祝福されなければ読まれない。 読まれなければ出版する価値はない。 にもかかわらず書くのは病気だからだ。
Google に騙されたことに気づいた。 11250 円分のクーポンが使えるというので試したがふつうに全額請求された。 彼らお得意の有名な詐欺らしい。 一冊も売れず一ページも読まれなかったので万札に火をつけて灰になるのをただ眺めたことになる。 今回は見込み客の選定にしくじった。 筋のいい客にアプローチしたいと欲を掻いた。 結局のところ大手出版社が大金を投じてマスメディアで販促した本、 著名人や書評欄によって権威づけられた本しかまともな客には信用されない。 献本を受けつけるメディアもあるがまず相手にされない。 確実なのは地道に名刺を配って顔を売り、 知人・友人を増やして献本し、 人柄を評価する手段として本を広めてもらうしか手はないのだろう。 世渡り (アルゴリズムに自らを最適化することも含む) の才覚が本の価値を決める。 やっぱり向いてないや。 読まれることは筋の悪い客に低評価をつけられることとトレードオフだな。 そこから脱したいのだけれど手段がない。
質の話をすると反感を招きやすい。 それは確かに好みの問題ではあるのだけれど、 それ以前に教育の問題であるような気がしている。 定型化された無個性と、 新人賞なら一次選考すら通過しない拙さを、 女児の性をコンテンツとして消費する種類の読者は、 親しみやわかりやすさとして評価する傾向があって、 それを 「好み」 と呼ぶなら確かにそうなのだけれど、 そうした作品の関連付けに閉じ込められ、 そこでの偏った価値基準でのみ評価され、 ペドフィリアを喜ばせる定型的な内容や拙さがないために貶められ、 かつそれが絶対的な評価であるかのように表示されるのはいかがなものか、 という話をしている。 2015 年頃から大勢に何度もこの話をしているのだけれどだれひとり理解しない。 ストア外の支持基盤からの導線といった話はまだしも理解されるのだけれど、 その話の前提となる質の話は 「好みだから」 で拒絶され思考停止される。 そこを受け入れると何か不都合でもあるのか。 読者には利益しかない話なのに。 一部の偏った価値観のために読書が制限されている。 それを改善するには小説の多様なおもしろさを提示しなければならない。 読み方、 楽しみ方を知らなければ、 どれだけすばらしい小説でも存在しなかったことにされてしまう。 現状は偏ったありようしか許されていない。 アルゴリズムが読書を規定している。
epub とブロックチェーンについて考えていて、 おれの本は DRM をかけないおかげで思惑通り自動化された泥棒によって勝手に無料配布されてるんだけど (落としたことないから謳い文句が本当かどうかは知らん、 改変されてるかも、 あなたの閲覧環境が汚染されても責任もてないよ)、 つまり実質 GPL ライセンスみたいなもんで、 それで連想したんだけど 『ごんぎつね』、 あれ全国の小学校教師が 「教育のためだから許されるでしょ」 って勝手な改変をくりかえしたあげくの産物で、 六歳のとき読まされたテキストなんか兵十ん家が納屋も物置もある豪邸になってんだけど、 あれライセンス実際どうなってんのかね。 うーん⋯⋯日本語で読める解説はみんな二次創作がどうとか 「絆」 とかの話になっちゃうんだな⋯⋯なんで得られる知識や教養が言語によってこうも異なるんだろう⋯⋯成功した世渡り上手が名刺配りで顔を売ってますます成功する話なんておれら一般読者には関係ないんだよ⋯⋯何が哀しくて世渡り上手のマネタイズにおれら一般人が協力しなくちゃいけないんだよ⋯⋯。 というか日本の技術者なり起業家なりは元締め的なプラットフォーマーになって世渡り上手のマネタイズに一枚噛んで上前をはねる商売像しか想像できないのか、 想像力が貧困すぎんじゃないか。 結果としてそういう寡占的な商売が成り立つのはそうかもしれないけれど、 そういうことじゃないだろう。 本とは何か、 読書とは何かのレベルから考えて生態系を構築して、 その結果としての支配だろうが。
⋯⋯とここまで書いてひと月以上が経過した。 公開する気力がなかったからだ。 いっさい読み返していない。 夏休みをもらえたので元気を取り戻した。 小説を書くほどではないがたわ言を垂れ流すくらいはできる。 九日間の連休なんていまの会社に来てから初めてかもしれない。 まいにち掃除をしたりジムに通ったりして充実している。 小説は書いていない。 無価値なものを出版してどうなる? 嗤われるために金を投じてどうするんだ?
おれ専用ソーシャルメディア (いわゆるお一人様インスタンス) 「オール・トゥモロウズ・パーティーズ」 では好きに垂れ流しているのだけれど、 twitter ではどこまで許されるのだろう。 垂れ流すとリムーブされたり嗤われたり陰口をいわれたりする一方で本は読まれやすくなる。 Fediverse でやるようになったのは一年前からだけれど BuddyPress で似たようなことをやりはじめたのは 2016 年から。 人格 OverDrive でやっていたときはそこだけ読まれた。 たぶんやばいやつを観察して嗤いものにして溜飲を下げるために利用されたのだろう。 しかしその時期のほうが本は売れていた。 売れればいいかといえばそうでもなくて、 筋の悪い客によって低水準のレビューがついたりした。 著者の人格否定だけを意図したレビューで本の内容とはまったく関わりがない。 おそらく実際には読んでいまい。 「参考になった」 がたくさんついた。 で、 筆名を替えてからは客筋を改善するためになんでもやった。 最近わかってきたのは金を稼ごうと思ったら、 「やばいやつを観察し嘲笑して溜飲を下げる」 ことを意図した筋の悪い客に読まれるしかないということだ。 Kindle ストアの客層自体がそのようなものだからともいえるし、 素人のゴミと関連づけられて抜け出せないせいもあるし (これについてはアルゴリズムがそのように調整されているせいもあるし実際にそのような導線で読まれたせいもある)、 ソーシャルメディアでの世渡りが下手で、 権威者に言及されることがないせいもあるし、 類は友を呼ぶというか、 おれ自身が所詮その程度でしかないということもある。
⋯⋯とかなんとか twitter に書いたらさっそくだれかにブロックされた。 あの場の不寛容には驚かされる。 やっぱりおれがおれである時点で敗北なんだよなぁ。 泉に身投げして 「きれいな杜昌彦」 になるしかない。 アルゴリズムに最適化された人格であるところのみなさんが羨ましい。 前にも似たようなことを試してブロックされたのだけれど、 リムーブではなくブロックというのはなぜなのだろう。 おれはあの場では基本的に、 以前親切にしてくれた方にしか関わりを持たない。 このことは徹底していて、 実はそのためにタイムラインに自分しか表示されないようにしている。 実はおれにはあなたたちが見えていない。 関心のある数名だけわざわざ見に行っている。 それはもしかしたらあなたかもしれないけれど、 見に行くときには基本的にログアウトしているからブロックしてもあまり意味はない。 twitter や Facebook のようなソーシャルメディアで意識させられるのは、 おれという個人が社会的にいかに疎まれるかという事実だ。 こういうのはどのような家庭に生まれ育ったかで概ね決まってしまう。 愛されるのは、 愛されて育った者だけだ。 そうでない人間は黙っているしかない。 口を開けば罰される。 そういう人間が書いて出版するのはそもそもがまちがっている。 ソーシャルメディアで愛される人間だけにその権利がある。
騙された結果として 10670 円分のクーポンをもらえた。 鴨と見なされたらしくメールで営業もかけられた。 広告なんかする気力はもうない。