SNS等で不用意に情報を拡散すると、 時に名誉棄損にもなることくらい誰でも知っている。 そして、 ある小説についての感想、 考察、 カスタマーレビュー等々の中には、 (たとえ賞賛であろうとも) 本当にその作品を読んだのかどうか怪しいようなものだってある。 嘘や間違いに汚染された言葉が、 その責任をとることなどできない人々の間で拡散され、 やがて爆発的な悲劇を招く── 『シンセミア』 は、 言葉がウィルスであることを描く小説なのだ。 感染リスクをゼロにはできない。 私の肉体の中にウィルスが入りこめば、 私と接触したあなたの中にも簡単に同じものが入りこむかもしれない。 ホシカゲさんから事件の真相を聞くジャーナリストも、 いつの間にかホシカゲさんの口の悪さに感染してしまう。 「このクソジジイを取材相手に選んだのは、 やはり失敗だったかもしれない、 と池谷真吾は嘆いた」 (SS II, 495)。
阿部の小説に対する批評が難しい理由はすでに述べたが、 理論的には、 あまねく作家のあらゆる作品に対する批評が、 同じ困難を抱えている。 阿部の場合はそれが顕著に現れているだけだ。 その困難を 「鏡像モデルの限界」 と言いあらわしておこう。 作品にこめられた作者の意図を (正しく) 理解することがその作品を受容することだと、 漠然とであれ私たちはそう考えている。 これは、 作品が書かれた時代の状況や、 作者も意識していない暗黙の価値観が読みとられる場合にすら妥当する。 作品をどう読もうとも、 そのように読まれるべく作者が意図していた可能性はゼロにはならない。 作品の最初の読者は常に作者だ。 読者の振舞いは、 己の作品を読みながら書く作者の鏡像として先取りされている。 ということは、 批評を書いて作家に追いつき追い越そうとするのは、 鏡に映った自分を相手にジャンケンするようなものだ。
ただし、 読者と作者のあいだに絶対的な壁があると考えるのは不正確である。 何かが箱の中にしまってあるかのように、 作者の意図があらかじめ作品にこめられているとすれば、 それが 「監禁」 に似た状態であるのは一目瞭然だろう。 しかしその意図や意味を閉じこめた作者もまた、 最初の読者として私たちと同様に閉じこめられる。 ここで言う 「監禁」 の場合、 監禁者と囚人、 牢獄の内側と外側は瞬時に入れ替わる。 あたかも、 牢獄の壁が一枚の鏡であるかのように。 あるいはこう問うてもいい。 マスクをして会話を控えるのは、 外からウィルスを侵入させないためなのか、 それとも体内のウィルスを外に漏らさないためなのか。
『ピストルズ』 には、 ひとつの作品をめぐるこうした状況を寓意的に表したかのような場面がある。 菖蒲家を訪問し、 一族の秘密を明かしてもらうことになった石川は、 父・水樹はこのことを承知しているのかと帰り際に菖蒲あおばに尋ねる。 この時すでに水樹は死んだも同然であり、 菖蒲家の秘密は父親という権威者の不在のもとで漏出していく。 これはこれで象徴的な解釈を誘うが、 ここではもっと具体的な石川とあおばの姿に注目しよう。
わたしたちはこのとき、 ほの暗い部屋のドアの前で突っ立ったまま会話をつづけていた。
いつの間にか、 おたがいの手が届くくらいの至近距離まで接近していたわたしたちは──どちらもドアノブには触れようとせずに、 ジャンケンでもするみたいに向かい合って言葉をかわしていた。 (Ps I, 137-38)
『ピストルズ』 の二人の語り手たちはこうして、 互いの出方をうかがうかのように動かず、 言葉だけを取り交わす。 隣り合った独房にそれぞれ監禁された二人の囚人が、 壁を叩く音で意思疎通を図っているかのようだ。
監禁にまつわるこうしたいくつかの比喩は、 互いに微妙に異なり、 小説あるいは言葉そのものが持つ両義的な性質を示している。 言葉は牢獄の内部と外部を隔てる壁なのだが、 その壁自体は内側にも外側にも接している。 だとすれば、 阿部の小説における監禁について解釈をさらに進めて、 監禁を超える別のテーマを浮かび上がらせなければならない。