ってみた。彼女は数回瞬きして、
「大学の教科書ねえ、ちょっと待ってね。どれがいいかなあ、専門過程の教科書は面白くないしね。」
 とぶつぶつ言いながら、立ち上がって本棚の上の方を探し始めた。私は「専門過程の教科書は難しい」ではなく「面白くない」と言ってもらったことを嬉しく感じた。彼女はそういう人なのだ。私を子供のように扱わない。「これこれ、これがいいかも。」と独り言のように言いながら取り出してくれたのは『西洋美術史』と書かれた分厚い本だった。ページをめくると外国の絵画や彫刻の大きなカラー写真がたくさん載っていて、それについての解説が文章で書かれていた。知らない漢字は結構あるけどなんとか読めそうだった。これでいいかと聞かれたので、私は大満足して「うん。」と答えた。
 お姉ちゃんは机に向かって、書き物を再開した。しばらくして背中を向けたまま、「もうすぐ中学生だね。」と言った。私も本を読みながら
「うん。だけどいやだな。中学生になったらジーパンで学校に行けないし。勉強も面白くなさそう。もう中学高校は飛ばして、早く大学生になりたいな。大学生なら制服も着なくていいし、授業の少ない日は早く帰れるし。」
 と、愚痴をこぼした。お姉ちゃんが振り向いて「環ちゃんはセーラー服も似合うと思うよ。」と真顔で言ったので、なんだか恥ずかしくなって、セーラー服がいかに機能的でないかをつい熱くなって語ってしまった。

 緑川のお姉ちゃんは随分綺麗になったと思う。昔から整った容姿をしていたけど、最近髪を伸ばして、服装もどんどん女らしくなってきて、ちょっとお化粧もするようになったみたいだ。そんな彼女をますます好きになってはいるけど、いつか手の届かない遠い所に行ってしまいそうで、なんだか寂しいと思った。


1974年生まれ。福岡県北九州市出身。『SF雑誌オルタニア』『銃と宇宙 GUNS&UNIVERSE』などで小説を連載。代表作に『泥酔小説家』『白昼のペンタクル』など。