2:監禁者たちもまた監禁される
漢語・擬音語が多用される 『シンセミア』 の解釈を、 もうひとつ上の段階に押し上げよう。 この小説は、 破壊と暴力を誘発する 「罵倒」 の言葉によって書かれている。 粉塵爆発で死ぬ隈本光博と田宮明は、 前者が 「乱暴な言葉遣い」 をする男で、 後者は 「口汚い男」 である (SS I, 404)。 攻撃的な言葉は、 言葉ではない物理的暴力の触媒となる。
留保しつつではあるが、 この 「罵倒」 に 「暴露」 を付け加えることができる。 「恐るべきパン屋の実態を暴く!」 (SS II, 291) という中傷ビラが、 物語をクライマックスにむけて加速させる。 一九五一年の郡山橋事件では 「パンの田宮」 の初代・田宮仁が暗躍していたと訴えるこの怪文書は、 さらに、 二〇〇〇年に発見された変死体に二代目・明が関わっていた証拠として、 その二代目が何者かに暴行を加える画像を添えている。 攻撃せよ破壊せよと訴える罵倒は、 その攻撃対象の醜い本性を暴こうとする。 ただし、 『シンセミア』 の言葉は原則として真実を語ることができないので、 この 「暴露」 は根拠のない言いがかりに近づいていく。 問題の怪文書が語る 「悲劇的事件の真相」 (SS II, 292) にも、 陰謀論的なデマが含まれる。 重力にも似た圧倒的な力によって真実から遠ざけられた言葉が、 それでも真実を暴こうと躍起になると、 堕落・変質して誹謗中傷になるというわけだ。
『シンセミア』 の 「罵倒・暴露」 と最も強く結びついた存在は、 個々の登場人物ではない。 言葉で他人を攻撃し何かを暴きだすことに最も積極的なのは、 登場人物たちの内面を語り、 彼らの認識の甘さを指摘する非人称の語り手である。 とりわけ、 「パンの田宮」 三代目の博徳と妻の和歌子 (旧姓・増田) はその浅慮や自己欺瞞がまざまざと語られている。 罪悪感があるくせに盗撮グループを抜けられない博徳については 「無責任が最良の立場だというのが、 博徳の信条だった──それは間違いだと彼が自省したことなど、 かつて一度もなかった」 (SS I, 81) とされる。 未練がましく昔の恋人に会おうとする和歌子が自分を正当化しようとすれば、 語り手は容赦なく、 「それを独り善がりな発想だとまでは、 彼女は考えもしなかった」 (SS I, 189) と断罪する。
ここから、 『シンセミア』 の例外的な場面の意義が浮かびあがる。 すなわち、 博徳と和歌子が、 夫婦喧嘩のすえに和解する箇所である。 この和解は、 物語に大きな影響を与えるわけではない。 和歌子は神町の出身ではなく、 彼女と博徳の葛藤の原因も、 郡山橋事件などの神町の負の歴史とはあまり関係がないからだ。 和歌子はかつて既婚男性と不倫していて、 今も薬物に依存している。 博徳がコカインの包みを偶然見つけ、 それを突きつけられて和歌子は逆上し、 二人は (おそらく初めての) 夫婦喧嘩を演ずる。 「雨降って地固まる」 という慣用句を意識したわけでもないだろうが、 雨が止んだ頃に二人はひとまず和解する。 後に博徳はあっけなく車で轢き殺され、 和歌子は夫の死にどんな反応を示したかも書かれずに物語から姿を消すのだが、 それを踏まえても、 この夫婦が雨上がりに見た 「恩寵のごとき陽光」 (SS II, 144) は無意味ではない。 つまり、 敗戦後の日米関係の歪みによって神町が激しく傷つくという大きな流れの中で、 まさに恩寵のように、 破壊や暴力とは別の可能性がわずかに生じているのだ。
このささやかな奇跡が実現したのは、 博徳と和歌子がすんでのところで互いを罵倒することを避けたためだ。 話を聞いてくれと夫が言えば妻は聞きたくないと言い、 「本当に聞きたくないから!」 「じゃあどうしたいんだよ!」 (SS II,135-36) と両者は声を荒げていて、 もちろんこれは罵倒と無縁ではない。 博徳と和歌子の内面を明かす手厳しい言葉を私たちは罵倒の一種と見なしたが、 このことがすでに示すように、 死ねとか殺すぞのようなあからさまに攻撃的な言葉が使われているかどうかは、 その発話が罵倒になるか否かとは別問題なのだ。 程度の差はあれ、 あらゆる言葉が罵倒になりうる。 だから博徳と和歌子も、 相対的な意味で罵倒を 「避けた」 にすぎない。
だが、 この相対的な差異は無意味ではない。 博徳も和歌子も、 他の箇所では思いきり他人を罵倒しているからだ。 盗撮グループの笠谷保宏に向かって、 博徳は 「うるっせえなマザコン野郎!」 (SS I, 342) と叫ぶ。 さらに、 かつての不倫相手の妻に向かって、 和歌子は電話口で 「死ね! 馬鹿! 消えろ! お前は邪魔!⋯⋯」 (SS I, 347) と呪いの言葉をつぶやく。 そんな二人の夫婦喧嘩なのだから、 セックスレスになっていることが不満な妻が 「死ね盗撮インポ野郎!」 と言い、 キレた夫が 「うるっせえわジャンキー女!」 と返すような罵声の連鎖が生じてもおかしくない。 裏返せば、 そうならなかったことの意味は小さくない。 (つづく)