裏切り者へ愛をこめて:阿部和重論

連載第19回: おわりに

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2022.
03.16Wed

おわりに

おわりに

たちが阿部に追いつけたとはとても思えないが最後に今一度この作家がいまどこを疾走しているのかを素描しておこう。 『Orga(ni)sm阿部和重は幻覚の中に迷いこみ事情は全く分からないまま生命の危機だけはリアルに感じつつ逃げ惑う。 「うしろを振りかえってみると一〇〇人中九九人がなどとうっかりたとえてしまいそうな分厚い暗がりが目にとまる。 (どちらかというと九九人の側にいるらしい四五歳の小説家は二の足を踏む」 (Org 614-15)。 ありきたりな言葉を思い浮かべさせる圧倒的な闇は、 『アメリカの夜の結末の余白とよく似ている語り手=唯生は彼自身の固有名を書きこむ誘惑に駆られるが言葉である以上固有名はあくまでも複製可能であり実は固有でも何でもない言葉が罵倒であるのはあらゆる言葉がそれを発したこの私を裏切り自分の口から出た言葉すら支配できないの無力を証言し続けるからだそして組織のどこに裏切り者がいるのかわからず、 『Orga(ni)smのラリーやエミリーが孤立するように言葉は私たちにとっても阿部にとっても牢獄である

 だが阿部和重特別な言葉を発する一〇〇人の中の一人としてではなく、 「九九人のなかからひとり脱け出して暗闇を突破してさらにその奥へとつきすすむ」 (Org 615)。 言葉は常に誰とも知れないみんなのものでしかない阿部がそのみんなのなかに埋没しないのは結局のところ裏切り者に決まっている言葉を愛してしまったからだろうそして確かにすべての人間を裏切る言葉は言葉からは何も生まれないと高をくくる者たちをも裏切っていく誰かと同じことを繰りかえすだけで新しいことなど何もはじまらない不毛な反復を超えて阿部は新たな作品を生み作家として生き延び自らを生まれ変わらせる。 『BCMにおいて問題の暗号文書を所有している古書店の地階に降りてみると、 「それじたいが厚みを持っているみたいに奥が見とおせない暗闇」 (BCM 24が横口健二とハナコを待ち受けているその闇の奥へとつきすすんでいく人間が一人の男から一組の男女に変化していることの重要性はもはや言うまでもない

アメリカの夜での堅い石の平面はOrga(ni)smでの闇のカーテンに変化しただからといって言葉という牢獄の扉が開いたわけではない何より私たちが解釈してきた阿部の小説はまだ解読の糸口が見つかっただけの暗号のようなものだそして横口健二とハナコの眼前の暗闇は明りをつけてみれば、 「空気のひそむ隙間さえないのではと疑わせるほど床から天井にいたるまで書物で埋めつくされた空間」 (BCM 24に変わるこれではまるで壁が書物でできた独房ではないか彼と彼女は一見ただの映画批評でしかない暗号文書をその書物の山から見つけださねばならない絶対に解けない暗号はそもそも暗号であると思われていない暗号でありどこにあるのかわからない暗号であるだとすればその暗号が具体的にどこにあるのかを見定める者がいなければ解読は始まりさえしない言葉という最高の裏切り者を愛した作家が書くことを止めない限り批評はその暗号を探し求め解釈することを止めてはならないのだおそらくそんな闇雲な試みの果てに一瞬錯覚かもしれないが一瞬だけ読者は作者を追い抜くというよりも互いの息遣いを感じながら並走することができるそれこそが批評にとって最高の名誉であり作品に対する最上の応答でありその時こそ作者と読者は聞き分けの無い子供たちのように二人にしかわからない合図を交わし言葉という牢獄の壁のわずかな隙間をすり抜けていくに違いない


英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。