したがって、 育成に重点を置いているにもかかわらず、 阿部は 『Orga(ni)sm』 で積極的に母親を描かない。 文字通りの母が不在であるが故に、 『Orga(ni)sm』 は母なるものに満たされている。 この小説を読みだした私は、 「阿部和重」 の自宅のソファーが 「二年前に妻が買った」 (Org 39) ものだとわざわざ明言されている理由がわからず首をひねった。 だが、 幼き者あるいは弱き者を包みこむフワフワしたものは、 どうしても母のものでなければならなかったのだ。 このソファーのうえに瀕死のラリーは横たわり、 そのラリーに映記が抱きついて眠る。 神町では、 『シンセミア』 にも登場したヤクザの麻生未央が再登場するのだが、 商売が商売だけにゴタゴタで危なくなったとき、 彼女は二匹のマルチーズ (花と龍) を映記に託す。 「実際に二匹を受けとったのはラリーだが、 父親の腕のなかにいる三歳児に顔を寄せて彼女は話しかけ、 愛犬を委ねた」 (Org 755)。 やがて作品のクライマックスで、 父の目の届かないところに向かった映記は、 苦労しつつも 「幼児のちいさな体で二匹同時の抱っこ」 (Org 817) を成功させる。 こうして、 抱っこされるばかりだった少年が抱っこするようになる。 映記とともにソファーに抱かれていたラリーが、 神町に向かう途中の車内で 「映記に優しくブランケットをかけてくれた」 (Org 327) ように、 『Orga(ni)sm』 の育成は連綿と続いて多重化していくものであり、 だからこそ意味がある。 映記が抱っこするフワフワした犬は一匹ではなく二匹でなければならないのだ。 故に、 ようやく母に再会して 「母子による抱擁」 (Org 824) が果たされるとはいっても、 映記の育成にはすでに決定的な変化が生じている。
『Orga(ni)sm』 の解釈をさらに洗練させることもできるが、 私たちは阿部に追いつかねばならないのだから、 最新作 『ブラック・チェンバー・ミュージック』 (以下 『BCM』) の解釈に踏みこもう。 初の米朝首脳会談が行われた二〇一八年、 以前大麻で逮捕されて映画監督としてのキャリアを棒に振った横口健二は、 知り合いのヤクザ沢田龍介から奇妙な依頼を受ける。 北朝鮮から送りこまれた謎の女性 (仮名ハナコ) と共に、 ある文書を探せというのだ。 それはアルフレッド・ヒッチコック監督の映画についての批評文だが、 実は最高指導者の継承問題に関わる秘密が隠された暗号だという。
ここまでの解釈をふまえて 『BCM』 を読めば、 阿部は死ぬまで作品を生み出すことをやめないだろうと確信する。 まるで様々な役を演じる俳優のように、 神町サーガの構成要素が違った色合いをまとい再登場するのだが、 これは何よりも、 自らの過去の作品を読みなおし書きかえる作家としての生命力の強さを示している。 「熊女」 と蔑まれて殺された 『シンセミア』 の娼婦が、 『Orga(ni)sm』 ではシロクマみたいな映記へと生まれ変わったことはすでに述べた。 『BCM』 では、 横口を脅かしつつもそれなりに面倒見のいいヤクザ沢見がゆるキャラのくまモンに喩えられる。 しかも、 横口とハナコが探す文章を持っている古書店の主の名前は熊倉リサで、 その店でバイトする老人は 「白いカウチンセーターなんかをまとって帳場にちょこんと座っているから、 北極熊の子どもとでも顔をあわせているかのような心地にさせられる」 (BCM 20)。 阿部にとって過去の作品群は、 新たな作品を生み出す母型 (マトリックス) なのだ。
では、 『BCM』 はそれまでの作品とどう違うのか。 あっけない答えに聞こえるだろうが、 阿部は最新作でごくごく普通の意味での 「恋愛」 を描いた。 あらすじを読むだけでも、 横口健二とハナコがやがて恋に落ちることは想像がつくだろう。 幸福な恋愛、 つまり互いを認め求めあう二人の人間を描くことに対して、 長らく阿部は慎重だった。 『ニッポニアニッポン』 の鴇谷春生が本木桜に恋してストーカーになったように、 阿部はむしろ、 他者への執着が暴走する危険性を描いてきたからだ。 『シンセミア』 の田宮博徳と和歌子は罵倒を慎むことで和解したが、 この夫婦も作品全体の暴力的な流れに飲み込まれていった。
横口健二とハナコは違う。 作品の中盤、 ハナコに付き添って横口も密航船に乗りこむと、 予期せぬ事態でハナコだけが夜の海に手漕ぎのボートで放り出されそうになり、 しかもハナコ自身がそれに文句も言わず従おうとする。 横から口をはさむ横口が抗議すると、 逆に船長から 「あんたらいい加減にしてくれよ! 燃料がないんだよ燃料が!」 (BCM 49) と怒鳴られる。 またしても罵倒が連鎖して、 燃料がないはずの密航船が爆発でもするのか、 と私は固唾を吞む。 普段は押しの弱い横口が、 「おいふざけんなよおっさん」 (BCM 49) と声を荒げる。 ところが、 怒りの響きに満ち満ちた横口の言葉が突然とぎれる。 「声を出せなくなってしまったのは、 いきなり口に蓋をされたからだ。 横口健二の目の前にあるのはハナコの顔であり、 口をふさいでいるのは彼女の唇だった」 (BCM 49)。 暴力の火種が、 キスで鎮火された。 (つづく)