『ピストルズ』 では監禁から育成への転換が十分に果たされなかった。 星谷影生が菖蒲カイトの後頭部を叩く場面で、 『グランド・フィナーレ』 の読者は既視感を覚えたかもしれない。 一人娘にプレゼントを渡してもらおうとした沢見に向かって、 伊尻という友人は、 諦めろ馬鹿というようなことを言う。 「馬鹿野郎はお前のほうだこんちくしょうが──伊尻をそう怒鳴りつけるつもりで口を真ん丸く開きかけたわたしは、 不意に後頭部をぱしりと叩かれたせいで懐かしい感覚が甦ってきてブレーキを掛けられてしまい (⋯)」 (GF 49)。 沢見の後頭部を叩いたのは、 やはりあの女性Iである。 ここで重要なのは、 罵倒を制止する人間 (星谷/I) の性別だけではない。 なぜなら、 カイトが乱暴な口をきかないよう止めた星谷自身が口の悪い男であるのとは対照的に、 Iは沢見を口汚く罵ったりしないからだ。 罵倒という言葉の暴力を抑制するにあたり、 星谷とIのどちらが適任かは明らかだろう。
菖蒲水樹とみずきの間には、 Iと沢見のような関係が成立しない。 小学五年生のとき、 上級生のケンカに巻きこまれて、 みずきは母 (吾川捷子) が残した大切なヴァニティケースを壊されてしまう。 激怒したみずきは秘術で上級生たちを痛めつける。 当然父はそれを咎める。 当然娘は、 最初から秘術を使えばそもそも問題にならなかったと言い返す。 「それはカイトの受け売りだな、 という意地悪な論点のすりかえが、 父からみずきへの応答でした」 (Ps II, 258)。
この 「意地悪」 な応答では何が起きているのか。 確かにみずきの言い分は、 『ピストルズ』 冒頭ですでに開陳されていたカイトの主張を引き写しただけに見える。 そしてこれは、 いくつも例を挙げたように、 言葉の発信者や受信者が代理人になるという事態である。 だが、 だからといってみずきの言い分が間違っているということにはならない。 語られる事柄の妥当性と、 それを語っているのが誰かという問題は、 強く結びついてはいるが別々に考えるべきことだからだ。 まして、 一般的に妥当することを真実と呼ぶなら、 その真実を語るのが具体的に誰であってもかまわないし、 逆に、 どれほど抽象的なことでも、 結局は個別の人間によって語られるしかない。 一般性/個別性 (あるいは抽象/具体) の境界線もまた、 言葉によって乗り越えられる。 つまり、 お前はお前の言葉で語ることすらできない、 と父・水樹が暗に娘・みずきに告げる時、 それは言葉の暴力であると同時に、 相手の言葉を奪う暴力なのだ。 それでいて水樹がみずきに言い聞かせようとしているのは、 要するに暴力はよくないということだ。 これが矛盾でなくてなんだろう。
こちらに銃口を向けている人間に金銭を要求されるならまだしも、 「暴力では何も解決しない」 などと説教されれば、 その言行不一致に困惑するしかない。 つまり、 その言葉は真実を告げる説諭ではあるが、 それが発された状況次第では、 こちらを馬鹿にしているのかと思うような不条理な言葉、 つまりは罵倒になる。 というより、 思わずツッコまずにいられないボケだろうか。 ツッコミなら笑い話だが、 笑えない暴力に発展することもある。 『ピストルズ』 の 「血の日曜日事件」 は、 娘の育成に失敗した父親の悲劇であり、 その失敗の原因は、 結局のところ言葉以外にはない。
『Orga(ni)sm』 の解釈に先だって、 私たちはスタートラインに引き戻される。 この作品のテーマは 「言葉による暴力の抑制」 である。 だが言葉も暴力も、 個別具体的には様々なかたちをとり、 こういった抽象的な命題では何も言ったことにならない。 そしてここでもまた、 言葉はその両義性を発揮する。 抽象的すぎて何も言っていない命題は、 同時に、 何もかもあらかじめ総括して語っているようにも見えるからだ。 だからこそそれは、 具体的な小説を読んだフリをするのにはとても役に立つ。 正しいからだ。 私たちはこの安全で無難な正しさを超えていこう。 『Orga(ni)sm』 の 「オバマ大統領」 は、 対話を重視し武力行使に慎重であろうとしつつ、 それだけに他国には侮られ、 さらなる暴力が引き起こされるかもしれないというジレンマに悩まされる。 これこそ、 あらゆる言葉が暴力的な罵倒になりうるという視点から私たちが指摘してきたものだ。 「大いなる矛盾をみずからひきうけるバラク・オバマがひとつの身体にかたく閉じこめられていることの困難」 (Org 258) という表現は、 監禁や、 それに結びつくその他の主題が維持されていることを示す。 幼少期に日本を訪れた 「オバマ大統領」 は、 「母の手を掴み、 何があってもお母さんを守るんだ」 (Org 6) と決意していた。 『Orga(ni)sm』 という大いなる育成の試みを、 わずかばかりでも直に見守ってみたい。