裏切り者へ愛をこめて:阿部和重論

連載第2回: 帰ってきた阿部和重 1

アバター画像書いた人: 柳楽 馨
2021.
11.17Wed

帰ってきた阿部和重 1

1:帰ってきた阿部和重

いやという漢字には厭と嫌があって厭のほうが本当にいやな感じがあるので厭を練習

川上未映子乳と卵

〇〇〇年七月神町での殺人事件からシンセミアの物語は動きだす水面下で策謀は勢いを増し豪雨で水浸しになった町は悪臭に満ちその悪臭が引火性のガスであるかのように暴力が頻発して人がぽんぽん死んでいく悲劇の原因は一九五一年のよそ者の売春婦たちが拉致監禁暴行の被害に遭う郡山橋事件と呼ばれる惨事」 (Org 108である。 『ピストルズで明らかになるこの事件の黒幕こそ人心操作洗脳・幻覚の秘術を受け継ぐ菖蒲家だった二〇〇五年歴代最強の継承者である菖蒲みずきは、 「圧倒的なる力のおかげで膨らむばかりとなった文字どおりの万能感」 (Org 112のために増長し父・水樹の実質的な死という報いを受けるそして、 「血まみれのラリー・タイテルバウムが阿部和重の住まいを訪れたのは二〇一四年三月三日月曜日の夜のことだ」 (Org 9)。 CIAのスパイであるラリーによると神町訪問が予定されているオバマ大統領が狙われていて菖蒲家が暗躍している孤立無援のスパイや息子の映記とともに、 『Orga(ni)smではいよいよ阿部和重が故郷に帰るとなるとこれはもうワクワクせずにはいられない

 ところが、 「阿部和重が主人公となるOrga(ni)sm阿部作品とは思えない文体で語られていくラリーは阿部和重核攻撃を防ぐため神町に潜入してくれ映記も連れていこうと言いだすもちろんそんなの無理に決まっていると阿部和重は反発するが妻の川上が今まさにその神町にいることに思い至り妻子ある作家は絶句するこうして阿部和重はラリーにみずからの家族愛を逆手にとられるわけだがこの場面の家庭だいいち主義」 (Org 315という表記で私はつまずいてしまう漢字変換のミスでもないかぎりこんな書き方は見たことがない。 『シンセミアには瘡蓋」 (SS II, 181泣哭」 (SS II, 110のような単語があふれていたこういうゴツゴツとした漢語によって語りの流れを乱されずに阿部はシンセミアを書ききったのに、 『Orga(ni)smの文体はひどく弛緩しているのだ

 三部作の二作目ピストルズはこの点でも中間に位置する。 『ピストルズの語り手である石川満は神町の書店主で名前は明かされないままシンセミアにも登場していたただしピストルズの主要部分は石川に語りかける別の人物の言葉として提示されるこの第二の語り手が菖蒲みずきの姉菖蒲四姉妹の次女あおばである生身の人間が語り手であるため、 『ピストルズでの漢語はシンセミアほど目を引くものではない

 他方でピストルズには、 『Orga(ni)smでの不自然なひらがな表記の萌芽があるパン屋の田宮家とヤクザの麻生家が郡山橋事件でも暗躍したという真相がシンセミアでは明かされたがさらにその背後に隠れていた菖蒲家の秘密を語るピストルズでは、 「秘密ではなくひみつと書かれるこれは菖蒲あおばが書いた 「『モモ園のひみつというヤングアダルト小説」 (Ps I, 28に合わせただけとは思えない書店主の石川もまたひみつ裡」 (Ps II, 344と書く物語の内容からして極秘裡」 (Ps II, 87隠密裡」 (Ps II, 299といった単語が頻出するピストルズには、 「ひみつはあっても秘密がない菖蒲家はこうして先祖伝来のひみつ主義」 (Ps I, 170を破り秘密を明かす

 だから三部作の変化を、 「見慣れない硬い漢語の多用から見慣れた漢語のひらがな表記へと要約できる。 『シンセミア鬚髭」 (SS II, 307などふりがなが無ければどう読むのか私にはわからなかったし、 『ピストルズ誑惑」 (Ps I, 197塗香」 (Ps I, 247も私が初めて目にする言葉だっただがOrga(ni)smコーヒー豆のちゅうぼそびき」 (Org 300という表記は別の意味で見たことがなかった。 『シンセミアでは一人だったがピストルズOrga(ni)smではひとりになる。 「一方的ではなくいっぽう的」 (Ps I, 293, Org 770と書くくらいならまだいいしかしピストルズではLSDの紙片が一枚と書かれていたのに、 『Orga(ni)smでは阿部和重が写真いちまい」 (Org 370まともに撮れないと文句を言われる。 『Orga(ni)smがどうして不じゅうぶん」 (Org 578ひと筋縄」 (Org 762と書くのかを説明するのは一筋縄ではいかず漢字の使用を控えて読みやすくしたと考えるだけでは不十分なのだ。 (つづく

次回は 11 月 24 日ですお楽しみに!

英米文学研究者。『小説トリッパー』2022年夏号「今もかならず、どこかに春が」でデビュー。関西在住の文学研究者・大学教員。