他方で、壮絶な秘術の修行のために菖蒲みずきの「眉毛も睫毛も頭髪も、もれなく真っ赤な血の色に変色している」( Ps II, 168 )。その後みずきが「赤毛を黒く染め」( Ps II, 170 )たと菖蒲あおばは語っていて、石川満はみずきの髪を「濡れ羽色」( Ps I, 43 傍点引用者)と表現している。これが染めた毛の色なのか、それとも赤い髪が元の色に戻ったのかは不明だが、とにかく、みずきの髪は血のように真っ赤であるか、濡れたカラスのように真っ黒というわけだ──これが、「熊女」と称されるほど全身が真っ黒になり、真っ赤な血を頭から流して死んだ娼婦の呪いでなくてなんだろう。
『ピストルズ』の菖蒲家は、自らの秘術で引き起こされた暴力を償おうとする。それは、「監禁から育成への転換」と言い換えられる。菖蒲カイトから挑発的な議論を吹っかけられる水樹は決して声を荒げず、カイトを束縛しようともしない。カイトは身体的な痛みを感じないという特殊な体質であるため、なおのこと子供の頃から暴力への抵抗が薄く、同級生との賭けで動物園の「ツキノワグマの檻への闖入」( Ps I, 17 )すらやってのける。これも「熊女」の監禁を書き直したものだ。後頭部への打撃によって水樹と「熊女」は死ぬが、意義深いことに、水樹を相手にカイトがムキになり、議論がただの言い争いに発展しそうになると、カイトの「後頭部をホシカゲさんがぴしゃりと平手で叩きました」( Ps I, 18 )。相手に怪我をさせない後頭部への打撃は、暴力それ自体に抗う菖蒲家らしい育成方法だろう。
もちろんこれでうまくいくほど育成はたやすくない。たとえば、『Orga(ni)sm』で再登場したカイトは少々粗暴な青年に成長しており、ラリー・タイテルバウムを「髭面の毛唐」( Org 155 )呼ばわりにする。外国人を意味する「毛唐」などという古風な罵倒語をカイトが用いるのは、どう考えても、彼をたしなめたホシカゲさんの影響だろう。『シンセミア』で神町が台風に襲われたとき、この老人はそれが米国の秘密兵器によるものだと言い、「俺がいる限りはな、これ以上、クソッタレの毛唐めらの好ぎなようにはさせんのです」( SS II, 107-08 )と悪態をついていた。『シンセミア』でぶちまけられた暴力と監禁の無間地獄を抑制するには、それだけで『ピストルズ』という長編一作が必要とされたようだ。「阿部和重」が子育てに四苦八苦する『Orga(ni)sm』こそ、阿部の作品にかねて懐胎されていた育成のテーマを前面に押し出したものであることは言うまでもない。
『Orga(ni)sm』を集中的に解釈する前に、「育成」のテーマを、それと無縁でない家族や性差の観点からとらえ直しておこう。すでに述べたように、『ピストルズ』の菖蒲あおばは、最終的にはすべての記憶を消去するという条件で石川満に菖蒲家の秘密を明かしている。ところが終盤、あおばは突然、菖蒲家の一員になるなら記憶を洗い落とさなくてもよいと石川にもちかけて、石川がそれを断ると、あおばは「ややうつむき加減になり、襟首のあたりを左手でしばしの間さすっていた」( Ps II, 435 )。これまでで最も柔らかい後頭部への刺激を見落とすわけにはいかない。菖蒲家では血縁の無い何人もの人間が「サトウ」を名乗り家族の一員になっているのだが、その中の一人は、「戸籍名は薊茂というが、MtFトランスジェンダーと性自認していることから複数の名を使いわけている」( Org 98 )。シュガーさんと呼ばれる彼女の故郷の隠岐島は、菖蒲家の修行の地でもある。みずきの修行に同行して隠岐島に向かったあおばは、シュガーさんが実家でシゲルと呼ばれているのを聞いて、やはり首に手をあてていた。「じつはあたしは物事に違和感を覚えたり、動揺したりしますとどうしてだが、襟首のあたりが敏感になり、指先でさわさわとさすってしまう癖を持っているのです」( Ps II, 137 )。同じ仕草を反復する二つの場面は、家族そして名前の問題を暗示している。
名前とは、最も基本的な言葉のうちのひとつだ。私たちはすでに、ひとつの言葉が他の言葉を押しのけるという二者択一の掟に触れておいたが、家族あるいは性差の問題に関しても、私たちはしばしば同じような掟を見出す。菖蒲家の一員になってほしいと言われて石川は、「そんなことは無理だ、家族を捨てるつもりはない」( Ps II, 433 )と考えて、即座に意志を固めている。家族という集団は、きわめて排他的(つまり二者択一的)に機能することもある。一つの家族に属することは、別の家族には属さないことをほとんど自動的に意味してしまうからだ。
だが、あおばは、石川家を捨てろとは言っていない。「菖蒲家に属すこと」を「石川家に属さないこと」として受けとっているのは石川であって、石川家と菖蒲家の両方に属すことだってできたかもしれない。現にシュガーさんは、実家でシゲルと呼ばれるのを少々嫌がっているようだが、家族と不仲なわけではない。つまり、トランスジェンダーとして男性/女性の二分法を超えるシュガーさんは、石川がこだわる家族と家族の間の境界線をも超えて、実家にも菖蒲家にも所属する。だから、あおば(筆名・三月)以上にシュガーさんには多くの名があり、『Orga(ni)sm』ではオブシディアン、オビーとも呼ばれる。これは阿部の小説についての議論であって、選択的夫婦別姓や同性婚の是非について語っているわけではないが、あおばやシュガーさんに比べれば、石川という男性が家父長的価値観に囚われているとは言えるだろう。(つづく)