イシュマエル・ノヴォーク

第5話: カリフォルニア州ロサンゼルス

書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2021.08.20

ロサンゼルス空港に到着したマーガレットは浮足立っていた少しでも落ち着こうとかつてした旅行について思い出そうとするが思い浮かぶようなものは一つもなかった彼女の片手に持っている旅行鞄には替えの服と泣く子も黙るDNA検査キットその内訳はスパイラルタイプの綿棒プラスチックの試験管黒いビニール袋発泡スチロール組み立てられていない平べったいダンボール
 マーガレットはいつも通りの普段着姿なので傍目には旅行客が急を凌ぐための日用品を揃えるために買う割高な売店の店員のように見える彼女は溜息をつきするべきことについて考えるするべきことビバリーヒルズに行きハイドパークの父親ロイからDNAを採取することコッパードからの指令スパイじみた行動は彼女に勇気を与えた郵送されたDNA検査キットを受け取った翌日勇気に従ってウォルマートの仕事を辞めた去り際信じられないほど口汚く上司であるショーン・ブラックウェルを罵ったどうしてこんなにも語彙に溢れているのか? 神に愛されハープを爪弾きながら寝取られ男の蛮勇と苦悩を謳う吟遊詩人のように淀みのない完璧な韻律の卑語彼女は自身に変化が訪れたことを実感したそんなマーガレットではあるものの帰宅するなり愚かな行動を恥じて泣いたこれまでの彼女の生活は変化に乏しく刺激とは程遠い生活だったから彼女の財布には手持ちの七〇ドルと別に五〇〇ドル入っているこれはコッパードから送られたものだ航空チケットと五〇〇ドルを送られたことで今後コッパードから肉体関係を迫られるかも知れない彼女にとってコッパードは好みの男でなければコッパードも彼女を好んでいるわけではない彼女は理解しているつもりだが人生初の大仕事を前に彼女の想像力は飛躍してしまう
 マーガレットは履き潰したコンバース社製スニーカーで消毒用エタノールがうっすらと噴霧された空港ロビーを歩き出す馬鹿げたことだと感じながらも自身を月面に降り立ったエドウィン・オルドリンと重ね合わせる。 (ちなみに彼女のジーンズはエドウィン社製
 地下鉄の駅に着いたマーガレットは券売機でタップカードを買い迷った挙句に五ドルチャージした向かうべき場所はビバリーヒルズ地区だったがその前に立ち寄ってみたいと思う場所があったそれはパーセプションのファンが集まるというバー、 〈パーセプション・オブ・パースペクティヴ〉。   
彼女は映画産業や夢の国に興味はないが長ったらしくついでに厭味ったらしいまでの韻踏みは興味を引くものがあった幻覚剤を想起させる店名をリトルロックで目にすることは皆無だろうから

 彼女はハリウッド・バイン駅で下車した二線に挟まれた島式ホームホームのタイルは焦げ茶色だが黄色いタイルが不規則に敷かれておりドット絵のような模様を形成している両側の壁は青色だが一九九九年六月に開業したにしてはいささか黒ずんでいたひょっとすると当時の工事担当者たちはミシェル・ノストラダムス師の大予言を信じるあまりペンキを薄めたのかも知れない人類滅亡後にペンキの色について不満を述べる者はいないだろうから
 エスカレーターに乗りベルト式の手摺に手を置く駆動ユニットが一定のリズムで軋み振動を伝える彼女は髪を撫でた化粧をしないマーガレットだが今日は口紅を塗っている彼女は初めてのロサンゼルスで舞い上がっているそして後ろ暗い気のする行動甘い誘惑が彼女を少女のように純真な気持ちにさせている

