3: ゆりかごを揺らす獄吏の手
『シンセミア』 で、 監禁は 「毛髪」 に結びついている。 作品中盤、 田宮家や麻生家とつながりのある笠谷建設を脅迫しようとした三沢次郎は、 あっけなく捕まり監禁される。 笠谷の裏仕事を引きうける森善行とともに田宮明は三沢を拷問し、 正体や意図を白状させるのだが、 不可解なことに、 森はハサミで三沢の髪を切って 「奇抜な虎刈り」 (SS II, 174) にする。 すでに述べたように 『シンセミア』 では、 真実の暴露には致命的な暴力が伴う。 だから、 真実に少しずつ肉薄することは、 肉体を徐々に削りとることなのだ。 監禁・拷問に参加する森を 「散髪男」 (SS I, 292) にすることで、 相手を 「丸裸にする」 という比喩を阿部は文字通り物語に組みこんでいる。
ならば、 三沢とは違って、 白状することなど何もない者が監禁・拷問されたらどうなるのか。 郡山橋事件の加害者たちは、 米兵と不倫した妻を世間体のため問い詰められず、 身代わりとして一人の娼婦に狙いを定める。 「標的となった娼婦は、 パリ解放の際に対独協力者のフランス人女性たちがされたように手始めに頭髪を残らず刈り除かれ」 (SS II, 206)、 陰毛も剃られて全裸で監禁される。 ところが激しい虐待のために、 「刈り取ったはずの毛が一晩かけて体中から生えてきたみたい」 に彼女の体はすぐに黒く汚れて、 「漆黒の体毛」 を生やした獣のようになる (SS II, 217)。 監禁された者を痛めつけて何かを語らせることが髪を切ることだとすれば、 切っても切っても短くならない体毛とは、 言葉を超えた真実のことだ。 事実、 監禁されたこの不幸な女性は 「頭頂部から漏れ出たみたいな 『アー、 アー』 という声しか発しなくなり」 (SS II, 208)、 そのまま言葉を取り戻すことなく郡山橋から身を投げて死ぬ。
『ピストルズ』 でも、 監禁と散髪は互いに近しい関係にある。 菖蒲あおばによれば、 幼いころの菖蒲カイト (四姉妹の三女あいこの異父兄) は 「キノコ頭にされたくないと逃げまわり、 伸ばし放題の茶色いネコっ毛をなかなか切らせてくれなかったのです」 (Ps I, 12)。 散髪を嫌がるということは、 監禁されるのを嫌がるということだ。 カイトは後に、 菖蒲家を出奔する。 成長するにつれて、 彼が菖蒲家を牢獄のように窮屈なものと感じはじめるのも仕方ないことかもしれない。
だが、 カイトはもともと、 彼を虐待する実父のもとを逃れてきた少年であり、 菖蒲家は彼にとって牢獄というより避難所だった。 阿部作品の 「監禁」 の鍵はここにある。 言葉の暴力性について、 罵倒と説諭の相対的な違いを私たちはすでに見た。 同様に、 子供のような弱者に対する 「保護・育成」 と 「監禁・虐待」 という二つの行為も、 相対的にしか違わない似たもの同士と言わざるをえない。 だから、 『ニッポニアニッポン』 の鴇谷春生にとって、 天然記念物のトキは檻に囚われた被害者にも見えるし、 甘やかされた子供のようにも思える。 誰かを 「監禁」 せず 「育成」 すること──弱者を力づくで支配せず、 その者を保護して成長を促しながら自らも共に生きること──それこそが、 最も難しい。 これに比べれば、 相手を死ぬまで閉じこめたり、 追放して見捨てる方がはるかに楽だろう。 実際、 トキを 「飼育、 解放、 密殺」 (NN 214) するという三つの選択肢のうち、 春生はまっさきに、 最も難しい 「飼育」 を除外する。
私たちはすでに、 何らかの秘密を自分の胸の内にとどめている人間 (監禁・拷問の被害者) は、 その人間自身が何かを内側に監禁する牢獄に喩えられると指摘した。 こうした比喩は育成についても成立する。 言うまでもなくそれは、 子供を身ごもった母親である。 これはあくまでも比喩なので、 「母親」 的な人物であれば文字通り妊娠中である必要はなく、 さらに言えば男性であってもいい。 妊娠中の女性と胎児のように、 二人の人間が強く結びつき、 一方を他方から無理に引き離せば両方が死んでしまうような状況が、 育成の要なのだ。 たとえば 『グランド・フィナーレ』 の鴇谷亜美と石川麻弥の二人は、 「誰にも決して引き裂けはしない、 かけがえのない親友どうし」 (Ps II, 293) である。 それなのに、 亜美が兄・春生の事件の影響でいじめを受けて、 鴇谷家が引っ越すことになったために、 二人の少女は自殺しようとする。 共に生きられないなら一緒に死ぬ、 というわけだ。 つまり、 亜美と麻弥の自殺を止めようとする 『グランド・フィナーレ』 の沢見克実は、 ちょうど助産師のような存在であり、 こうした (比喩的な) 育成がこの作品の核心である。
育成の難しさはしつこく強調しなければならない。 神町に帰ってくる前の沢見は、 娘の裸体の画像データをめぐって妻と争い、 「乳飲み子を守る母獅子のごとく獰猛に手向かってくる妻」 (GF 27) に怪我をさせる。 家庭生活の一場面を描くにあたり、 猛獣の檻に足を踏み入れるかのような比喩が用いられているのは偶然ではない。 妻への暴力が原因で、 沢見が最愛の娘を育てる資格を奪われ、 娘が 「囚われの身のお姫さま」 (GF 32) のように手の届かない存在になるという展開は、 改めて監禁と育成の近しさを証明している。 これは複雑な逆説などではない。 自分の子供の裸体まで撮影する小児性愛者は、 その子の育児や教育に関わるべきだろうか。 整理してはっきりさせよう。 子供 (にあたる存在) を育成するためには、 時にその相手に干渉しないことも必要になる。 だが、 何もしないという育成の仕方は、 育成を放棄するのとあまりにもよく似ている。 親や教師は必ず、 「育成すること」 と 「育成しないこと」 の間のぼやけた境界線に悩まされる。 いともたやすく、 「育成」 はそれとは似て非なるもの、 つまり 「監禁」 に変質してしまうからだ。 (つづく)