裏切り者へ愛をこめて:阿部和重論

連載第12回: ゆりかごを揺らす獄吏の手 3

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2022.
01.26Wed

ゆりかごを揺らす獄吏の手 3

承前

方で壮絶な秘術の修行のために菖蒲みずきの眉毛も睫毛も頭髪ももれなく真っ赤な血の色に変色している」 (Ps II, 168)。 その後みずきが赤毛を黒く染め」 (Ps II, 170たと菖蒲あおばは語っていて石川満はみずきの髪を」 (Ps I, 43 傍点引用者と表現しているこれが染めた毛の色なのかそれとも赤い髪が元の色に戻ったのかは不明だがとにかくみずきの髪は血のように真っ赤であるか濡れたカラスのように真っ黒というわけだ──これが、 「熊女と称されるほど全身が真っ黒になり真っ赤な血を頭から流して死んだ娼婦の呪いでなくてなんだろう

ピストルズの菖蒲家は自らの秘術で引き起こされた暴力を償おうとするそれは、 「監禁から育成への転換と言い換えられる菖蒲カイトから挑発的な議論を吹っかけられる水樹は決して声を荒げずカイトを束縛しようともしないカイトは身体的な痛みを感じないという特殊な体質であるためなおのこと子供の頃から暴力への抵抗が薄く同級生との賭けで動物園のツキノワグマの檻への闖入」 (Ps I, 17すらやってのけるこれも熊女の監禁を書き直したものだ後頭部への打撃によって水樹と熊女は死ぬが意義深いことに水樹を相手にカイトがムキになり議論がただの言い争いに発展しそうになるとカイトの後頭部をホシカゲさんがぴしゃりと平手で叩きました」 (Ps I, 18)。 相手に怪我をさせない後頭部への打撃は暴力それ自体に抗う菖蒲家らしい育成方法だろう

 もちろんこれでうまくいくほど育成はたやすくないたとえば、 『Orga(ni)smで再登場したカイトは少々粗暴な青年に成長しておりラリー・タイテルバウムを髭面の毛唐」 (Org 155呼ばわりにする外国人を意味する毛唐などという古風な罵倒語をカイトが用いるのはどう考えても彼をたしなめたホシカゲさんの影響だろう。 『シンセミアで神町が台風に襲われたときこの老人はそれが米国の秘密兵器によるものだと言い、 「俺がいる限りはなこれ以上クソッタレの毛唐めらの好ぎなようにはさせんのです」 (SS II, 107-08と悪態をついていた。 『シンセミアでぶちまけられた暴力と監禁の無間地獄を抑制するにはそれだけでピストルズという長編一作が必要とされたようだ。 「阿部和重が子育てに四苦八苦するOrga(ni)smこそ阿部の作品にかねて懐胎されていた育成のテーマを前面に押し出したものであることは言うまでもない

Orga(ni)smを集中的に解釈する前に、 「育成のテーマをそれと無縁でない家族や性差の観点からとらえ直しておこうすでに述べたように、 『ピストルズの菖蒲あおばは最終的にはすべての記憶を消去するという条件で石川満に菖蒲家の秘密を明かしているところが終盤あおばは突然菖蒲家の一員になるなら記憶を洗い落とさなくてもよいと石川にもちかけて石川がそれを断るとあおばはややうつむき加減になり襟首のあたりを左手でしばしの間さすっていた」 (Ps II, 435)。 これまでで最も柔らかい後頭部への刺激を見落とすわけにはいかない菖蒲家では血縁の無い何人もの人間がサトウを名乗り家族の一員になっているのだがその中の一人は、 「戸籍名は薊茂というがMtFトランスジェンダーと性自認していることから複数の名を使いわけている」 (Org 98)。 シュガーさんと呼ばれる彼女の故郷の隠岐島は菖蒲家の修行の地でもあるみずきの修行に同行して隠岐島に向かったあおばはシュガーさんが実家でシゲルと呼ばれているのを聞いてやはり首に手をあてていた。 「じつはあたしは物事に違和感を覚えたり動揺したりしますとどうしてだが襟首のあたりが敏感になり指先でさわさわとさすってしまう癖を持っているのです」 (Ps II, 137)。 同じ仕草を反復する二つの場面は家族そして名前の問題を暗示している

 名前とは最も基本的な言葉のうちのひとつだ私たちはすでにひとつの言葉が他の言葉を押しのけるという二者択一の掟に触れておいたが家族あるいは性差の問題に関しても私たちはしばしば同じような掟を見出す菖蒲家の一員になってほしいと言われて石川は、 「そんなことは無理だ家族を捨てるつもりはない」 (Ps II, 433と考えて即座に意志を固めている家族という集団はきわめて排他的つまり二者択一的に機能することもある一つの家族に属することは別の家族には属さないことをほとんど自動的に意味してしまうからだ

 だがあおばは石川家を捨てろとは言っていない。 「菖蒲家に属すこと石川家に属さないこととして受けとっているのは石川であって石川家と菖蒲家の両方に属すことだってできたかもしれない現にシュガーさんは実家でシゲルと呼ばれるのを少々嫌がっているようだが家族と不仲なわけではないつまりトランスジェンダーとして男性/女性の二分法を超えるシュガーさんは石川がこだわる家族と家族の間の境界線をも超えて実家にも菖蒲家にも所属するだからあおば筆名・三月以上にシュガーさんには多くの名があり、 『Orga(ni)smではオブシディアンオビーとも呼ばれるこれは阿部の小説についての議論であって選択的夫婦別姓や同性婚の是非について語っているわけではないがあおばやシュガーさんに比べれば石川という男性が家父長的価値観に囚われているとは言えるだろう。 (つづく

次回は 2 月 2 日ですお楽しみに!

英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。