 真っ赤なドアを開けてパーセプション・オブ・パースペクティヴに入るとまず目に入ったものはパーセプションがリリースしたアルバムのポスターだった。 〈パーセプションの正規アルバムは五枚デビュー・アルバムにして最も売り上げたパーセプション』。 一枚目からのイメージの脱却を試みた当時のマネージャールーク・サンシャスがマディ・ウォーターズやロバート・ジョンソンといったブルース歌手たちの楽曲を演奏することを提案しメンバーたちが渋々従ったブルージン
ブルージンパーセプションに対する愛の熱量が多ければ多いほど退屈に感じるようになっている端的に言って場末のバーで演奏したような録音はバンドの持ち味を削ぎ落してしまっているものの熱狂的なファンではないダグラス・ハイドパークやジノ・フィルジョン・フーパーロビン・ミラーの名前を知らないテレビ番組コーディネーターたちは知らずのうちにブルージンからの曲を流している
 三枚目のアルバム三千頭のカバたちはファーストアルバムの原点回帰と呼べる一枚であり幻想と陰鬱瞑想的なハイドパークの詩にメンバーたちの断片的なフレーズが言葉のように絡み合っている四枚目の太陽の衣をまとった女ウィリアム・ブレイクの詩からインスピレーションを得たものであり環境音を多用した構成はプログレッシヴ・ロックの名盤に数えられることもある五枚目のアーリー・イヤーズメンバーたちの少年時代の写真をジャケットに使用したものだこれはハイドパークの死後間もない一九七二年にリリースされた。 『アーリー・イヤーズパーセプションをリリースするより以前にスタジオ録音した模索段階の試作品だが原盤権を所有するレコード会社によって強引にリリースされてしまったこのことに憤ったメンバーたちはパーセプションを解散することにしたのでファンたちからは愛憎が混ざったものとして黙殺されている
 店内の壁にはジュークボックスが寄りかかっておりジュークボックスの中には三三回転のリトルLPが一〇〇曲収納されている巨大なボーズ社製スピーカーからはハイドパークがつぶやく詩の断片が大音量で流れており客たちは神秘主義者が回転の後に到達することができる法悦忘我の時を過ごしているバーテンダーはバンダナを巻き縮れた髪の先端から電極を垂らしたドレッド蟹ヘアースタイルだった特徴的なヘアースタイルのバーテンダーにようこそと言われた時マーガレットは逃げ出したい気持ちでいっぱいだった平凡さに人生を託した彼女にとってこのようなものは刺激が強すぎた彼女が口をパクつかせているとバーテンダーが
注文は何にする? あぁウチにくる仲間にこんなこと聞くもんじゃないなと言って輪切りのライムをグラスに入れるとプルーフラムと南部の安らぎサザンカンフォートを注いでカウンターに置いたバーテンダーは心を通わせた者だけがする柔和な笑みを浮かべた観念したマーガレットがありがとうと言って一口飲んだ咽頭に熱が通り過ぎ臓腑を火炙りにするバーテンダーが笑い
キくだろう? ダグが好きだったんだウチはこれからはじまるというわけさと言ってカウンターの奥に飾られている額縁に入った白いTシャツを指差したTシャツの胸のあたりにはサインが殴り書かれていた
あれは?
