ベッドの上でマーガレット・ホットフィールドは寝返りを打った。マルセル・プルーストならば数項引き延ばして読者に知的満足を提供し、編集者に出版社に恥じない出だしであると納得させることができるだろう。あるいは、商業的に失敗の烙印を押される出だしかも知れない。
マーガレットは薄っすらと脂肪がついた脇腹を撫でた。寝間着に着替えてから既に二時間は経っているというのに下着の痕は消えず、痒みと共に残っている。マーガレットが血流の悪さを実感するようになったのは一か月前の母親の埋葬式を終えてから。彼女の母親、テレザは病床からロンドンの薔薇園での樹木葬を希望したが、ウォルマートのレジを打つだけのマーガレットにはテレザの希望を叶えることはできず、彼女は遠縁の、血が一滴、DNAの塩基配列が僅かに似通った叔父の勧めに従ってテレザをリトルロックの墓地に土葬した。マーガレットの明日は、すべての人々と同じように不確定なものだが、彼女にとって、それは恐るべきことのように感じられた。一人ぼっちになった彼女にはすべての人々と同じように縋るものが必要だった。
昼下がり、弁護士のエリック・コッパードという男がマーガレットのアパートを訪ねてきた。コッパードはフェンディのネクタイを顎の角度にぴったり当てはめるように締めており、背広は黒だが、よく見ると薄っすらと縦縞模様になっている。鞄はルイ・ヴィトンで、バニラの香りの女性向け香水を振りかけている、浪費癖のある軽薄な遊び人のステレオタイプのような男だった。コッパードは飲酒と性行為のために万年寝不足で、目の下のクマは刺青のようになっているが、健康カクテル、ビタミン注射を週に一回は接種しているので肌のツヤは良い。しかし、いささか良すぎることでかえって蝋人形のように見えた。コッパードは柔和な笑みを浮かべて「マーガレット・ホットフィールドさん?」と尋ね、マーガレットはどぎまぎしながらうなずいた。
「話をしたいんだ。中に入っていいかい?」
マーガレットは金曜日の夜から着たままの寝間着を見ると「一〇分待って」と言ってドアを閉めた。彼女は急いで寝室に向かい、床に転がったままの、爬虫類が皮膚の更新のために捨てていったようなジーンズを履き、皺が寄ったブラウスに袖を通した。急ぎ足で居間に向かうとテーブルを片付け、食器を流し台に置いた。ドアを開けたのは、それから一五分ほど経っていた。コッパードは階段に腰掛けながら煙草を吸っていた。高潔なバージニア葉にチョコレートの着香がされた煙草の湿った臭いにマーガレットは顔を顰めた。小さく咳払いしたマーガレットが「話って何?」と言うと、コッパードは立ち上がって尻のあたりを手ではらいながら「中で話そうよ。長い話になりそうなんだ」
「ここじゃあ、できないような話?」
「コーヒーがないとできそうにないよ」
観念したマーガレットは手をヒラつかせてドアを大きく開けた。コッパードは後ろに流した髪を丁寧に撫でると「砂糖はあるかな? 人工甘味料じゃなくて沖縄産の黒砂糖なら最高なんだけど」
「メープルシロップならある」
コッパードは片目を瞑り「ならいいや。ブラックで」と言って部屋に入って来た。マーガレットは混乱していた。昼下がりの日曜日に人が訪ねてきたのはいつのことだったか? 叔父と会ったのは教会だった。彼女は誰かの残滓を求めるように居間を見た。冷蔵庫に貼られた勤務表、台所の棚からぶら下がるショウジョウバエを捕らえるための粘着テープ、微かに悪臭を放つ手拭きタオル、窓辺に置かれた、小さな観葉植物。観葉植物の葉っぱには黄ばんだ染みができており、何らかの病気に罹患している。
「水道水じゃ駄目なのかしら」
独り言をつぶやいたマーガレットは恥ずかしさから口を手で塞いだ。振り返るとコッパードは椅子に腰掛けていた。マーガレットは棚からコーヒー缶をとり出し、湯を沸かした。コッパードはマーガレットの後ろ姿を見ながら「〈ASC〉について知っているかい?」と言った。
紙フィルターの上にコーヒーの粉を目分量で落としたマーガレットが
「何ですって?」
「〈ASC〉、『全米孤独委員会』の略。知らない?」
ポットのお湯がコーヒーの粉の上に円を描くように落とされていく。
「知らない」とマーガレット。口をすぼませたコッパードが
「一九七二年に発足した団体なんだ。初代委員長はオジー・マッケンジー。彼は日系人で本名はオジマ・ケンジ」
「冗談でしょ?」
「本当だよ。オジーは強迫観念めいたものに取り憑かれていた。二七歳だった彼は、自分がブライアン・ジョーンズと同じ年齢で死ぬと思い込んでいたんだ」
