裏切り者へ愛をこめて:阿部和重論

連載第17回: 甘き死を超えて 3

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2022.
03.02Wed

甘き死を超えて 3

承前

たがって育成に重点を置いているにもかかわらず阿部はOrga(ni)smで積極的に母親を描かない文字通りの母が不在であるが故に、 『Orga(ni)smは母なるものに満たされているこの小説を読みだした私は、 「阿部和重の自宅のソファーが二年前に妻が買った」 (Org 39ものだとわざわざ明言されている理由がわからず首をひねっただが幼き者あるいは弱き者を包みこむフワフワしたものはどうしても母のものでなければならなかったのだこのソファーのうえに瀕死のラリーは横たわりそのラリーに映記が抱きついて眠る神町では、 『シンセミアにも登場したヤクザの麻生未央が再登場するのだが商売が商売だけにゴタゴタで危なくなったとき彼女は二匹のマルチーズ花と龍を映記に託す。 「実際に二匹を受けとったのはラリーだが父親の腕のなかにいる三歳児に顔を寄せて彼女は話しかけ愛犬を委ねた」 (Org 755)。 やがて作品のクライマックスで父の目の届かないところに向かった映記は苦労しつつも幼児のちいさな体で二匹同時の抱っこ」 (Org 817を成功させるこうして抱っこされるばかりだった少年が抱っこするようになる映記とともにソファーに抱かれていたラリーが神町に向かう途中の車内で映記に優しくブランケットをかけてくれた」 (Org 327ように、 『Orga(ni)smの育成は連綿と続いて多重化していくものでありだからこそ意味がある映記が抱っこするフワフワした犬は一匹ではなく二匹でなければならないのだ故にようやく母に再会して母子による抱擁」 (Org 824が果たされるとはいっても映記の育成にはすでに決定的な変化が生じている

Orga(ni)smの解釈をさらに洗練させることもできるが私たちは阿部に追いつかねばならないのだから最新作ブラック・チェンバー・ミュージック』 (以下BCM』) の解釈に踏みこもう初の米朝首脳会談が行われた二〇一八年以前大麻で逮捕されて映画監督としてのキャリアを棒に振った横口健二は知り合いのヤクザ沢田龍介から奇妙な依頼を受ける北朝鮮から送りこまれた謎の女性仮名と共にある文書を探せというのだそれはアルフレッド・ヒッチコック監督の映画についての批評文だが実は最高指導者の継承問題に関わる秘密が隠された暗号だという

 ここまでの解釈をふまえてBCMを読めば阿部は死ぬまで作品を生み出すことをやめないだろうと確信するまるで様々な役を演じる俳優のように神町サーガの構成要素が違った色合いをまとい再登場するのだがこれは何よりも自らの過去の作品を読みなおし書きかえる作家としての生命力の強さを示している。 「熊女と蔑まれて殺されたシンセミアの娼婦が、 『Orga(ni)smではシロクマみたいな映記へと生まれ変わったことはすでに述べた。 『BCMでは横口を脅かしつつもそれなりに面倒見のいいヤクザ沢見がゆるキャラのくまモンに喩えられるしかも横口とが探す文章を持っている古書店の主の名前は熊倉リサでその店でバイトする老人は白いカウチンセーターなんかをまとって帳場にちょこんと座っているから北極熊の子どもとでも顔をあわせているかのような心地にさせられる」 (BCM 20)。 阿部にとって過去の作品群は新たな作品を生み出す母型マトリックスなのだ

 では、 『BCMはそれまでの作品とどう違うのかあっけない答えに聞こえるだろうが阿部は最新作でごくごく普通の意味での恋愛を描いたあらすじを読むだけでも横口健二とハナコがやがて恋に落ちることは想像がつくだろう幸福な恋愛つまり互いを認め求めあう二人の人間を描くことに対して長らく阿部は慎重だった。 『ニッポニアニッポンの鴇谷春生が本木桜に恋してストーカーになったように阿部はむしろ他者への執着が暴走する危険性を描いてきたからだ。 『シンセミアの田宮博徳と和歌子は罵倒を慎むことで和解したがこの夫婦も作品全体の暴力的な流れに飲み込まれていった

 横口健二とは違う作品の中盤に付き添って横口も密航船に乗りこむと予期せぬ事態でだけが夜の海に手漕ぎのボートで放り出されそうになりしかも自身がそれに文句も言わず従おうとする横から口をはさむ横口が抗議すると逆に船長からあんたらいい加減にしてくれよ! 燃料がないんだよ燃料が!」 (BCM 49と怒鳴られるまたしても罵倒が連鎖して燃料がないはずの密航船が爆発でもするのかと私は固唾を吞む普段は押しの弱い横口が、 「おいふざけんなよおっさん」 (BCM 49と声を荒げるところが怒りの響きに満ち満ちた横口の言葉が突然とぎれる。 「声を出せなくなってしまったのはいきなり口に蓋をされたからだ横口健二の目の前にあるのはの顔であり口をふさいでいるのは彼女の唇だった」 (BCM 49)。 暴力の火種がキスで鎮火された。 (つづく

次回は 3 月 9 日ですお楽しみに!

英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。