イシュマエル・ノヴォーク

第8話: アリゾナ州エルコ

書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2021.09.10

青と薄茶色で構成された保守的なアリゾナ州のエルコ人口は五〇〇〇〇以下人口密度は一キロメートルに一人ドワイト・アイゼンハワー・ハイウェイで長距離バスを降りたマーガレットは天使のような気分だった三半規管は乱れ静止しているのに揺れているガススタンドと薬局を兼ねた店で購入した抗ヒスタミン薬は彼女に喉の渇きをもたらしただけでそれ以上の贈り物はなかった
 マーガレットはひび割れたアスファルトを避けるように歩いている額から汗が噴き出し意識も朦朧としている人生に迷い疲れた女性が田舎町で愛や友情を育み自身を再発見するといった筋書きはどこにも見当たらないそういったものはハリウッドの会議室で生まれるのだ彼女はハイチ人の司祭が操る永遠の奴隷のように歩きダイナーに入った店内に貼られた共和党員たちの笑顔半世紀ほど前に破産し名前だけを残したお菓子製造会社のバッジ使用方法は見当もつかない銛のような物体マーガレットがソファに腰を下ろすとポニーテールのウェイトレスが気だるい様子でやって来たウェイトレスは薄汚れたエプロンで手を拭き
注文は何にする?
冷たいものならなんでもいい氷を沢山入れてくれると嬉しいわ
アイスティーがあるさっき淹れたの
それをお願い
 言い終えるなりマーガレットはテーブルに突っ伏しそのまま眠った

 目の前にアイスティーが入ったグラスが置かれるとマーガレットは目を覚ましたグラスの中には砕かれた氷が敷き詰められておりシャーベット状になっていた彼女は一気にアイスティーを飲み干した小さな氷まで飲み込んだので咽頭から胸のあたりまで冷たくなったように感じたウェイトレスがおかわりする?と言うと彼女は喉を撫でながらうなずいた
 二杯目を半分ほど飲んだマーガレットがグラスをテーブルに置くとウェイトレスが言う
何をしに来たの?
ハイドパークさんの家を見たくて
 深々とうなずいたウェイトレスが
あぁファンなのね時々来るわ世の中には物好きって呼ばれる人がいるのはわかっているけれど信じられないって思うだってここエルコよ? 空港はちっぽけで農業用のセスナぐらいしか飛んでいないあぁ……お墓ならここを出て真っすぐアドビ・ミドルスクールの先すぐにわかるわでも誰も住んでいないわよ? お墓があるだけまぁお墓参りがしたかったんでしょうからそれでいいのかも知れないけど自慢じゃないけどあたし小さい時にダグの自転車に乗せてもらったことがあるのダグは十代であたしは五つか六つダグはあんまりよく思われていなかったわ男らしいっていうより神経質で一人でいることが多かったしとはいえ優しい人だった笑った時とか裏表がないっていう顔をするのもっと詳しく話を聞きたかったらシモーヌの家に行くといいわダグの家は空き家になっているから隣のシモーヌが様子を見ているのたまにファンが勝手に入ったりするのよそれで保安官を呼んだことがあったわシモーヌはあの家の掃除をしたり花を植えたりしているのお金なんてもらっていないのにね本当ひどい話

 勘定を済ませダイナーを出たマーガレットは生ぬるい風に背中を押されながら歩いている人影はなく道路に停められている自動車は何日か前からそこにあるのか車体には砂埃がこびりついていた膝ほどの高さに成長したイネ科の雑草唐突に姿を見せる荒涼とした大地砂埃の合唱が繰り返される
 ミドルスクールの前を通っても子どもの姿はおろか声すら聞こえなかった彼女には時間や記憶までもが失われたように思えた少し歩くと白い一軒家が建っていた家のペンキは所々が剥がれており景色に溶け込んでいるように見える家のまわりに柵はなく玄関の前に傾いて立つポストの口はテープで塞がれていた玄関まで進むと手紙がドアの下に挟まれていた大小様々な封筒の消印が押された場所は一つとして同じものがなかったドアノブにはダグは神と書かれた剥き出しのメッセージカードが貼りつけられていた彼女は家を囲むように裏に回るとウェイトレスが言った通り墓石が立っていた

