長編を書き上げるたびにだれにも見せずに燃やす男、 というのをこれまで何度も書いてきたけれど、 自分で実際にやったのは初めてだった。 表に出さなければ 「自分にはやれた」 との想い出だけが残る。 世渡りが下手なせいで作品や書いていた一年半の生活を貶めずに済む。 あくまで比喩的なことなので実際には気が変われば出版もできる。 ただ少なくとも半年は忘れるつもりでいる。 これまではモチベーション維持と見栄えの確認のために 「連載」 と称して他人にも閲覧可能にしていたけれど次はそうするつもりはない。 三年くらいかけて自分の楽しみのためだけにやる。 ヘンリー・ダーガーに一歩近づいた。 まいにち筋トレをする理由も書くのとおなじだ。 他人に見せるためじゃない。 怠惰で醜い自分がきらいなだけだ。 向上するために努力するのがすきだ。 幸も不幸も脳内物質の加減でしかないのだから、 自己満足できればそれでいい。 江戸時代は数学の問題を解いたら神社に奉納したんだよな。 ひとが集まる場所に掲げればだれかが見てくれるんじゃないかって。 これまで小説の出版で似たようなことをやってきたけれどそれすらも浅ましい気がしてきた。 奉納せずに 「お焚き上げ」 することにした。 書いたのをおれだけわかっていればいい。
“The Long Goodbye” の田口俊樹訳が出るそうな。 『長い別れ』 なる書名になるという。 「お」 がないだけ簡潔でキビキビしたマーロウになるのかな。 二十代の一時期どの本にどれだけ誤植があるか知っているくらいチャンドラーを愛読していた。 意識の流れや説明的なせりふまわしに慣れた現代の若者がチャンドラーやハメットをはじめて手にしたら 「読みにくい」 と感じるはずなんだよね。 そこで諦めないでほしい。 そういうものだと思って何冊も読んでいるうちに読み方がわかってくるから。 おれもそうだったよ。 最後に読み返してから四半世紀にもなるのであやふやだけれど、 たしか清水訳マーロウは地の文では 「私」 で、 会話文では 「僕」。 でもシリーズを通じて一箇所だけ 「俺」 になっていて、 『さらば愛しき女よ』 で薬を盛られて監禁され、 脱出する場面なんだけど、 よっぽど頭にきたんだろうな⋯⋯と笑えたよ。 村上春樹さんは作家としてより翻訳家として好きで、 チャンドラーを訳したらどうなるんだろうと夢想していた。 柴田元幸さんとの対談で実際に取り組んでいると知ったときは、 わくわくしたもんだったよ。 出版された実物は、 清水訳では二十回読み返さなきゃわからなかったことが一度でわかって感激した。 一人称が 「おれ」 で元気な田中小実昌訳もだけれど、 グレープフルーツに 「ざぼんの類い」 と注釈をつけていることで有名な双葉訳 『大いなる眠り』 も Kindle で読めるんだよな。 権利的にグレーな出版だけど。 いろんなひとがチャンドラーを訳していて、 その多くが Kindle で読める。 訳されて電子版も出る作家とそうでない作家の差がひらきすぎ。 小鷹訳ハメットが古い印刷版でしか読めないのはとても残念なことだ。 日本のハードボイルドの夜明けはいつ来るんでしょうかね⋯⋯。
『長いお別れ』 といえばつい先日 NHK のドラマ版を観たのだけれどよく読み込まれていて、 解釈のしかたに感心した。 作家の妻が年齢不相応に少女めいたしゃべりかたをしていたり、 彼女が店にはいってきたとき反応するのが男ではなく噂話好きの女たちだったり、 女性の描き方に説得力があった。 原作は女性や人種にたいする差別意識がひどいので、 うまいこと翻案してあった。 差別意識がもっとも濃く現れている人物を、 歳上の奥様に憧れる 「書生」 に置き換えたり。 いちばん感心したのは戦後のどさくさでのし上がったやくざで、 関西弁でしゃべらせてあって 「わかってるじゃん!」 と嬉しくなった。 モーターボートの騒音を花火に置き換えたあたりも感心した。 映像的にそうでなくてはならない。 通好みのサービスもあって、 看護婦がベッドをめちゃめちゃにひっぱたく場面には 『大いなる眠り』 の読者ならニヤリとさせられたはず。 