おれの宝物ダグのサインさダグは写真とかサインが大嫌いだったこれは七一年の話なんだが……その頃おれは追っ掛けをしていた彼らがツアーに出れば車を運転してついて回ったその日のライブも最高だった。 〈パーセプションが同じ演奏だったことは一度もないライブが終わった後おれは一人で飲んでいたライブの後に仲良くなった奴らと飲む奴がいるがおれには理解できんよなぜって感動は共有できないんだからな感動は血みたいに身体の中を駆け巡る沸騰しそうなほどなのにどこか落ち着いている……不思議だよなボンヤリ飲んでいると見覚えのある男が隣に腰掛けた思わず二度見したよマジかよ神サマ! 二時間前に観たばかりのダグラス・ハイドパークがおれの隣で酒を飲んでいたんだ深呼吸してまわりを見てもメンバーはおろかマネージャーボディーガードもいないお忍びってやつさおれは深呼吸をして思い切ってダグに話し掛けたおれは感情の限りを尽くしてあんたは最高でどんな奴よりも凄いって言ったがダグはまるで関心がないみたいだったつまらなそうな顔をしていたよでももしあんたの前にキリストがあらわれたらどうする? 思うままに愛を口に出すだろう? それからおれは三〇分ぐらいダグの素晴らしさについて喋った今思えば本人に言うなんて恥ずかしいことだがとにかくおれは興奮していたやがてダグは酒を注文してそこにスライスしたライムを放り込んだそいつをおれの前に置いたそうジャックターおれは感動のあまりチビりそうだったどうやって飲んだらいいのかもわからなかったグラスに口をつけて液体を啜ればいいそんなこともわからなくなっていたダグが落ち着けよと言ってくれたおれにだぞ? こんなおれただのファンのおれにだおれは泣いた誇張じゃなくて本当にボロボロ泣いたそのうちダグはおれの肩を叩いて耳元でこう言った。 〈サインするから靴をくれないか……どういう意味なのかわからなかったがダグの足を見るとダグは裸足だった急いで靴を脱いだよ女と寝る時よりも早く靴を脱いだあんなに素早く動いたのはあの時ぐらいかもなダグはウェイターからペンを借りておれが着ていたシャツにサインしてくれたサインが終わるとおれは呆けちまったのぼせ上っちまって頭のブレーカーが落ちちまったダグはおれの分まで金を払うとそのまま店を出て行ったこのことについて後悔していることがあるどうしてあの時、 〈ありがとうを言わなかったのかってななぜって……それからすぐにダグは空に行っちまったんだから
 マーガレットは酒を舐めるように飲んだ既に彼女の心拍数と度胸のボルテージはアルコールの影響で上がっている精一杯素面のフリをしたマーガレットがすまし顔で素敵な思い出ねと言ったうなずいたバーテンダーが
思い出は永遠だからな見た所あんたは若いようだがいつからパーセプションを聴き始めたんだい?
最近
この近くに住んでいるのか?
アーカンソン州のリトルロック
遠くじゃないか最近知ったばかりだというのに見上げた行動力だな気に入ったよあんた名前は?
マーガレット・ホットフィールドあなたは?
ビリー・ドナヒュー
よろしくビル
 ドナヒューが頭を振り髪の毛から垂れ下がるドレッドが揺れたマーガレットが言う
聞きたいことがあるの
なんだ?
えーっと、 〈パーセプションのメンバーたちは今は何をやっているの? 今もバンドをやっていたりする?
どうしてそんなことを聞くんだ?
興味があるじゃあ駄目?
ギターのフーパーはたまにふらっと来てギターを弾いていくよロビーはドラムをやめちまったがロスに住んでいるジノは……あんまり関わりたくないな
彼らの住所は知ってる?
ドナヒューが訝しげな顔でロビーの住所なら知っているだけど会ってどうする?
別に会ってみたいだけ
 ため息をついたドナヒューが白紙の注文伝票の裏に住所を走り書いて渡した