ダグラス・ハイドパーク 一九四四~一九七一

 墓石のまわりに咲くオレンジ色のチューリップ干上がったグラスの底にこびりついた茶褐色のラム酒の残滓マーガレットの鼻孔を刺激したのはチューリップの花粉かあるいはバーパーセプション・オブ・パースペクティヴで飲んだラムの記憶なのか? 彼女はこれまでの愚行とも呼べる旅を思い返しながら感慨に浸った
何かご用かしら?という声が聞こえた時マーガレットは水を差された顔で振り向いたそこには先住民ショショーニ族がエルコを形容した言葉そのままの白い女が立っていた白い髪寝間着のような白いワンピース胸元には太陽黒点のような染みが見えるマーガレットがごめんなさいと言うと白い女がどうして謝るの?
勝手に敷地に入ることは良くないことだから
誰も住んでいないしそれにあなたはダグのファンなんでしょう? 悪い人には見えないものもし良かったらお茶でもどう?
 急な展開にマーガレットはどぎまぎしながらうなずいた女が促し裏口のドアに手を置いた
勝手に入るのはマズイんじゃないかしら
この家の管理は私がしているのだから大丈夫
 マーガレットは白い女の後ろを歩いて家の中に入った物音を立てずに歩く白い女は幽霊のように見えた台所に行くと女は棚からコーヒー缶をとり出し目分量で紙フィルターに粉を入れたガスコンロが捻られへこんだヤカンが音を立てる紙フィルターに湯が注がれ挽かれてから数か月経った粉は精一杯膨らんだはずだが地平線のように平行を描いたテーブルにカップが二つ並べられ白い女が座ったら?と言うとマーガレットは木製の椅子に浅く腰掛けた
 壁に掛けられた黄ばんだ写真彼女が腰掛けているものと同じ椅子に座らせられた黒い目の赤ん坊赤ん坊は片目を瞑っているがウィンクと呼ぶにはいささか警戒心が強い顔でレンズ撮影者を睨んでいる隣には若き日のロイと彼の妻が正装しかしこまった顔で映っていた
遅くなったけどシモーヌ・パウンドあなたは?
マーガレット・ホットフィールドよ
マギーって呼んでもいいかしら?
えぇどうぞ
 パウンドは白い髪を撫でコーヒーを啜った
マギーはダグのファンなのね
えぇそう多分
多分?
私自身信じられないようなことが起きたの一週間で人生が変わるなんて信じられる?
 パウンドはちょっと待ってねと言うなり立ち上がって棚からクッキーの箱と大皿を一枚持って椅子に腰掛けた大皿にクッキーが半円を描くように並べられた
お茶請けが必要でしょ? さぁどうぞ
 マーガレットは仄かにシナモンの香りがするバタークッキーを齧りコーヒーで流し込んだパインドが言う
話の腰を折ったわねえぇっとなんだったかしら……そう一週間で人生が変わるかだったわねわたしは生まれてからずっとここで暮らしていたのここと言っても隣だけどだから人生が変わったなんて感じたことはないの気が付いたらおばあちゃんそんな感じね
その……ごめんなさい
謝ることなんてないわ本当のことだしねあなたはダグの音楽を聴いていても立ってもいられなくなってここに来たんでしょう? たまにそういう人が来るの手紙を置いていく人がいればお墓に花を置いていってくれる人もいる酔っ払っておしっこする人もあれはやめて欲しいわねダグは亡くなって三〇年以上経つのに未だに誰かがやって来るロイは嫌がって出て行ってしまったけれどわたしは嬉しいわ人は亡くなったら天国に行くと思うしばらくすると思い出も一緒に行ってしまうでもダグは相変わらずこの家やレコードの中で生きているわたしから見れば子どもみたいな歳のあなたが一人でここにやって来るなんて不思議な感じよ
 マーガレットは壁にかけられた写真を見ていたハイドパークの黒い目は催眠術師や老獪な神秘主義者のように見えたパウンドが言う
