しかし、 女性やトランスジェンダーだけが複数の名をもつわけではない。 シュガーさんやあおばは、 言語に本来備わっている特性を開花させているだけであって、 同じことが男性の身にも生じるのは言うまでもない。 その特性をより明確にするため、 『ニッポニアニッポン』 に目を向けよう。 トキを狙って佐渡島に渡航した鴇谷春生は、 道中で瀬川文緒という少女に出会う。 決行を明日に控えた夜、 春生は目の前の文緒に向かって、 まるで文緒が、 死んでしまった別の少女 (春生が一方的に恋した本木桜) であるかのように叫ぶ。 「だからさあ! ねえ、 桜ちゃん、 もうお終いにしようよ! (⋯) 頼むよ。 だって君は、 俺に一言も断らずに、 何の説明もなく、 勝手に死んじまったんじゃないか!」 (NN 357)。 これを春生の錯乱として片づけるべきではない。 春生は死者に向けて語りかけているのであり、 本来の相手の耳に響くはずのない春生の絶叫は、 間違った相手に届く手紙のようなものだ。
『グランド・フィナーレ』 では逆に、 死者が生者に向けて言葉を残す。 すでに触れたように春生の妹の亜美と石川麻弥は自殺を決意して、 遺言がわりのメッセージをこめた舞台の指導を沢見克実に依頼する。 それは勿忘草 (ワスレナグサ) の名の由来をめぐる劇なのだが、 恋人ベルタのために美しい花をとろうとして死んだルドルフの話を、 沢見はむしろ、 ベルタに対する呪いの物語として解釈する。 「死にゆく者から託された願いは、 それを受け止めた者に対して絶対的な命令のごとき強制力を及ぼしてしまう」 (GF 137)。 自分を忘れないでくれというルドルフの言葉は彼の死後もベルタを拘束し、 彼女は死ぬまで勿忘草を身に着ける。 死者の言葉は、 死ぬまで私たちの自由を奪う脱獄不可能な牢獄だ。 本木桜 (瀬川文緒) に対して春生も、 「もう、 俺の好きにさせてくれよ!死んでまで、 俺を縛り付けるのはやめてくれないか!」 (NN 357) と言っていた。 それなのに、 生と死との間の境界線ですら、 言葉が越境していくのを止められない。
だから、 死者と生者の交流は、 むしろ言語の常態である。 故郷の神町に戻ってくる前、 沢見は友人の女性Iと二人きりで話しこむ。 Iは、 沢見自身の口から娘の裸体を撮影した件を改めて説明させて、 最後に彼女の意図が明かされる。 詳細は不明だが、 Iには昔、 やはり小児性愛者の餌食となって死んだ友人がいた。 「あたしが今日、 ここに来たのは、 許せなかったからなの。 (⋯) 一言いってやらなきゃ気が済まなかったの。 自分と無関係なことでもね。 沢見さんみたいな人のせいで、 あたしの友だち死んでるのよ。 自殺だけど、 殺されたようなものでしょ」 (GF 98-99)。 Iはもちろん死んでしまったその友人ではない。 Iが許せないのは、 沢見本人というより、 「沢見さんみたいな」 他の小児性愛者だろう。 つまり、 このIから沢見へのメッセージでは、 送信者も受信者も代理人にすぎない。 しかし私たちは、 自分自身が被害を受けたわけでもない悲劇に憤り、 加害者を擁護する者たちをその加害者自身であるかのように糾弾する。 それ故に無責任な噂や誹謗中傷が生じる可能性はある。 だが当事者と非当事者の区別をものともしない言葉という厄介な代物を捨て去ることなどできないし、 捨てるべきではない。
Iの言葉は、 読んでいて物足りないくらいありきたりだ。 だがそれは沢見の 「胸に突き刺さって」 (Ps II, 308) いる。 沢見は、 手垢のついた言葉が重大な真実を告げることもあると学んだのだ。 だから、 石川麻弥と鴇谷亜美が、 私たちには今が大事、 これが最後なんですと訴えるのを聞いて、 「さんざん聞き飽きたような」 (GF 127) 言葉だと思いつつも、 沢見は彼女たちが自殺しようとしていることに勘づく。 「私たちにお芝居を教えてください」 (GF 121) という少女たちの願いを叶えることで、 沢見は自分が学んだことを実践し、 彼自身に対する教育 (あるいは育成) を完遂しようとしている。 それは彼の贖罪の試みであり、 彼女たちに自殺を思いとどまらせることでもある。 監禁の反復は、 こうして育成の継続となる。 (つづく)