― リトルトーキョーサウス・ヒューイット・ストリート ♯三〇二 ―

ありがとう
ロビーにはおれから聞いたって言わないでくれよ? 引退しているしな一応言っておくがそこはあんたみたいな若い女がほいほい行く場所じゃないぞ
そんなに若く見える?
というより子どもみたいだなおれが思うにこれは扉だ扉は閉まっていることもあるが開け放たれてもいる
マーガレットは素っ気ない態度でそうねと言ったこれはドナヒューの話をつまらなく感じたのではなくテレビや映画で観たものを真似したにすぎない彼女は謎に魅了されておりそれ以上に酔っ払っているマーガレットはダグラス・ハイドパークのように勘定を済ませ店を出ようと立ち上がるが膝が震え感極まったパンク歌手が客席に飛び込むように頭から地面に飛び込んだ

 ☆

 目を開けるとパーセプションのメンバーたちのポスターが目に入った素肌の上に革のジャケットを着たダグラス・ハイドパークは不満げな顔でマーガレットを睨んでいる目つきがやや虚ろな理由は撮影直前にLSDを服用したからだろうハイドパークの隣に立つジノ・フィルは親しげにハイドパークの肩を掴み何か囁こうとしているジョン・フーパーは間が抜けた顔で後頭部を掻いておりロビン・ミラーはそっぽを向いている評論家やファンたちからはその後を暗示すると言われる一枚
 マーガレットは額に手をやった濡れたタオルをどけると大きなコブができていた
ここはロサンゼルス……多分……バーに行って酔い潰れて……ここは?
 彼女はあたりを見渡した壁や天井に貼られたポスター新聞音楽雑誌のコラムの切り抜き彼女はソファに寝かされている中年男性が寝転がるばかりで洗濯されていないシートには加齢臭がこびりついている彼女は肩や胸下腹部を撫でてから着衣を確認した乱れはなかったまた旅行鞄は足下にありサイフもポケットに入ったままになっていた安堵したマーガレットがコブに触れると痛みが駆け巡った彼女はうめき声を上げそのまま床に吐いた
吐瀉物の水音と異臭に気付いたドナヒューがやってきたドナヒューは呆れたような困ったような顔をしていたマーガレットが言う
ごめんなさい……掃除はする
 ドナヒューはそうしてくれと言いたいところだがそんな状態の人間に掃除させるほど冷たい奴になりたくないと言って壁に立てかけられたモップとチリトリで吐瀉物を集めはじめたマーガレットが立ち上がろうとするとドナヒューが手で遮り
もう少し休んだほうがいいひどく頭を打ったみたいだからな
ここどこ?
「〈パーセプション・オブ・パースペクティヴ……要するにおれの店ここはおれが寝泊まりする場所
気を失っていた?
タップリ六時間な
 マーガレットが腕時計に目をやると時計の針は午前四時を指していた
お店まだやっているの?
また飲む気か? 次は世話をしないぞ
違うの迷惑をかけたかもって思ったの
 チリトリで吐瀉物を集め終えたドナヒューは真っ黒いビニールのゴミ袋に吐瀉物を放り込み床に高濃度エタノール消毒液を吹きかけた
ここでゲロを吐いた奴はあんたが初めてじゃないでも気を失っている時じゃなくて良かったなジミ・ヘンドリックスになるところだった
ジミ……誰?
知らないのか? この世で最も偉大なギタリストちなみに歌手で一番偉大なのはダグだ
それあなたの感想?
客観的事実に基づいてと言いたいところだが音楽に客観なんてないからな我思うそれだけさ

 マーガレットはソファに寝転がりその間仏頂面のハイドパークを見ていたいつの間にか高濃度エタノール消毒液の臭いに慣れ同じようにソファに染みついた加齢臭に慣れた二時間ほど過ごした後ソファから起き上がった彼女はカウンターで食事するドナヒューに礼を言いフラつきながら外に出た

ロサンゼルスの生暖かい風が彼女の髪を撫でる風には微かに吐瀉物の臭いが混ざっていたがこれは彼女の喉の奥と鼻孔に残ったものだ旅行鞄を抱え肩を震わせる彼女は宇宙の孤児のようだったマーガレットは後悔していたリトルロックのアパートで客たちに文句を言われながらもウォルマートでレジを打つ平穏な生活が愛おしく感じていた彼女は自分が惨めな存在で愚かなことをしていると感じているこのままロサンゼルス空港までタクシーに乗り空港でキュンセルを待ちリトルロックのアパートに帰って仕事を探すことが頭を過ぎるがそれは振り出しに戻るどころか失うもののほうが多いマーガレットは既に後戻りすることができない状態になっている彼女は扉を開けるしかないとつぶやき歩き出す目的地はパーセプションのドラマーロビン・ミラーの自宅

 おもちゃのような路面電車に乗ったマーガレットは観光客気分を味わうことができた彼女は携帯電話のカメラ機能を記憶の代替品として大いに活用したこれらのブレたロバート・キャパ風に言えばちょっとピンぼけ状態のデータの集合体をリトルロックのアパートで閲覧する可能性は低いもののこれまでの冒険に満足しはじめてもいた彼女は膝の上に置いた紙コップに手を伸ばした紙コップの中にはコーヒーを基調とした泡立てた卵白とチョコレート長ったらしくて名前を口に出すことのできないメニューは神の名前と同じように正しく発音することができない

