4. 甘き死を超えて
もうお主も気のついたろうが、 兵隊になったら、 誰も彼もが、 ──もともと左利きの菓子なんかどうでもよかった奴までが、 ──おかしかごと甘い物を欲しがるけんねぇ。
大西巨人 『神聖喜劇』
破壊と暴力の嵐は生まれ変わり、 『Orga(ni)sm』 の 「阿部和重」 を脅かす。 母が留守にしているものだから、 まだ三歳にもならない息子の映記はぐずり、 (パパじゃなくて) 「ママがいいの嵐」 (Org 47) で父を疲弊させる。 「数件の屋根が吹き飛ばされていてもおかしくない勢い」 (Org 10) で泣き叫び、 ヤクルトをがぶ飲みしてオネショする映記は、 『シンセミア』 で神町を水浸しにした台風のミニチュア版だ。
だからこそ、 映記がどのように育成されるのかを解釈せねばならない。 東京の 「阿部和重」 の自宅に逃げ込む前、 ラリー・タイテルバウムは神町で菖蒲カイトを拉致して、 CIAのセーフハウスに監禁する。 ラリーはカイトが核爆弾を入手したと考えているので、 カイトが浴室で水責めの拷問を受けるのは不自然なことではない。 しかし、 カイトの服を脱がせたラリーがわざわざ自分も 「すっぱだか」 (Org 186) になって入浴しつつ拷問するという展開は、 私たちが指摘した監禁と洗浄のつながりを踏まえないと理解しにくい。 自らもまた監禁される監禁者の宿命をなぞるラリーは、 息子をお風呂に入れるために自分も入浴する父親を思わせる。 思わせるどころか、 文字通り映記を入浴させている別の場面での 「阿部和重」 がふと気づくと、 「カウブランド無添加泡のボディソープを使いすぎて息子がミシュランマンみたいになっている」 (Org 284)。 つまり、 シロクマみたいに真っ白でモコモコした生き物ということだが、 当然これは、 冬の川で水浴びさせられても全身が真っ黒だったあの娼婦 (「熊女」) をネガポジ反転させたものだろう。 映記の愛読書が 『しろくまちゃんのほっとけーき』 (Org 387) という絵本であるのもうなずける。
『Orga(ni)sm』 は、 映記に加えて 「オバマ大統領」 の育成を描いている。 求心力が低下した大統領は、 野球の始球式で履いたダサいジーンズまで馬鹿にされる。 「母親が好むような種類」 のだぼっとしたジーンズを履く大統領ではダメだ、 「クマと格闘し、 石油を掘る」 と言われるロシアの武闘派マッチョ大統領には勝てっこない、 ということだ (Org 260-61)。 だが、 暴力に暴力で対抗する強い男を育てることが、 『Orga(ni)sm』 の目指すところではない。 母親にジーンズを買ってきてもらう男とは、 つまりへその緒が (完全には) 切れていない胎児のようなものだ。 この大統領と対になる映記もまた、 「抱っこ癖がぬけず、 いつも母親をこまらせている」 (Org 11)。
前節まで述べてきたことから明らかだが、 育成は最後の最後まで、 暴力と完全に手を切ることができない。 「阿部和重」 もまた、 みぞおちに映記の 「強烈な右ストレート」 (Org 374) を食らう。 ここに暗示された父と息子の対決は 「オバマ大統領」 の身にも生じるのだが、 となるともちろん 『スター・ウォーズ』 だ。 作品終盤では、 「オバマ大統領」 が 「オサマに似た男」 (Org 836) とライトセーバーで戦い、 私こそお前の父親だ、 と告げられる。 これはもちろん菖蒲みずきの秘術による幻覚と思われるが、 その後、 『シンセミア』 の冒頭で隈本光博が使った拳銃 (通称チーフ・スペシャル) が、 みずきと田宮光明 (田宮彩香と隈本の息子) の手から、 米国最高指揮官 (コマンダー・イン・チーフ) であるオバマ・スカイウォーカーに託される。 どちらも父を失った一組の男女から、 悪しき父の二の舞になりかねない息子へと何かが受け継がれ、 神町三部作が終わっていく。
興味深いことに 『Orga(ni)sm』 では、 暴力が描かれる文脈にしばしば甘い食べものが登場する。 『シンセミア』 でも、 郡山橋事件の加害者は凄惨な拷問を 「洋菓子の甘い香りが漂う」 (SS II, 219) 不思議な体験として回顧していた。 『ピストルズ』 では、 菖蒲家に漂う 「馨香」 を嗅いだ石川の脳裏に、 これまた脈絡もなく 「汚物の上に横たわる、 何体もの人間の死体」 (Ps I, 37) の映像が浮かぶ。 『Orga(ni)sm』 はさらに徹底していて、 甘味の種類も具体的だ。 菖蒲家の秘術で幻覚の中に迷いこんだ 「阿部和重」 は、 どうやら市街戦の行われているらしい街を彷徨う。 もちろん目の前で人が死ぬ。 「レアチーズケーキとかムースとかババロアとか、 白っぽくてふわふわしたスイーツにたとえたくなるようなかけらがイチゴジャムを添えてあちこちに散らばっているが、 それらはたぶん肉片とか脳漿とか、 ほんの数秒前は人間の身体の一部だったものだろう」 (Org 614)。 (つづく)