この謎を解明するため、 デビュー作 『アメリカの夜』 にさかのぼり、 阿部作品での言葉の性質を確認しておこう。 物語の真の主人公になりそびれた中山唯生と、 唯生の分身である語り手は、 最近建てられた祖父の白い墓を見つめる。 今はまっさらだがいずれ祖父以外の家族の名も刻まれることになる白い表面が彼 (ら) を戦慄させる。
そう、 この余白が私を震撼させた。 花崗岩、 俗にいう御影石でできた、 そのたいらな平面が、 私を生きながら葬り、 地中ふかくへと誘っているような気がしたのだ。 墓誌という名の石板の、 祖父の名いがいはなにも刻まれていないのっぺらぼうな表面が、 生の領域にあるはずの私に死を宣告し、 はやく署名をおこなって、 余白を文字でうめつくせと促しているかのようなのだ。
そのような誘惑を、 ひとはことわることができるだろうか。 (AY 187)
揚げ足とりだと思われるかもしれないが、 指摘しておこう。 どんなに文字を書き記しても、 余白を文字通り 「うめつく」 すのは不可能だ。 白い表面が本当に黒い文字で 「うめつく」 されたら、 真っ黒な壁になってしまう。 白地に黒でも黒地に白でも、 言葉が言葉であるためには白と黒の共存・隣接が不可欠であり、 文字は余白を征服しつくすことができない。 征服しつくしたなら、 文字は文字ではなくなるからだ。
だが、 阿部にとって言葉は、 それを読みとれなくなるような極限に向けて強く引きつけられているものでもある。 だから唯生=語り手も、 墓誌の余白に署名することが自身の死を意味することを明確に意識しているというのに、 その誘惑に屈しかけている。 人生が死という終局に向かう流れであるのに似て、 言葉は言葉を破壊しようとする力にさらされている。 その破壊の途上にあるもの、 少なくともまだ破壊されてはいないものにしか、 「意味」 は宿らない。
こう考えると、 神町三部作の変化が説明できる。 すなわち、 言葉と、 その言葉が向かう先にある 「真実」 との関係が、 三部作では微妙に変化する。 まず 『シンセミア』 での真実は、 厳密には言葉によって語られるものではない。 松尾丈士を中心とした盗撮グループは、 「事件は生じぬのではなく、 視界の外に置かれて隠蔽されている」 (SS I, 90) と考えて、 神町に監視網を構築する。 これは、 真実を、 特定の場所に局在する物理的なものととらえる発想だ。 真実は言葉では伝わらず、 それを隠蔽する物理的な障壁を破壊することで目撃されるということだ。 「俺は口だげじゃなぐ、 本当にやるぞ。 (⋯) お前ら、 俺がババアのベッチョば撮ってきたら、 絶対に見ろよ。 絶対にな!」 (SS I, 227) と言う松尾が祖母の陰部を撮影するように、 『シンセミア』 では 「口だげ」 の中途半端な真実など真実ではない。 言葉で余白を黒く塗りつぶすことができないのと同様、 言葉は語りたくてしかたない真実を語り尽くせない。
それでも 『シンセミア』 の言葉は、 物質的な真実にどうにか近づこうとする。 だからこの小説では、 ぎゅっと圧縮されたかのような難解な漢字や、 しばしばゴシックで強調される擬音語が多用されているのだ。 こうした言葉は字面によって、 直接的に読者の視覚と聴覚に訴えかけ、 できることならその読者の顔面をぶん殴る拳のようなものになろうとしている。 だが、 これらの言葉は真実に漸近するにとどまる。 「真実」 と呼ぶに値するものが持つ、 それ以上何もつけ加えられないような決定的な重みが、 これらの言葉には宿らない。 冒頭の殺人事件で、 銃声をごまかすために隈本光博がタイミングを計る 「ズドンという物凄い音」 (SS I, 28) がこうした言葉の典型である。 この害鳥対策の音が冒頭では何度も繰りかえされ、 そして米軍の不発弾が爆発する作品終盤では、 物理的な破壊と暴力がたてつづけに発生する。 「ドガンドガンドガンドガンドガンドガン」 (SS II, 478)。 どうしても余白を殺しきれない言葉は、 せめて見た目だけでも黒々と太く硬くなろうとする。
『シンセミア』 は、 真実そのものにはなれないことに苛立って悪あがきする言葉によって書かれている。 悪あがきは往々にして、 一度きりでは終わらないものだ。 不発弾の爆発の直前、 田宮家の娘の彩香と恋仲になっている隈本光博は、 恨みを募らせていた田宮家の二代目・田宮明と格闘し、 両者が同時に爆死する。 「お前の娘はな、 厭んなるくらい俺とハメまくったんだよ、 お父さん! だからもう、 あんたと俺は、 赤の他人じゃないんだよ、 お父さん!」 (SS II,467) と嘲る隈本を殴って殴って殴りまくり、 「パンの田宮」 の倉庫に積まれた小麦粉の袋は破れ、 大量の微粒子が飛散する中で田宮明がライターに着火したせいで粉塵爆発が起こったのだ。 ある批評家はこれを 「テクスチュアルな粉塵爆発」 1と評した。 擬似的とはいえ物質的な硬さをもつ漢語が舞い散る小麦粉のように作品を満たして誘爆し、 物語を語る言葉の形式が物語の内容の領域に侵入するということだ。 確かに、 ゴシックで強調され、 「嫌」 よりもさらに画数の多い 「厭」 が使われるあたり、 この解釈は説得力がある。 (つづく)