 アラメダ通りでバスを降りたマーガレットはポケットからドナヒューから受け取ったメモをとり出した

― リトルトーキョーサウス・ヒューイット・ストリート ♯三〇二 ―

 メモはマーガレットの手汗でふやけており油性インクも滲んでいるものの文字を読むことに差し障りはない歩き出したマーガレットはスシバーを市庁舎の前を通り過ぎたチョコレート色のアパートの前で彼女はもう一度メモを見たそれから見比べるように建物を見るベランダから飛び出た笹は日系人であることの誇示だろうが少々過剰に見えたマーガレットはアパートのエントランスに進みエレベーターのボタンを押したゆっくりとエレベーターが上昇している間彼女の心は奈落の底にあった彼女はこの突飛で狂ったような行動を恥じていた人見知りの彼女がバンドマンと出会うことなどこれまで一度もなくここまで来て一体何を話したらいいのか思いつくものもないそれでもロサンゼルスに来て早々バーで泥酔した挙句に昏倒したという事実は彼女に勇気というよりは無謀さを与えた
 エレベーターの扉が開かれた時彼女はこみ上げてきたものを飲み込んだマーガレットが踏み出した一歩は月面に刻まれた足跡と同じだけの価値があった三〇二とタイプされたドアをノックする音はいささか力が入りすぎていたが気にすることはないドアが開きパジャマ姿のくたびれた男が顔を出した。 〈パーセプション・オブ・パースペクティヴの天井でそっぽを向いていた男ロビン・ミラーミラーの顔は三〇年という時間が過ぎ去っただけでなく洗顔の際に古い角質と共に生きる意欲も洗い流してしまったようだった痩せ細ったミラーの髪はボサボサで頭髪には白いものが目立ったそれと同時に茶色い瞳の奥には怒りが渦巻いているようにも
ミラーさん?
あぁ……お前は? 何の用だ?
マーガレット・ホットフィールドですお話を聞きたくて
 ミラーはマーガレットをしげしげと見ながらあんたどこかで会わなかったか?
ロスに来たのは初めてよ
他人の空似ってやつか……あぁ気にしないでくれ独り言だからそれで聞きたい話っていうのはバンドの話か?
えぇまぁ
 ミラーは後頭部を掻き欠伸を噛み殺すと
起きたばかりなんだ立ち話もなんだから入ってくれ
 マーガレットは促されるままに部屋に入った小ぢんまりとした部屋はリトルロックのアパートと似ていた違うのは壁にかけられた扇子や盆栽が置かれていることぐらいだミラーはカップにコーヒーを注いでマーガレットに渡したがコーヒーはぬるかったマーガレットが言う
ご家族は?
 ミラーはソファに腰掛けぬるいコーヒーを半分ほど飲み女房がいるよ今は仕事に行っている
あなたのお仕事は?
ない
失業中?
半年前どうにも腹の具合が悪いからと医者に行ったら何時間もたらい回しにされた見たこともない妙な機械の中に閉じ込められたりした挙句の果てに、 〈あなたの寿命は一年ほどでしょう……頭が真っ白になったよ
病気?
そう病気ステージは一日に三回までしかやったことがなかったが身体のステージ四だと
 ミラーは自嘲気味に笑ったがマーガレットは愛想笑いを浮かべることをしなかった
私の母さんは一か月前に亡くなった
その様子だとあんまり仲が良くなかったのか?
仲が良くなかったというより気が合わなかったのかもずっと母一人子一人だったのに別々に暮らしていてろくに電話もしなかった
後悔しているのか?
多少
 喉を鳴らしたミラーがそれで何が聞きたい? ご覧の通りおれは死にかけだ明日にはこの世にいないかも知れないもしあんたがマスコミ関係の人間なら訃報記事を頼むよ
ごめんなさいマスコミ関係じゃないの
じゃあなんだ?
ファン……多分
ファンが家に来るなんて何年ぶりだろうな昔はどこにいてもいたホテルだろうが楽屋だろうが誰でも我が物顔で入って来た不思議に思うかも知れないがその頃はそれが当たり前だと思っていた今じゃあ考えられないことだがね当時のおれは間抜けだったその頃は金があったしイギリスフランスイタリアスペインアルゼンチンのコンサートホールで演奏したどこも満員だった女も沢山おれはおかしくなっていたスタジオに入り浸ってレコーディングをするアルバムをリリースする頃になるとフラフラのままツアーに出る休みなんてないスタジオとツアーそれだけバンドをやっていた頃おれは家を持っていたんだが自分の家のベッドで眠ったことさえなかった七〇年になるとダグはいつもビビアンとベッタリでジノはマンソン教団の奴らみたいな目でダグを見る始末だジノはダグに酔っていた尊敬とかそういうキレイなものじゃないでも愛しているとかそういうわけでもないとにかく酔っ払っているような感じだったおれもフーパーもジノのそういうところが理解できなかったしもっと言えば嫌いだったとはいえダグはいい奴だった気難しかったし死ぬ一年ぐらい前はドラッグ中毒がかなり酷くて手に負えなかったスタジオに来ないことはザラだったし来てもロクに歌えない状態だったそれでもいい詩を書いていたダグは精神状態が悪くなれば悪くなるほどいい詩を書いたそういう意味であいつは天才だったでも節操がなかった普通の奴はここで止めておこうとブレーキを踏むがダグはそうしなかったアルバムに収録できなかった曲はレコード会社の倉庫のどこかにあるだろうそれについておれは本当に間抜けだった曲のクレジットをいれなかったんだおれが書いた曲は幾つもあるのにクレジットされていないから金は一銭も入ってこないダグが死んだ直後メンバーで話し合った金は毎年等分にしようってなでもダグの親父やビビアンの両親従弟までもが口を出してきた挙句の果てに裁判だ結局おれは爪はじきフーパーは少し金を分けてもらったらしいが金額は言わなかったそういう取り決めなんだろうおれに残ったものは何もなかった思い出ぐらいは残ったが……それが何だ?
ドラムは?
やってないもうおれはレコードの中にしかいないそれはダグもだがね
 ミラーは立ち上がると引き出しから写真を一枚とり出してマーガレットに見せた四人で肩を組み笑顔を浮かべる姿は若者特有の過剰な自意識がフィルムに焼き付けられていたミラーが言う
デビューした頃の写真だその頃おれとフーパーは別のバンドで演奏していたんだがジノに凄い奴がいるから一緒に演奏しようと誘われた初めての顔合わせはステージだった何も決まっていなかった観客は酔っ払いばかりで喧嘩している奴もいた今でこそダグは大胆不敵で荒々しい奴だとされているが実際のダグは神経質で気のいい奴だこれはほとんど知られていない話だがダグは緊張症なんだステージに上がる時はガチガチだったあの時のステージは特に緊張していたんだろうマイクの前で口を開いた瞬間にゲロを吐いた観客たちは棒立ちだったよ度肝を抜かれたそんな感じだったひとしきり吐いたダグが上着の袖で口を拭くと譫言みたいなことをつぶやきはじめたボソボソした声は聴き取り辛かったしどんな意味なのかもよくわからなかったでも何かとんでもないものが目の前にあるっていうことはわかったしばらくするとダグは指でカウントしてロバート・ジョンソンのストップ・ブレーキング・ダウンを歌い始めたすべての方向性が決まったまるで最初からそういう形になっていたような気がした身震いしたよステージを下りるなりおれとフーパーはそれまでやっていたバンドのリーダーに電話をかけて脱退するとそのままダグと組むことにした
ジノ・フィルについて聞いてもいいかしら?
……ジノは計算高い奴だ売れると思ったんだろう実際売れた今になって思うことだがジノはダグを世界で一番のロッカーにしたかったんだでもダグは自由で気ままな奴だからあいつの思うようには動かなかったダグはビビアンとパリに行く直前にバンドを解散したいと言い出したジノは茫然自失泣きながらダグに縋りついた結局バンドは無期限の休止っていうことになったんだがマネージャーのサンシャスはそのことをすぐに発表しなかったそうこうしているうちにダグが死んで全部が終わった
 マーガレットが辛いわねと言うとミラーは写真を引き出しにしまい
別に何事も終わりがある
ジノは今どこに住んでいるの?
 ミラーはボサボサの髪を掻きサンタモニカで不動産屋をやっている住所は知らないが会社の名前はフィルモニカ電話帳で調べられる
 マーガレットが礼を言って立ち上がろうとするとミラーが言う
もしあんたがパーセプションについての記事を書きたくなったらクレジットしてくれあぁ金はいらないその頃には必要なくなっているだろうしな


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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