裏切り者へ愛をこめて:阿部和重論

連載第13回: ゆりかごを揺らす獄吏の手 4

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2022.
02.02Wed

ゆりかごを揺らす獄吏の手 4

承前

かし女性やトランスジェンダーだけが複数の名をもつわけではないシュガーさんやあおばは言語に本来備わっている特性を開花させているだけであって同じことが男性の身にも生じるのは言うまでもないその特性をより明確にするため、 『ニッポニアニッポンに目を向けようトキを狙って佐渡島に渡航した鴇谷春生は道中で瀬川文緒という少女に出会う決行を明日に控えた夜春生は目の前の文緒に向かってまるで文緒が死んでしまった別の少女春生が一方的に恋した本木桜であるかのように叫ぶ。 「だからさあ! ねえ桜ちゃんもうお終いにしようよ!頼むよだって君は俺に一言も断らずに何の説明もなく勝手に死んじまったんじゃないか!」 (NN 357)。 これを春生の錯乱として片づけるべきではない春生は死者に向けて語りかけているのであり本来の相手の耳に響くはずのない春生の絶叫は間違った相手に届く手紙のようなものだ

グランド・フィナーレでは逆に死者が生者に向けて言葉を残すすでに触れたように春生の妹の亜美と石川麻弥は自殺を決意して遺言がわりのメッセージをこめた舞台の指導を沢見克実に依頼するそれは勿忘草ワスレナグサの名の由来をめぐる劇なのだが恋人ベルタのために美しい花をとろうとして死んだルドルフの話を沢見はむしろベルタに対する呪いの物語として解釈する。 「死にゆく者から託された願いはそれを受け止めた者に対して絶対的な命令のごとき強制力を及ぼしてしまう」 (GF 137)。 自分を忘れないでくれというルドルフの言葉は彼の死後もベルタを拘束し彼女は死ぬまで勿忘草を身に着ける死者の言葉は死ぬまで私たちの自由を奪う脱獄不可能な牢獄だ本木桜瀬川文緒に対して春生も、 「もう俺の好きにさせてくれよ!死んでまで俺を縛り付けるのはやめてくれないか!」 (NN 357と言っていたそれなのに生と死との間の境界線ですら言葉が越境していくのを止められない

 だから死者と生者の交流はむしろ言語の常態である故郷の神町に戻ってくる前沢見は友人の女性Iと二人きりで話しこむIは沢見自身の口から娘の裸体を撮影した件を改めて説明させて最後に彼女の意図が明かされる詳細は不明だがIには昔やはり小児性愛者の餌食となって死んだ友人がいた。 「あたしが今日ここに来たのは許せなかったからなの。 (一言いってやらなきゃ気が済まなかったの自分と無関係なことでもね沢見さんみたいな人のせいであたしの友だち死んでるのよ自殺だけど殺されたようなものでしょ」 (GF 98-99)。 Iはもちろん死んでしまったその友人ではないIが許せないのは沢見本人というより、 「沢見さんみたいな他の小児性愛者だろうつまりこのIから沢見へのメッセージでは送信者も受信者も代理人にすぎないしかし私たちは自分自身が被害を受けたわけでもない悲劇に憤り加害者を擁護する者たちをその加害者自身であるかのように糾弾するそれ故に無責任な噂や誹謗中傷が生じる可能性はあるだが当事者と非当事者の区別をものともしない言葉という厄介な代物を捨て去ることなどできないし捨てるべきではない

 Iの言葉は読んでいて物足りないくらいありきたりだだがそれは沢見の胸に突き刺さって」 (Ps II, 308いる沢見は手垢のついた言葉が重大な真実を告げることもあると学んだのだだから石川麻弥と鴇谷亜美が私たちには今が大事これが最後なんですと訴えるのを聞いて、 「さんざん聞き飽きたような」 (GF 127言葉だと思いつつも沢見は彼女たちが自殺しようとしていることに勘づく。 「私たちにお芝居を教えてください」 (GF 121という少女たちの願いを叶えることで沢見は自分が学んだことを実践し彼自身に対する教育あるいは育成を完遂しようとしているそれは彼の贖罪の試みであり彼女たちに自殺を思いとどまらせることでもある監禁の反復はこうして育成の継続となる。 (つづく

次回は 2 月 9 日ですお楽しみに!

英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。