KDP の 「ペーパーバック (違和感のある表記だな)」 を途中まで試した。 前に.COM で試したときと違って CreateSpace からそのまま移植したような UI ではなくなっている。 CreateSpace とおなじようにプレビューがある (仲介業者にはない)。 判型も CS とおなじ。 KDP の表紙を使いまわせる判型が標準。 四六判は 「独自の判型」 から設定。 使いまわせるというのは縦横比の話ね。 ペイパーバックの質感が活かせる縦長。 ISBN は CS とおなじで無料で使えるがたぶん洋書扱いになる。 出版社名を設定したければ自分で取得したものを使う。 バーコードは自動だと JAN コードがつかない。 横二段の変な形のやつになる。 最初から表紙にデザインしてしまえば通るのかも。 不明。 結論としては既存タイトルを出版しなおす必要はないかなと感じた。 次の本は二段バーコードがいけるかどうかで判断する。 Amazon POD という別の仕組みを利用していた仲介業者はこれまでのような殿様商売は通用しなくなる。 本来なら表に出してはいけない水準のサービスだったからだ。 日本版 KDP Print はローカライズが不充分ながら多くの出版者にはおそらく充分な水準だと思う。 あとは価格かな。 CS では中編小説を取り分一割くらいで千円以下の価格に設定できたが、 数ヶ月後にはアルゴリズムがつり上げた価格で関連会社から買うしかなくなった。 CS を使って日本語で小説を出版するのがおれだけだったので、 そういう意味で CS を使った日本語小説の出版ではおれが世界でいちばん詳しかった。 それで得したことは微塵もない。 癖のあるシステムと格闘して英語と日本語で複数の窓口とやりあう気力はもうない。 しょせん出版は自己満足でしかない。 それにしてもいまやこんなにも出版の手段に KDP を選ぶひとが多いのだと感慨に耽る。 2012 年秋にはやってるやつはみんな知り合いだったよ。 Wook もパブーも昔話だねぇ⋯⋯ BCCKS は? 当時は個人出版とか自主出版とか自己出版とかセルフパブリッシングとかいっていた。 セルフパブリッシングという単語は (海外での使われ方は本も含むが、 日本語では) いまではゲームの出版方法を意味するようになった。 略語をどうする、 と某所で議論してセルパブと呼ぼうなんて決めたりしたっけ。 いまはもう出版手段に何を使っているかなんてどうでもいい時代になった。 自分に合った手段を選べばいい。 既存の出版社とかかわる利点も依然としてある、 おれには向かなかったけど。 だからおれはもうわざわざインディとかセルフとか個人とか称するのはやめた。 迷いながらも独立とはまだ謳っている。 2011 年のドラマ 『New Girl / ダサかわ女子と三銃士』 で、 すでに 「Kindle で出版する彼氏」 がしょぼい YouTuber 的な扱われ方をされていた。 日本でもそんな位置づけになりつつある。 単に手段として利用するか、 プラットフォームのコバンザメになるか。 2015 年の 『キャッスル 〜ミステリー作家は事件がお好き』 では主人公の作家がウェブサイトでサブスクライブのメールマーケティングをしていて、 会員は未発表短編が読めるとか新作の告知があったりとかいう描写があった。 手段として利用する企業のひとつに出版社がある、 という時代にもなりつつある。 ヤマダマコトさんもあくまで手段としてセルフを利用しているように見える、 おれと違う意味で。 というのは彼は携帯小説にルーツがある作家で、 もともとウェブ独自の表現様式で配信・閲覧されるのを前提としているからだ。 彼はおそらく今後も出版社と仕事をすることはない。 個人でやるのをうわまわる利点を見いだせないからだ。 会議と印刷では彼には遅すぎる。 藤井太洋さんと十市社さんとヤマダさんはそれぞれ歩む方向も道のりもまったく別で、 唯一共通するのは人との縁。 おれにはそれがない。 おれはそもそもが企業と相容れない。 それだけの価値がないから、 というのがもちろん大前提ではあるけれど、 そればかりではなく書店の棚に自分の本が並ぶところを想像できない。 現代の日本で出版されているものと自分は異なりすぎる。 大手出版社の編集者と話しても会話が成立しない。 ただの無能と大企業社員では経験してきたことが違いすぎるからだ。 ヤマダマコトさんは 「商業については宣伝とか肩書きを得るためにはすごく魅力的」 とおっしゃったけれど、 出版社が資本投下して価値や認知が高まった時点でセルフに移行する作家が今後は増えると思う。 出版社にとってはこれから回収だという時点で逃げられるのでフリーライドに近い。 絶版作品の引き上げで問題になるのは取材費や校正校閲にかかった費用がどうなるか。 返すのか返さずともいいのか。 引き上げるテキストは編集の手が入ったあとなのか前なのか。 揉める作家も増えるだろうし仲介する業者や弁護士も出てくる。 米国ではすでにセルフは下火になりつつあるとも聞く。 日本の某有名作家の事例ではどうも編集の手が入る前のテキストを使っているっぽい。 誤字があるので。 役者にせよ音楽家にせよ作家にせよ、 基本的に芸術家はほかに生業をもつのが当たり前だと思う。 そうでないひとがいた時代もあったかもしれないけれど、 すでにそうではない。 それにプラットフォームが決める表示機会からは逃れられない。 アルゴリズムが優遇するのは独自性が淘汰された結果でしかない。 作品自体の価値はないほうが優遇されやすい (「わかりやすい」 から)。 多少、 稼ぐ余地があるのはTシャツやマグカップ、 携帯ケースなどの物販。 そしてそれも当然プラットフォームが上前をがっぽり持っていく。 以前は公演に可能性が見いだせたがコロナでそれもなくなった。 作品は無償配布して登場人物のスタンプで細々と稼ぐとか。 そしてもちろん無償配布すると質の悪い客がつき、 ミスマッチで的はずれな低評価レビューがつく。 作品を読まず作家の人格を貶めるためだけに投稿されるレビュー。 客はそれを見て判断し、 アルゴリズムが関連づけてゴミ溜めから抜け出せなくなる。 アルゴリズムは独自性を評価できない。 前例をもとに採点するからだ。 人間もおなじで、 だから教わらぬ価値をみずから見出すための教育がなければならない。 企業は利益を追求する。 プラットフォームも出版社も。 アルゴリズムはその効率を最大化する。 売れたものを優先表示し、 互いに関連づけて、 より多く売るのが彼らにとって最適解だ。 これまでにない独自のものは排除され、 多様性は損なわれる。 世代を重ねるごとに 「よく売れたもの」 の 「すでにある要素」 が洗練されていく。 淘汰による選別で残るのは何か。 すくなくともそこに排除される側の論理はない。 そして読書は排除される側にある。 全体に抗い、 個に寄り添うものだからだ。
2021.
10.20Wed
(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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