この同一平面の違いが、 『ピストルズ』 から 『Orga(ni)sm』 への変化に対応する。 まず二作品のタイトルを比較してみよう。 「ピストルズ」 とは pistil (花の雌しべ) の複数形であり、 綴りは違うが、 英語話者の耳でも区別できないほど、 pistol (拳銃) と同じ発音をする。 これが 「みずき/三月 (みづき)」 と同様の事態であることはわかりやすい。 だが、 「Orga(ni)sm」 を発音するなら、 「オーガニズム」 あるいは 「オーガズム」 のどちらかにしかならず、 「ニ」 を発音するかしないかの二者択一が避けらない。 音声になることで二つの文字列 pistil と pistol の違いは消失するが、 orgasm と organism は文字列だからこそ一体となる。
これが、 『Orga(ni)sm』 での不自然なひらがな表記の謎を解く鍵になる。 『ピストルズ』 の 「ひみつ」 とは違い、 『Orga(ni)sm』 ではひらがなの単語が多すぎて個々に意味を見いだせない。 車は 「一台」 (Org 416) で薬は 「一錠」 (Org 12) なのに、 コーヒーは 「いっぱい」 (Org 300)、 あくびは 「いっぱつ」 (Org, 488) という具合だ。 発想を逆転させよう。 木を隠すなら森の中と言うように、 このような表記が散りばめられたことで何かが目立たなくなっていると考えるべきだ。 引用した例から察しがつくかもしれないが、 阿部が一時期の漢字へのこだわりを捨てているのが一番よくあらわれているのは、 漢数字 「一」 を用いる単語である。 そして、 「一言」 ではなく 「ひとこと」 と書いたりするのは、 そうすることでやはり 「ひと」 と読む 「人」 を含む単語と文字の上でのつながりが生じるためである。 つまり 『Orga(ni)sm』 では、 「一目」 と 「人目」 がいずれも 「ひと目」 (Org 150, 352) と書かれている。 ひらがな表記が多用されることで、 この二つの言葉の違いは (部分的に) 消去され、 しかも消去されていること自体が目立たなくなっている。
つまり、 一目でも見られることは、 人目にさらされることだ。 たった一人にでも知られてしまえば、 遅かれ早かれ真実は万人に知れ渡る。 『ピストルズ』 の菖蒲あおばは、 いずれは妹・みずきの秘術によって全てを忘れてもらうという条件で、 菖蒲家の 「ひみつ」 を石川に打ち明ける。 ところがあおばの話を手記として残した石川のパソコンが 「暴露ウィルス」 (Ps II, 440) に感染して、 あおばはそれを承知で菖蒲家の 「ひみつ」 を記した文書ファイルを世界中に公開する。 もっとも、 『Orga(ni)sm』 で石川手記と呼ばれるこのファイルの中身は、 「さまざまな既存作品の引用や模倣で構成された安手のフィクション」 (Ps II, 447) と見なされ、 もともと菖蒲家の秘術に目をつけていた情報機関をのぞけば、 誰もそれを真に受けたりはしなかった。 真実は人目にさらされているが、 一目でそれとわかるものではない。 「人目」 と 「一目」 は同じでもあり、 異なってもいるというわけだ。
これは、 『ピストルズ』 のみずきとあおばが真実に対して異なるアプローチをしていることを示している。 前者は 『シンセミア』 から受け継がれたものであり、 後者が 『Orga(ni)sm』 に受け継がれていく。 菖蒲家の歴代の継承者たちとは違い、 みずきは言葉というよりその独特の声の響きによって人の心を支配するのだが、 もちろん個々人の声の響きを文字で伝えることはできない。 それは、 みずきの秘密を知った者が記憶を消されて、 その秘密を言葉にすることができないことに対応する。 逆にあおばは、 作家としてあくまでも言葉、 特に文字によって真実を明かす。 だがこうなると、 それを読んだ人間は書いてあることを信じず、 真実を真実として受けとらない。 『シンセミア』 の真実はそもそも言葉にはならず、 『Orga(ni)sm』 の真実は書かれた言葉の中に埋もれていて見つかりにくく、 『ピストルズ』 はこの中間にある1。
こうして見ると、 神町サーガで阿部がどれほど自らを成長させ、 着実に歩みを進めてきたのかが分かるだろう。 批評が阿部に追いつけないのも無理はない。 阿部の作品という檻の中に閉じこめられた私たちは、 ハムスターやハツカネズミのように回し車を際限なくカラカラ鳴らしながら全力疾走しているかのようだ。 ある対談で阿部はネズミが大嫌いだと告白しているが2、 ひょっとして批評家に対しても同じような嫌悪感を抱いているのではあるまいか。 現に、 後段で述べるように阿部は諺や慣用句を文字通り再現するかのような場面を描くことがあるが、 『シンセミア』 の印象的なネズミは、 「窮鼠猫を嚙む」 とはゆかずあっさりと猫に食い殺されるのだ。 私たちは解釈を加速させ、 どうにかこの檻から脱出せねばならない。
注釈
- 詳述はできないが、 『ミステリアスセッティング』 もまた、 真実と言葉との間の二種類の関係を交錯させる試みととらえていい。 主人公のハムラシオリはスーツケースに偽装した小型核爆弾をおしつけられるのだが、 この爆弾が無力な言葉に対応する。 言葉が言葉として無力であるということは、 ちょうど空っぽのスーツケースのように中身が空虚であるということであり、 だからこそそんな言葉は言葉を超えた暴力へと転化しようとする。 このスーツケース型小型核爆弾と同種のものが神町に持ちこまれたと 『Orga(ni)sm』 のラリー・タイテルバウムは考えているのだが、 作品終盤で確保したそれは、 本当にただのスーツケースでしかなかった。 『ミステリアスセッティング』 では、 核爆弾を渡されてしまったのだと訴えるシオリの言葉を、 彼女のメル友である Z は 「架空のストーリーとして受けとめて面白がり、 クイズを解くような感覚で受け答えしていた」 (MS 269)。
- 阿部和重 『阿部和重対談集』 (講談社、 二〇〇五年) 249-250 頁。