誰もが自分自身に囚われの身であり、誰もがその牢獄の壁だけに言葉を書きつける。だがその牢獄が彼に解放をもたらすのである。
ジョー・ブスケ(谷口清彦・右崎有希訳)
はじめに
阿部和重に芥川賞をもたらした『グランド・フィナーレ』の宣伝文句を、私はよく覚えている。「文学が、ようやく阿部和重に追いついた」。しかし、「批評」が阿部に追いついていない1。阿部の小説にはいかにも批評家が食いつきそうな疑似餌がばらまかれているので、「何かしら気の利いたことを言おうとしても、蜘蛛の巣のように緻密に張り巡らされた作者の構想に絡み取られているだけのことになる」2。作品に先回りされた批評は、わかって当たり前のことをもったいぶって繰りかえすだけだ。
以下で読み解こうとしているのは、『シンセミア』、『ピストルズ』、『Orga(ni)sm』の三部作を中心とした神町サーガ、つまり阿部の故郷である山形県東根市神町を舞台にした作品群である。手はじめに『Orga(ni)sm』の大詰めをとりあげて、「わかって当たり前のこと」をもったいぶらずに提示しよう。
二〇一四年、日本の首都となった神町で、来日した「オバマ大統領」を乗せた車の一群の前に拳銃を手にした男が現れ、狙撃されて倒れる。その時、超新星爆発によるガンマ線が地球に降り注いでいたため、上空を飛んでいた多数のドローン(無人小型飛行機)が機能を停止して次々と落ちてくる。
これは、「オバマ大統領」に対する精神分析で言うところの「去勢」である。平和主義者だと思われがちだが、オバマはドローン攻撃に消極的ではなかった。技術も資金もたっぷりそなえた超大国らしいこの戦争では、地上からは視認できない高度のドローンが撃ち落とされても味方は死なず、敵はまさしく青天の霹靂で殺される。一歩たりとも動かず遠方の対象を見つめ、その者の生殺与奪の権限すら握っている「オバマ大統領」は、『ピストルズ』の菖蒲みずきと同様、何もかも意のままにする「傀儡師ならではの全能感」( Ps II, 227 )を抱きかねない。その錯覚を打ち砕き、調子にのったガキの牙を折ること、あるいはそんな牙はいつでも折れるのだと思い知らせることを、去勢と呼ぶ。
この解釈は、正しいに決まっている。ドローンによる圧倒的な視覚の優位は、阿部が問題視してきたハリウッド映画での特殊効果技術の肥大化とも関わり、通常の制約を超えてあらゆるものを見たり観させたりすることを意味する3。そして、「遵法精神が敗北を喫する。それがこの高度情報化社会の現実なんだ(⋯)そんな中でいかに立憲主義を機能させるのか」4が『Orga(ni)sm』のテーマですと、阿部はさらりと白状する。これは阿部に大きな影響を与えた大西巨人『神聖喜劇』のテーマでもある5。つまり理性と言葉、そして法による支配が暴力と無縁でいられるか否かということだ。強大な武力を象徴的に失った「オバマ大統領」はその後、一発だけ銃弾が装填された拳銃を託され、その銃をぶっ放してやりたい衝動を抑えつつ、ロシアとの対話を試みる。暴力が避けられないという現実を否定はできないものの、その闇雲な肥大化だけは抑えねばならないのだと示すため、阿部は「阿部和重」の故郷にドローンの雨を降らせる。
阿部に追いつこうとする私たちにとって、この解釈はスタートラインにすぎない。それらしい理論や政治的問題に言及しつつ小説の大詰めの場面を取り上げるのは、たしかに批評っぽい。しかし、批評的意識の強い阿部のような作家の読者なら、それでは阿部の構想のなかにいつの間にか閉じこめられているだけではないかと自問する。作品の「真実」かと思えたものは、私たちを監禁する密室の壁だ。そもそも、いくら大詰めとはいえ、ひとつの場面を読めば導き出せる抽象的な命題をなぞるだけでは、批評っぽいだけの批評のまがい物にしかならないのも当然だろう。ならば私たちはいっそのこと、思いきり風変わりで些細なことから一歩ずつ進んで行こう。
注釈
- 阿部の小説からの引用は、本文中に以下の略号と共に頁数を示す。ただし、作中で繰り返し用いられる表現は頁数指示を省略した。
AY.『アメリカの夜』講談社文庫、二〇〇一年
BCM.『ブラック・チェンバー・ミュージック』
GF.『グランド・フィナーレ』講談社文庫、二〇〇七年
MS.『ミステリアスセッティング』講談社文庫、二〇一〇年
NN.『ニッポニアニッポン』、『IP/NN 阿部和重傑作集』講談社文庫、二〇一一年、 213-375 頁
Org.『Orga(ni)sm』文藝春秋、二〇一九年
Ps.『ピストルズ』講談社文庫上下巻、二〇一三年
SS.『シンセミア』講談社文庫上下巻、二〇一三年
上下巻に分かれた『シンセミア』と『ピストルズ』については、頁数の前に I もしくは II を添える。阿部和重オフィシャルサイトに公開された『ブラック・チェンバー・ミュージック』は(1)から(65)に分かれており、例えば(23)からの引用は( BCM 23 )とする。
以下、『Orga(ni)sm』に登場する「阿部和重」との混同を避けるため、現実の作家を苗字のみで阿部、登場人物はカッコつきで「阿部和重」とする。同様に、実在の米国(元)大統領バラク・オバマをオバマ、登場人物を「オバマ大統領」とする。
- 日比野啓「いま、「気違い」とは、はたして可能であるのか。」『文學界』二〇一九年十月号(文藝春秋) 74 頁。
- 阿部和重「表現上のアンバランス──ウォシャウスキー兄弟『マトリックス リローデッド』」、『映画覚書 vol. 1』(文藝春秋、二〇〇四年) 102-08 頁。
- 「アメリカ・天皇・日本」『文學界』二〇一九年一〇号、 26 頁。
- 大西巨人『神聖喜劇』光文社文庫第2巻、二〇〇二年、 333-34 頁。