裏切り者へ愛をこめて:阿部和重論

連載第3回: 帰ってきた阿部和重 2

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2021.
11.24Wed

帰ってきた阿部和重 2

承前

の謎を解明するためデビュー作アメリカの夜にさかのぼり阿部作品での言葉の性質を確認しておこう物語の真の主人公になりそびれた中山唯生と唯生の分身である語り手は最近建てられた祖父の白い墓を見つめる今はまっさらだがいずれ祖父以外の家族の名も刻まれることになる白い表面が彼を戦慄させる

そうこの余白が私を震撼させた花崗岩俗にいう御影石でできたそのたいらな平面が私を生きながら葬り地中ふかくへと誘っているような気がしたのだ墓誌という名の石板の祖父の名いがいはなにも刻まれていないのっぺらぼうな表面が生の領域にあるはずの私に死を宣告しはやく署名をおこなって余白を文字でうめつくせと促しているかのようなのだ

 そのような誘惑をひとはことわることができるだろうか。 (AY 187

 揚げ足とりだと思われるかもしれないが指摘しておこうどんなに文字を書き記しても余白を文字通りうめつくすのは不可能だ白い表面が本当に黒い文字でうめつくされたら真っ黒な壁になってしまう白地に黒でも黒地に白でも言葉が言葉であるためには白と黒の共存・隣接が不可欠であり文字は余白を征服しつくすことができない征服しつくしたなら文字は文字ではなくなるからだ

 だが阿部にとって言葉はそれを読みとれなくなるような極限に向けて強く引きつけられているものでもあるだから唯生=語り手も墓誌の余白に署名することが自身の死を意味することを明確に意識しているというのにその誘惑に屈しかけている人生が死という終局に向かう流れであるのに似て言葉は言葉を破壊しようとする力にさらされているその破壊の途上にあるもの少なくともまだ破壊されてはいないものにしか、 「意味は宿らない

 こう考えると神町三部作の変化が説明できるすなわち言葉とその言葉が向かう先にある真実との関係が三部作では微妙に変化するまずシンセミアでの真実は厳密には言葉によって語られるものではない松尾丈士を中心とした盗撮グループは、 「事件は生じぬのではなく視界の外に置かれて隠蔽されている」 (SS I, 90と考えて神町に監視網を構築するこれは真実を特定の場所に局在する物理的なものととらえる発想だ真実は言葉では伝わらずそれを隠蔽する物理的な障壁を破壊することで目撃されるということだ。 「俺は口だげじゃなぐ本当にやるぞ。 (お前ら俺がババアのベッチョば撮ってきたら絶対に見ろよ絶対にな!」 (SS I, 227と言う松尾が祖母の陰部を撮影するように、 『シンセミアでは口だげの中途半端な真実など真実ではない言葉で余白を黒く塗りつぶすことができないのと同様言葉は語りたくてしかたない真実を語り尽くせない

 それでもシンセミアの言葉は物質的な真実にどうにか近づこうとするだからこの小説ではぎゅっと圧縮されたかのような難解な漢字やしばしばゴシックで強調される擬音語が多用されているのだこうした言葉は字面によって直接的に読者の視覚と聴覚に訴えかけできることならその読者の顔面をぶん殴る拳のようなものになろうとしているだがこれらの言葉は真実に漸近するにとどまる。 「真実と呼ぶに値するものが持つそれ以上何もつけ加えられないような決定的な重みがこれらの言葉には宿らない冒頭の殺人事件で銃声をごまかすために隈本光博がタイミングを計るズドンという物凄い音」 (SS I, 28がこうした言葉の典型であるこの害鳥対策の音が冒頭では何度も繰りかえされそして米軍の不発弾が爆発する作品終盤では物理的な破壊と暴力がたてつづけに発生する。 「ドガンドガンドガンドガンドガンドガン」 (SS II, 478)。 どうしても余白を殺しきれない言葉はせめて見た目だけでも黒々と太く硬くなろうとする

シンセミア真実そのものにはなれないことに苛立って悪あがきする言葉によって書かれている悪あがきは往々にして一度きりでは終わらないものだ不発弾の爆発の直前田宮家の娘の彩香と恋仲になっている隈本光博は恨みを募らせていた田宮家の二代目・田宮明と格闘し両者が同時に爆死する。 「お前の娘はな厭んなるくらい俺とハメまくったんだよお父さん! だからもうあんたと俺は赤の他人じゃないんだよお父さん!」 (SS II,467と嘲る隈本を殴って殴って殴りまくり、 「パンの田宮の倉庫に積まれた小麦粉の袋は破れ大量の微粒子が飛散する中で田宮明がライターに着火したせいで粉塵爆発が起こったのだある批評家はこれをテクスチュアルな粉塵爆発1と評した擬似的とはいえ物質的な硬さをもつ漢語が舞い散る小麦粉のように作品を満たして誘爆し物語を語る言葉の形式が物語の内容の領域に侵入するということだ確かにゴシックで強調され、 「よりもさらに画数の多いが使われるあたりこの解釈は説得力がある。 (つづく

次回は 12 月 1 日ですお楽しみに!

注釈

  1. 渡部直己不敬文学論序説』 (ちくま学芸文庫二〇〇六年292 頁渡部の論旨はシンセミアでの頻繁な視点の移動をも考慮したものだがここではやや単純化した

英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。