こうした言葉と真実との関係を考慮すれば、 『ピストルズ』 の 「ひみつ」 が見抜ける。 『シンセミア』 の漢語や擬音語は、 ギリギリのところで真実とは別のものであり、 真実を覆い隠す遮蔽幕として機能する。 『シンセミア』 の盗撮グループは 「青年団」 ということになっているが、 これでは 「性念団」 (SS I, 85) だと自嘲するくらい性欲を持てあまし、 退屈な地元の 「果樹王国」 が 「禍呪王国」 (SS I, 89) になる大惨事がおこらないかと嘆く。 ひとつの漢字表記を変更しても別の漢字表記に行きつくだけで、 遮蔽幕の向こうには遮蔽幕しかない。 だとすれば、 菖蒲家の秘密をもはや秘密のままにはしておくまいとする 『ピストルズ』 が 「ひみつ」 に固執するのも当然だろう。 そしてまた、 代々 「ミズキ」 の名を持つ菖蒲家の秘術の継承者たち (瑞生/瑞木/水樹) とは違い、 最後の継承者の名はひらがなの 「みずき」 である。
もちろん、 見た目が相対的にやわらかいだけで、 ひらがなも文字であり言葉でしかない。 『シンセミア』 とは違い、 『ピストルズ』 では菖蒲みずきが言葉によって真実を語るが、 言葉それ自体の性質は変わっていない。 神町を襲った少女の変死事件において、 小児性愛者の沢見克実という男 (『グランド・フィナーレ』 の主人公) が濡れ衣を着せられる。 みずきは沢見を餌にして、 彼を袋叩きにしようと集まった暴徒たちを警察に逮捕させるつもりだったのだが、 血まみれで現れたのは沢見ではなく父の水樹だった。
「ずうずうしいぞこのロリコン野郎が!」
その発声と同時にフルスイングされた緑色の金属バットが──菖蒲水樹の後頭部を直撃してしまう。
すると意識を失ってしまい、 たちまちくずおれてゆく父親をとっさに全身でささえたみずきは──傍らで突っ立っている暴徒らをきつくにらみつけ、 ただちにこう真実を告げる。
「これはロリコン野郎じゃない、 あたしのおとうさんだ!」 (Ps II, 428)
なんて間の抜けた真実の言葉だろう。 これではまるで、 使い道のない外国語の例文を直訳したみたいだ。 これはロリコン野郎ですか?いいえ、 これは私のお父さんです。
みずきの台詞の平板さにも、 デビュー当初からの阿部の特徴があらわれている。 『アメリカの夜』 の中山唯生は、 特別な存在つまり 「気違い」 になるためには、 狂気について考えて、 頭の中で気違いへと接近すればいいと思いつく。 そうすれば、 「まるで 『ミイラとりがミイラになる』 ように、 または 『木菟引きが木菟に引かれる』 ように、 あるいは 『人捕る亀が人に捕られる』 ように、 さらには 『羊の毛を取りにいって自分の髪を切られて帰る』 ように」 (AY 75) いずれは自分も狂気に落ちこんでいく、 というわけだ。 この諺や慣用句の列挙は、 『アメリカの夜』 だけの文脈で言えば、 唯生について語る語り手が、 ドン・キホーテの従者であり 「夥しいほどの諺を駆使して」 (AY 87) 語るサンチョ・パンザに相当することを意味する。 加えて、 これは、 直に目撃されるべき (瞠目すべき) 独特な存在や一回きりの出来事を言葉で語ろうとしても、 その表現には複数の選択肢が生じるということでもある。 そして言葉によるそれらの表現は、 独特どころか使い古された定型表現になり、 語らねばならなかった特別な真実とはかけ離れてしまう。
だが、 「特別な真実」 と 「ありふれた言葉」 の対立軸だけでは 『ピストルズ』 を解釈するのに十分でない。 唯一の真実を表現するはずなのに、 いくつもの言い方 (複数の選択肢) ができるという事態は、 『ピストルズ』 において必ずしも言葉の虚しさを意味していないからだ。 たとえば、 『ピストルズ』 で真実を語るのは菖蒲みずきだけではない。 すでに触れたように、 菖蒲家の秘密を明かすのはみずきの姉のあおばであり、 あおばは作家として菖蒲三月を名乗る。 「ひらがなで、 す、 に濁点で、 みずき。 あたしのペンネームは、 つ、 に濁点で、 三月。 発音するとおなじになっちゃうんです」 (Ps I, 46)。
これは 『シンセミア』 の 「青年団」 が 「性念団」 (変態集団) になり、 「果樹王国」 が 「禍呪王国」 と化した場合とは違う。 『シンセミア』 では二つの選択肢の一方が他方を排除していた。 その二者択一の論理は、 『ピストルズ』 でもまだ残ってはいる。 菖蒲みずきは父・水樹の死という代償によって継承者となり、 その水樹にしても彼の父・瑞木の死と引きかえに当主の座についたからだ。 だが、 みずきとあおば (三月) は当たり前に併存している。 みずきやあおばを含む菖蒲家四姉妹は全員母親が異なるのだが、 この四人の母親たちにしても、 「ふたりのトシコさん」 (Ps I, 215) と 「ふたりのショウコさん」 (Ps I, 284) であり、 菖蒲家の一員となった人々は、 「個性をうっちゃり一様に 『サトウ』 を通称としてしまった」 (Ps I, 148)。 『ピストルズ』 には、 一つの名が順を追って反復される縦軸だけでなく、 同じ名を持つ者が複数存在する同一平面がある。 (つづく)