不思議な写真でしょう? 赤ちゃんなのに不貞腐れているように見えるダグは目が悪かったのカメラのフラッシュが目に痛いらしくてそのせいで写真は大嫌いだった学校で写真を撮る時なんて怖い顔で睨みつけていたわそれでも目を瞑ったり顔を背けたりはしなかったむしろ逆だったダグとわたしは仲が良かったわ家が隣だし幼馴染ねダグは友だちが少なくて一人でいることが多かった空想が好きで読んだ本の話をはじめるとお喋りが止まらなかった普段はほとんど喋らないのにねダグはずっとここから出たいと言っていた海を見たり毎日知らない人たちの中で暮らしたいと言っていた奨学金を申請してカリフォルニアの大学に入った時ロイはほっとしたと思うロイはダグを愛していたとは思うけれど理解できない宇宙人みたいに思っていたと思うその時にはリズが亡くなっていたしロイもダグと二人で暮らすことが億劫に感じていたのかもダグが出て行ってからもロイは何も言わなかったロイはリズを亡くしてから全部が消えてしまったみたいに暮らしていた何年かしたある日ダイナーのミナがやって来て新聞に載ったダグを見せてくれた信じられなかったわだってちょっと前まで隣に暮らしていたんですもの新聞にはレコードの宣伝が書かれていてミナが買ったばかりのレコードを聴かせてくれたわたしにはよくわからなかったけれどすごいものなんだと思ったそれから何日かしてダグが車でやって来た彼は革のジャンパーを着ていてサングラスをかけていた髪の毛はグシャグシャでごろつきみたいに見えたダグはわたしの手をとって一緒にロサンゼルスで暮らさないかと言ったわたしは迷ったそれまで知っていた彼とは程遠い恰好だったし言い方はぶっきらぼうで少し怖かったわたしが断るとダグはそうかと言ってそのまま車に乗って行ってしまった次に帰って来た時はそのままお墓
 半分空いた窓からチューリップのシトラスのような匂いが漂っていたコーヒーを一口飲んだマーガレットが後悔してる?と尋ねるとパウンドはバタークッキーを齧り
後悔していないと言ったら嘘になるわね結婚してみたかったし子どもを産みたかったかもでも時間が経つとそのことも霞んでしまういつの間にか全部がいい思い出っていうことになってしまうマギーご家族は健在?
母さんは少し前に亡くなった父親は……見たことない
そう……ごめんなさいね
はじめからいなかったものだし気にしていないわ小さい時は私と母さんを捨てたろくでなしだと思っていたけれど見たことはないし母さんも話さなかったからそのうちにあれこれ考えるのを止めたでも……
でも?
色々あって最近少し考えるようになった
いいことねマギーあなたは後悔しないように生きるといい
 マーガレットはバタークッキーを口に含みコーヒーで流し込むと口を開いた
最近わかったんだけど人ってどの道後悔するのねやったことを後悔やらなかったことを後悔
やったことの後悔のほうがいいわ
そうかしら? 結構気が重い
 コーヒーを飲み終えたマーガレットがごちそうさまを言うとパウンドが笑顔を浮かべた
素敵な時間を過ごせて嬉しいわまた来てね
えぇこちらこそコーヒー美味しかったわ
 握手を交わしハイドパークの家を出るとミドルスクールから帰る子どもたちの後ろ姿が見えた道路の脇に生えたイラクサの葉が揺れていた

 バス停のベンチに腰掛けたマーガレットは時刻表を見た次のバスが来るまでたっぷり二時間あった彼女は伸びをするとそのまま目を瞑った


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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