おわりに
私たちが阿部に追いつけたとはとても思えないが、 最後に今一度、 この作家がいまどこを疾走しているのかを素描しておこう。 『Orga(ni)sm』 で 「阿部和重」 は幻覚の中に迷いこみ、 事情は全く分からないまま生命の危機だけはリアルに感じつつ逃げ惑う。 「うしろを振りかえってみると、 一〇〇人中九九人が闇のカーテンなどとうっかりたとえてしまいそうな分厚い暗がりが目にとまる。 (⋯) どちらかというと九九人の側にいるらしい四五歳の小説家は二の足を踏む」 (Org 614-15)。 ありきたりな言葉を思い浮かべさせる圧倒的な闇は、 『アメリカの夜』 の結末の余白とよく似ている。 語り手=唯生は彼自身の固有名を書きこむ誘惑に駆られるが、 言葉である以上、 固有名はあくまでも複製可能であり、 実は 「固有」 でも何でもない。 言葉が罵倒であるのは、 あらゆる言葉がそれを発したこの私を裏切り、 自分の口から出た言葉すら支配できない 「私」 の無力を証言し続けるからだ。 そして、 組織のどこに裏切り者がいるのかわからず、 『Orga(ni)sm』 のラリーやエミリーが孤立するように、 言葉は私たちにとっても阿部にとっても牢獄である。
だが 「阿部和重」 は、 特別な言葉を発する一〇〇人の中の一人としてではなく、 「九九人のなかからひとり脱け出して、 暗闇を突破してさらにその奥へとつきすすむ」 (Org 615)。 言葉は常に、 誰とも知れない 「みんな」 のものでしかない。 阿部がその 「みんな」 のなかに埋没しないのは、 結局のところ、 裏切り者に決まっている言葉を愛してしまったからだろう。 そして確かに、 すべての人間を裏切る言葉は、 言葉からは何も生まれないと高をくくる者たちをも裏切っていく。 誰かと同じことを繰りかえすだけで、 新しいことなど何もはじまらない不毛な反復を超えて、 阿部は新たな作品を生み、 作家として生き延び、 自らを生まれ変わらせる。 『BCM』 において、 問題の暗号文書を所有している古書店の地階に降りてみると、 「それじたいが厚みを持っているみたいに奥が見とおせない暗闇」 (BCM 24) が横口健二とハナコを待ち受けている。 その闇の奥へとつきすすんでいく人間が、 一人の男から一組の男女に変化していることの重要性は、 もはや言うまでもない。
『アメリカの夜』 での堅い石の平面は 『Orga(ni)sm』 での闇のカーテンに変化した。 だからといって、 言葉という牢獄の扉が開いたわけではない。 何より、 私たちが解釈してきた阿部の小説は、 まだ解読の糸口が見つかっただけの暗号のようなものだ。 そして横口健二とハナコの眼前の暗闇は、 明りをつけてみれば、 「空気のひそむ隙間さえないのではと疑わせるほど、 床から天井にいたるまで書物で埋めつくされた空間」 (BCM 24) に変わる。 これではまるで、 壁が書物でできた独房ではないか。 彼と彼女は、 一見ただの映画批評でしかない暗号文書を、 その書物の山から見つけださねばならない。 絶対に解けない暗号は、 そもそも暗号であると思われていない暗号であり、 どこにあるのかわからない暗号である。 だとすれば、 その暗号が具体的にどこにあるのかを見定める者がいなければ解読は始まりさえしない。 言葉という最高の裏切り者を愛した作家が書くことを止めない限り、 批評は、 その暗号を探し求め、 解釈することを止めてはならないのだ。 おそらくそんな闇雲な試みの果てに一瞬、 錯覚かもしれないが一瞬だけ、 読者は作者を追い抜くというよりも、 互いの息遣いを感じながら並走することができる。 それこそが批評にとって最高の名誉であり、 作品に対する最上の応答であり、 その時こそ作者と読者は、 聞き分けの無い子供たちのように、 二人にしかわからない合図を交わし、 言葉という牢獄の壁のわずかな隙間をすり抜けていくに違いない。