裏切り者へ愛をこめて:阿部和重論

連載第10回: ゆりかごを揺らす獄吏の手 1

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2022.
01.12Wed

ゆりかごを揺らす獄吏の手 1

3: ゆりかごを揺らす獄吏の手

シンセミア監禁は毛髪に結びついている作品中盤田宮家や麻生家とつながりのある笠谷建設を脅迫しようとした三沢次郎はあっけなく捕まり監禁される笠谷の裏仕事を引きうける森善行とともに田宮明は三沢を拷問し正体や意図を白状させるのだが不可解なことに森はハサミで三沢の髪を切って奇抜な虎刈り」 (SS II, 174にするすでに述べたようにシンセミアでは真実の暴露には致命的な暴力が伴うだから真実に少しずつ肉薄することは肉体を徐々に削りとることなのだ監禁・拷問に参加する森を散髪男」 (SS I, 292にすることで相手を丸裸にするという比喩を阿部は文字通り物語に組みこんでいる

 ならば三沢とは違って白状することなど何もない者が監禁・拷問されたらどうなるのか郡山橋事件の加害者たちは米兵と不倫した妻を世間体のため問い詰められず身代わりとして一人の娼婦に狙いを定める。 「標的となった娼婦はパリ解放の際に対独協力者のフランス人女性たちがされたように手始めに頭髪を残らず刈り除かれ」 (SS II, 206)、 陰毛も剃られて全裸で監禁されるところが激しい虐待のために、 「刈り取ったはずの毛が一晩かけて体中から生えてきたみたいに彼女の体はすぐに黒く汚れて、 「漆黒の体毛を生やした獣のようになるSS II, 217)。 監禁された者を痛めつけて何かを語らせることが髪を切ることだとすれば切っても切っても短くならない体毛とは言葉を超えた真実のことだ事実監禁されたこの不幸な女性は頭頂部から漏れ出たみたいなアーアーという声しか発しなくなり」 (SS II, 208)、 そのまま言葉を取り戻すことなく郡山橋から身を投げて死ぬ

ピストルズでも監禁と散髪は互いに近しい関係にある菖蒲あおばによれば幼いころの菖蒲カイト四姉妹の三女あいこの異父兄キノコ頭にされたくないと逃げまわり伸ばし放題の茶色いネコっ毛をなかなか切らせてくれなかったのです」 (Ps I, 12)。 散髪を嫌がるということは監禁されるのを嫌がるということだカイトは後に菖蒲家を出奔する成長するにつれて彼が菖蒲家を牢獄のように窮屈なものと感じはじめるのも仕方ないことかもしれない

 だがカイトはもともと彼を虐待する実父のもとを逃れてきた少年であり菖蒲家は彼にとって牢獄というより避難所だった阿部作品の監禁の鍵はここにある言葉の暴力性について罵倒と説諭の相対的な違いを私たちはすでに見た同様に子供のような弱者に対する保護・育成監禁・虐待という二つの行為も相対的にしか違わない似たもの同士と言わざるをえないだから、 『ニッポニアニッポンの鴇谷春生にとって天然記念物のトキは檻に囚われた被害者にも見えるし甘やかされた子供のようにも思える誰かを監禁せず育成すること──弱者を力づくで支配せずその者を保護して成長を促しながら自らも共に生きること──それこそが最も難しいこれに比べれば相手を死ぬまで閉じこめたり追放して見捨てる方がはるかに楽だろう実際トキを飼育解放密殺」 (NN 214するという三つの選択肢のうち春生はまっさきに最も難しい飼育を除外する

 私たちはすでに何らかの秘密を自分の胸の内にとどめている人間監禁・拷問の被害者その人間自身が何かを内側に監禁する牢獄に喩えられると指摘したこうした比喩は育成についても成立する言うまでもなくそれは子供を身ごもった母親であるこれはあくまでも比喩なので、 「母親的な人物であれば文字通り妊娠中である必要はなくさらに言えば男性であってもいい妊娠中の女性と胎児のように二人の人間が強く結びつき一方を他方から無理に引き離せば両方が死んでしまうような状況が育成の要なのだたとえばグランド・フィナーレの鴇谷亜美と石川麻弥の二人は、 「誰にも決して引き裂けはしないかけがえのない親友どうし」 (Ps II, 293であるそれなのに亜美が兄・春生の事件の影響でいじめを受けて鴇谷家が引っ越すことになったために二人の少女は自殺しようとする共に生きられないなら一緒に死ぬというわけだつまり亜美と麻弥の自殺を止めようとするグランド・フィナーレの沢見克実はちょうど助産師のような存在でありこうした比喩的な育成がこの作品の核心である

 育成の難しさはしつこく強調しなければならない神町に帰ってくる前の沢見は娘の裸体の画像データをめぐって妻と争い、 「乳飲み子を守る母獅子のごとく獰猛に手向かってくる妻」 (GF 27に怪我をさせる家庭生活の一場面を描くにあたり猛獣の檻に足を踏み入れるかのような比喩が用いられているのは偶然ではない妻への暴力が原因で沢見が最愛の娘を育てる資格を奪われ娘が囚われの身のお姫さま」 (GF 32のように手の届かない存在になるという展開は改めて監禁と育成の近しさを証明しているこれは複雑な逆説などではない自分の子供の裸体まで撮影する小児性愛者はその子の育児や教育に関わるべきだろうか整理してはっきりさせよう子供にあたる存在を育成するためには時にその相手に干渉ことも必要になるだが何もしないという育成の仕方は育成を放棄するのとあまりにもよく似ている親や教師は必ず、 「育成すること育成しないことの間のぼやけた境界線に悩まされるいともたやすく、 「育成はそれとは似て非なるものつまり監禁に変質してしまうからだ。 (つづく

次回は 1 月 19 日ですお楽しみに!

英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。