阿部に追いつこうと懸命だった私は、 このキスの場面で立ちつくした。 『Orga(ni)sm』 の 「オバマ大統領」 の頭の中では、 ローリング・ストーンズ 「ギミー・シェルター」 の一節が何度となく再生される。 「War, children. It’s just a shot away」 (Org 839)。 子供たちよ、 戦争は目前だ、 たった一発の銃声ではじまる。 銃口を黙らせて、 戦争を告げる声を響かせないことが 『Orga(ni)sm』 では重要だった。 だが、 このストーンズの名曲の最後の歌詞はこうだ。 「I tell you love, sister. It’s just a kiss away」 愛はすぐそこにあり、 たった一度のキスではじまる。 ここまでいちいち断らなかったが、 オバマの幼い頃の訪日エピソードや、 「ギミー・シェルター」 が彼のお気に入りであることは、 阿部が都合よく作り上げたフィクションなどではない。 『Orga(ni)sm』 を書いた後で 「ギミー・シェルター」 の歌詞の別の部分が利用できると判断したのか、 あらかじめそれを見越して 「オバマ大統領」 の脳内でこの曲をリフレインさせたのかなど、 どうだっていい。 これほどまでに、 自分が書いたわけでもない言葉や、 自分の意思とは関係なく生じた事実ですら母胎にしてしまう小説家に、 書けないことなど何もない。
自らを成長させ続ける阿部にとって、 最新作こそ最重要作品である。 このことを最後に示すため、 改めて大西巨人 『神聖喜劇』 を引き合いにだそう。 この作品がなければ、 「わたしは自分自身のデビュー作 『アメリカの夜』 を現在の形に書き得なかった」 1と阿部は書いている。 『BCM』 のハナコは夫と死別しているが、 彼女と横口が結ばれる道はない。 幼い娘がいる北朝鮮にハナコは帰っていく。 ところが 『BCM』 の結末で横口は、 北朝鮮で撮影中の 「近未来戦争映画」 の 「荒廃する市街地セットの片隅」 に、 「『横口』 と 『ハナコ』 をならべた相合傘」 の落書きを見つけて涙を流す (BCM 65)。 止まない雨に打たれているかのように、 彼女の仮名にはずっと傍点が付け足されていたが、 この箇所でだけそれが消えているのは、 彼と彼女が同じ傘のなかにいるからだ。 傘は、 恋人たちが逃げこむ最小のシェルターだ。 それは、 花と龍という二匹のマルチーズを両脇に抱えたあの映記の姿にも似ている。 そして相合傘の落書きが、 ちょうど上向きの矢印のように描かれることは誰でも知っている。 ここで私は、 『神聖喜劇』 の決定的な場面を思い出す。 主人公をはじめとする新兵たちの教育期間の中で、 一人の兵士が、 お前は戦場で銃を撃ち、 人を殺す覚悟があるのかと問われる。 前後左右、 どちらに向けて撃とうと誰かが死ぬのが戦場だ。 彼は決然と答える。 鉄砲は 「前とかうしろとか横とか向けてよりほか撃たれんとじゃありまっせん。 上向けて、 天向けて、 そりゃ、 撃たれます」 2。 殺し合いを拒絶する一発の垂直な銃声についての言葉は、 主人公を含む多くの兵士たちの心を動かす。 阿部は、 彼自身の神聖なる喜劇である 『BCM』 を、 やはり天に向けた矢印によって終わらせた。 愛は確かに芽生え、 戦争の光景の中に書きこまれ、 もはや誰にも消すことはできない。