「暴露」 についてはどうか。 博徳と和歌子が和解するのは、 二人が互いの秘密をとことんまで暴きはしなかったからでもある。 博徳は和歌子の過去をまるで知らないわけではないが、 和歌子に強いてその件を話させたりはせず、 和歌子も博徳が何故それを知りえたのかを追求しない。 他の登場人物に目を向けると、 この違いが明瞭になる。 松尾丈士の愛人である広崎妙子によって博徳は轢き殺されるのだが、 それは博徳が妙子を怒鳴りつけ、 妙子の秘密 (松尾との不倫や、 松尾に命じられた盗撮) をすっかり白状させたからだ。 博徳を殺してから妙子も自殺する。 そもそも郡山橋事件が地元ですら語り継がれなかったのは、 売買春が横行した当時、 「ただでさえ 『パンパンの町』 などと誹謗されている地元の心証をこれ以上毀傷してはならぬという大義名分」 (SS II, 213-14) のために神町住民がそろって沈黙したためだった。 『シンセミア』 の真実は、 暴かれれば全方位に致命的な打撃を与えてしまうものであり、 だからこそ必死に隠されるのだ。
こうした 「真実」 は、 それを隠したり暴いたりする特定の誰かにとっての真実である。 博徳が妙子の自白を録音した音源は、 両者の死後にも残る。 しかしこの時すでに、 真相を隠していた妙子と松尾、 および真相を暴こうとした博徳は全員死んでいるので、 隠したり暴いたりする意味がなくなったこの真実は狭い意味では 「真実」 ではない。 つまりそれはもっと控え目な、 「事実」 や 「情報」 へと変質している。 『シンセミア』 の言葉が真実を語りえないとはこうしたことを指す。 したがって、 『シンセミア』 は登場人物とは違う非人称の語り手を採用しなければならなかった。 嘘や間違いではないという点で、 広い意味では 「真実」 と言えそうなことを語るためには、 その言葉を発するのが 「特定の誰か」 であってはならないのだ。
『シンセミア』 のとても不自然な展開も、 この観点から説明できる。 つまり、 田宮家を追いつめる怪文書という作中最大の 「罵倒」 が、 名前も明かされない人物によって物語に導入されるのは何故なのか、 ということだ。 『シンセミア』 の 「主な登場人物」 の一覧では、 数回言及されるだけの者も含めて、 五〇人以上の氏名が列挙されている。 こうも律儀な名簿があるのに、 郡山橋事件という神町最大の秘密は、 たんなる 「書店主」 の口から語られる。 事件を調査していたこの書店主の名前が石川満であることは 『ピストルズ』 で初めて語られる。 さらに言えば、 郡山橋事件の概要をこともあろうに松尾に話してしまい、 結果として田宮家崩壊の原因を作ったのは、 書店主 (石川) から事件のことを聞いた 「二三歳の女性JA職員」 (SS II, 201) であって妙子ではない。 まだ石川という名が明かされない書店主と、 この箇所にしか登場しないJA職員は、 実質的には匿名の語り手の分身と考えられる。
石川に注目すると、 『シンセミア』 から 『ピストルズ』 への変化が明瞭になる。 『シンセミア』 で松尾に挑発された書店主 (石川) は、 「不機嫌を露にしてテーブルを叩き、 『馬鹿な!』 と怒鳴って」 (SS II, 199) いた。 だが 『ピストルズ』 で語り手として再登場した石川は様子が違う。 謎の多い菖蒲家を訪ねた石川は、 ホシカゲさんこと星谷影生 (とその付き添いのタヌキセンセイこと星谷真実) に出くわし、 菖蒲家と関係があるのかと尋ねる。 『シンセミア』 にも登場したホシカゲさんの口の悪さは、 『ピストルズ』 でも健在だ。
「こごはおれんちだ、 このドアホが!」
たしかに自分は 「ドアホ」 であると、 わたしは思った──ホシカゲさんが菖蒲家を 「おれんちだ」 と断ずる可能性を、 まったく考慮にいれていなかったからだ。 (⋯)
しかし立ち所に疑問も芽生えた。 ホシカゲさんの名字は星谷であって菖蒲ではない。 婿入りして姓が変わったと考えるのが自然だが──この老人は未婚のはずなのだ。 (Ps I, 81)
いくらなんでも、 ドアホと言われてこの反応は素直すぎる。 『シンセミア』 の終盤、 自暴自棄になった警官の中山正は別の事情で悪事に手を染めた二人の同僚を罵る。 「このボケが!」 「なめんなこん畜生!」 「馬鹿っ!」 (SS II, 446-48) と、 罵声が増幅され、 結果として中山は射殺される。 各場面での緊迫感の違いはあるにしても、 罵倒が罵倒を呼びよせ暴力が噴出するという 『シンセミア』 のメカニズムが 『ピストルズ』 では無効になっているかに見える。
ここでも、 微妙で相対的な差異が重要になる。 あらゆる言葉が罵倒として機能しうることはすでに述べた。 これは、 原則として粗暴な物言いをしない 『ピストルズ』 の語り手たち (石川と菖蒲あおば) についても妥当する。 たとえば、 あおばが菖蒲家の来歴を長々と語るのは、 その末に、 石川の娘の麻弥が自殺を決意していたという過去を石川に告げるためである。 菖蒲みずきが密かに介入したため、 麻弥は現在も生きている。 田宮家の悲劇の責任を感じた石川は廃人に近い状態になり、 娘の苦悩をまるで知らずにいたのだ。 石川を傷つけすぎないように時間をかけてはいるが、 あおばは石川にとって衝撃的な真実を 「暴露」 し、 それを知らずにいた石川を 「罵倒」 しているとも言える。 現に、 麻弥が親友の鴇谷亜美とともに死のうとしていたことを聞かされた石川は、 「とにかく己の情けなさを痛感させられるばかり」 だ (Ps II, 325)。 『シンセミア』 でも 『ピストルズ』 でも、 すべての言葉には暴力性・攻撃性が宿っている。 だが、 かつての 「罵倒」 は、 相手に辛い真実を受けとめさせるための 「説諭」 に変わり、 同時に、 嘘が混じり誹謗中傷にしかならなかった 「暴露」 は、 その言葉通りに真実を明かす行為になったのだ。 (つづく)