注意深く見守る 「育成」 が、 閉じこめて殺す 「監禁」 という裏面を持つことを思えば、 この甘い死の匂いにも納得がいく。 甘味は妊婦と胎児、 つまり女性と子供のものなのだ。 「オバマ大統領」 は、 母に連れられて子供の頃に鎌倉の大仏を見に行った時は 「抹茶アイスクリームの方に夢中だった」 (Org 7)。 CIAでのラリーの同僚であるエミリー・ウォーレンという女性は 「阿部和重」 も何かとヒヤヒヤさせるが、 彼女も大好物のチョコ菓子 「小枝」 (Org 524) には笑顔を見せる。 新たな命が生まれるか否かの瀬戸際である妊娠期間も、 一人では生きていけない子供の育児期間も、 生と死が境を接する時期であることに変わりはない。 その境目を阿部は甘く味つけする。
だが、 すでに強調したように、 私たちが言う 「育成」 は親子の間のそれよりも幅広いものを指す。 たとえば、 大人の男であっても瀕死の怪我人は赤ん坊のようなものであり、 それゆえ重傷を負ったラリーも甘いものに誘惑される。 たまたま映記と同じ誕生日のラリーに 「阿部和重」 がチョコレートケーキを出してやると、 「身動きの取れないひきこもりの怪我人にとってあまいもんは危険きわまりない」 (Org 94) からといって一口だけでラリーは我慢する。 そのくせラリーは痛み止めとして大麻を吸い、 平気な顔で 「阿部和重」 にもそれを勧めるのだから、 甘いものがいかに絶大な快楽と危険性を備えたものとして描かれているかが分かるだろう。 「阿部和重」 の妻である映画監督 「川上」 には山下さとえというアシスタントがいるのだが、 監督の無茶な指示に振り回される彼女が登場する場面では、 「連戦連勝の大本営発表」 (Org 464) のような戦争の比喩が動員される。 いつ死んでもおかしくない戦場のような状況で生きる山下も、 「やたらとあまいものをほしがってホットケーキと山形県産だだちゃ豆アイスクリームとクレームブリュレ」 (Org 463) をあっという間に平らげる。
そして山下の苦しみは、 作品を完成させるための 「産みの苦しみ」 である。 ここでもまた、 「丸裸」 や 「濡れ衣」 と同様、 阿部は定型的な表現を文字通りに書くことで作品を構築している。 「阿部和重」 は、 エージェントの仁枝亮作に 「スイーツバイキング」 (Org 274) をおごらせて、 映記とラリーのおかげで原稿の執筆どころではないと愚痴るのだが、 子育てと介護なんてまさに現代的なテーマじゃないですかと仁枝は言う。
「へえ、 そうなんだ。 なんだか不思議とやる気でてきたわ」
「なによりです。 われわれエージェントはせいぜいケツひっぱたくかおやつ奢ってあげることくらいしかできませんからね」
「そいつはありがたい。 親ごころのようなものすら感じるよ」 (Org 273 傍点引用者)
作家もまたアメとムチで育てられる子供であり、 その作家にとっての子供とは作品のことだ。 『Orga(ni)sm』 の育成は、 もう一つ別の育成を行う者を生み出そうとする行為なのだ。 そうでなければ、 監禁の反復や暴力の連鎖に抵抗できない。 父親 「阿部和重」 を描くことで、 阿部はみずからを作品の母親として生まれ変わらせようとしている。 映記にとってパパではママの代わりにならないことくらい 「阿部和重」 は知っているだろうが、 それでも、 父でありかつ母でもあるような存在とは、 理想的な親ではなかろうか。
ありふれた定型表現を文字通りに描くということは、 現実の事物とそれを意味する言葉との間を行ったり来たりするということだ。 文字通りの子供だけでなく、 文字として生み出される作品を、 阿部と 「阿部和重」 は育て上げる。 こうした意味での育成についてなら、 やはり 「オバマ大統領」 より映記の方が重要になる。 「いちごの果汁グミ」 (Org 394) や 「チョコチップクッキー」 (Org 411) で機嫌をとることはできても、 映記は母親を求め続けている。 しかし逆に言えば、 甘いお菓子は映記にとって母親の抱っこの代替物ということになる。 いまここにはないものの代わりをすること、 それは言語の機能の最たるものだ。 その意味で、 ホットケーキそのものではなく 『しろくまちゃんのほっとけーき』 を愛読する映記は、 すでに少しずつ母の不在に耐えはじめている。
その一方で、 『アメリカの夜』 で余白に書きこまれるはずの墓碑銘 (死者の名) がそうであるように、 言葉はそれが意味するものがいまここにはないことを暗示して、 人を苦しめる。 だから、 ラリーが不用意に 「川上」 の名前を出すと、 映記は即座に 「ママは?」 と問いかけてパパを困らせる。 「このあとも二〇分ほど延々とおなじ応答をくりかえさねばならぬ羽目となった」 (Org 387)。 同じことを何度も言い聞かせねばならない子供は、 まるで書いたそばから文字が消去される厄介な白紙のようだ。 (つづく)