新聞社をテレビに置き換えたのは NHK の資料を使える利点をうまく活かしたなと思うし、 原作のマーロウも文句をいいながらテレビを観ていたから違和感はなかった。 マーロウが事件にかかわる動機はまちがっていたけれど、 そこはわりとどうでもいい。 翻案に苦心したろうなと思わされる箇所もあって、 たとえばデュードランチに相当する文化がないのをただの西部劇かぶれにしてあるところ、 当時のテレビが題材になっているから筋は通るけれど、 ちょっと苦しいかなと思わされもした。 あと麻薬の描写。 覚醒剤が近所の薬屋でふつうに買えたりマスオが精神安定剤をぼりぼりむさぼってたりする時代なので、 そのあたりの描写はちょっとむりがあったがファンタジーとして許せる。 時代考証でいえば看板の文字がどれもパソコンから出力したフォント然としていて、 そこはかなり気になった。
新訳の話題がうれしくて一時間も Twitter で熱く語ってしまった。 若い作家志望者に役立つアドバイス。 チャンドラーは読むな。 かれはプロットが下手だ。 運転手をだれが殺したのかわからない小説を書くはめになるぞ。 一年半かけた原稿を焼いたのもそれが理由だ。
思いのほか反応があったのでチャンドラーは読まれていることがわかった。 モールの導線はロングテールの指名買いか 「売れるから売れる」 の二極しかない。 利益の最大化のみを意図した関連付けは棚づくりによる文脈の生成とじつは真逆で、 「売れるから売れる」 のみに寄与し 「書店での偶然の出逢い」 は期待できない。 「売れるから売れる」 とはすでによそで知られるための資本が投下されているか、 もしくはソーシャルメディアなり実生活なりでファンがいる (「握った手の数だけ票がとれる」 と同義) ものがクリックされ、 クリックにより優先表示され、 優先表示されるからクリックが誘発されて、 雪だるま式に売れること。 われわれが読みたい本を読むためにはロングテールの指名買いへの導線をモール外で用意するしかない。 ところが指名買いをしようにも望む書籍の権利がモールにおいて許諾されているとはかぎらない。 存在しない本は買えない。 売れなければ表示されないし権利の対価も払えないし出版されない。 かくしてモールには読みたくない本ばかりが溢れかえり、 そのような世界しか知らない若い世代は読書とはつまらぬものだと学習して、 ますます本は売れなくなる。 そもそもロングテールじゃ権利に金を払えない。 音楽におけるフィジカル回帰とおなじことがいずれ起きる。 一度流通したものは残るからだ。 そのときわれわれ読者が読みたい本を探す先は書店ではない。 地域の図書館だ。 読まれない本を処分しないでほしい、 その日のために。
Twitter に時間を融かすのをやめて図書館でナボコフを三冊借りてきた。 電子図書館のちらしを渡された。 知らぬ間におれの街でも利用できるようになっていたらしい。 おそらく OverDrive と契約したのだろうけれど (ちなみに人格OverDrive はあの会社となんの関係もない)、 電子図書館は 「読む権利を借りる」 ものであって、 そこにある本を読む権利があらかじめ市民にひらかれているフィジカルな図書館とはそこがちがう。 図書館には資料を保存する役割もあるので、 税金は物理媒体の購入に使ってほしいんだよな⋯⋯。 わかってないひとがあまりに多すぎるんだけど、 電子書籍やらストリーミングやらってのはコンテンツビジネスじゃなくて権利商売なんだよ。 おれたちが買っているのはコンテンツじゃなく一時的な権利。 法律を使って稼ぐやつらの気まぐれでたまたま読んだり視聴できたりしているだけ。 原稿は燃える。 Amazon が電子書籍の商売に 「燃やす」 と名づけたのはそういう理由。 12 年前の元年には epub にサミズダートの夢を見たけれど、 アルゴリズムが議会を襲撃させる時代にいたって何も希望をもてなくなった。 いっぽう 「電子書籍はインクの匂いがしない」 なんて時代錯誤もギャディスの小説に出てくる小学生に星の美しさを説く教師みたいだ。 おれは小説は 「読めればいい」 と思っているのだけれど、 その最低限の 「読む」 が現代ではいかにむずかしいことか。