マーガレットはカップにコーヒーを注ぎ、コッパードの前に置いた。コッパードが首を捻り「ありがとう」と言った。マーガレットは椅子に腰掛け、コーヒーを一口飲み
「譫妄? どちらにせよ病気ね」
「そうだね。ぼくも彼は心を病んでいたと思うよ。ここからが面白いんだ。彼はドラッグはやらなかったそうだし、アルコールも少ししか飲まなかった。でも、彼は自分が自殺するんじゃないかという妄想に取り憑かれていた。もしかすると愛していたのかも。甘美な誘惑を前にして、彼は愛と真逆の行動に出た。それが〈ASC〉だったというわけ」
「意味がわからないわ」
「〈ASC〉の理念は《汝、孤独を愛せ》なんだ。加盟者は孤独癖のある人限定。でも、人ってあんまり孤独が過ぎると自殺しちゃうでしょ? だから、彼は自殺防止のためにネットワークを築いた。ネットワークっていっても、名前のない電話帳を作っただけ。掲載されている電話番号は加盟者に限られている。孤独癖のある人たちが、孤独が過ぎる人を思い留ませるためのネットワーク。完全に匿名で、名乗ることは規則上許されていない。もちろん、直接、会って話すなんてもっての外」
「あなたは、その〈ASC〉なの?」
手をヒラつかせたコッパードが「ぼくは除名されちゃったんだ」と言った。
「あなた、孤独を愛しているようには見えないものね」
うなずいたコッパードはコーヒーを一口飲み「砂糖がないと苦いや」と言った。それから、髪を撫でると「〈ASC〉には興味本位で加盟した。面白い話が聞けるかもってね。そこで、テレザと知り合った」
「母さんと?」
「うん。ある日突然、テレザから電話があった。〈ASC〉の加盟者は時間なんてお構いなしだからね。マーガレット、ダグラス・ハイドパークっていう名前を聞いたことあるかい?」
耳にしたことがある気はするものの、マーガレットは自身の記憶が誰かと混同しているように感じたので、彼女は首を横に振った。コッパードが言う。
「〈パーセプション〉っていうバンドの歌手だよ。七一年にパリのアパートで死んだんだ」
「あたし、音楽に詳しくないの」
「ふぅん。でも、テレザは好きだったみたい。ハイドパークがパリに行く直前、ロサンゼルスのライブハウス、〈ゴー・ゴー・ウィスキー〉でライブ……ギグって言うのかな? その後に彼と寝たんだって」
「昔、母さんが誰と寝たって気にしないわ」
「そのハイドパークが君の父親だとしても?」
父親、誰かが口にしたことを聞いたことがある程度の言葉。しかしマーガレットには《もっと遠くの》ものであり、まだ《クソッタレ》のほうが親しみを持てる言葉だった。
「ずっといなかったものだもの。今更、父親なんて必要ない」
言い慣れない言葉を口にしたことでマーガレットは居心地悪く感じていた。台所に目をやると、棚からぶら下がる粘着テープが風に揺れていた。コッパードが
「ぼくは弁護士なんだ。ロサンゼルスのね。専門は遺産相続」
「あなたの意図が見えてきたわね。透けて見えそう」
「君の下着みたいに?」
マーガレットがブラウスの胸元を見ると、掛け違いの隙間から白いブラジャーが露出していた。上体を捻って後ろを向いたマーガレットがボタンを直した。
「最低」
コッパードは片目と同じ側の口角を吊り上げ
「いつ指摘するか迷ったんだ。早々に言うのも気が引けたし」
マーガレットは苛ついた声で「それで、あなたは何が望みなの?」
「〈パーセプション〉はハイドパークが死んだことで解散したけれど、五枚のアルバムを出した。CDのセールス、有線チャンネルの放送料、カラオケ、楽譜……著作権はぼくの専門じゃないからこれぐらいにするけれど、とにかく、そういった諸々の権利。軽く見積もっても毎年一〇〇万ドルを下回ったことはない。その金が今までどこに流れているか知っているかい?」
「慈善事業じゃないんでしょうね」
「まぁ、ある意味では慈善事業かな。ハイドバークの家族、バンドメンバー、当時恋人だったビビアン・クロウっていう女の子の家族。ビビアンはハイドパークが死んでから半年後に彼と同じようにドラッグ中毒で死んだんだ。三〇年以上も前に死んだっていうのに、未だにハイドパークはこれだけの人たちを養っている。彼らに養われるだけの価値があるとは到底思えないよ。君は正当な権利者なんだから、権利を主張すべきだ。テレザを州立墓地なんていう辺鄙な場所じゃなくて、彼女が望んだ形にできるし、君の人生だって今よりもうんといいものになる。レジ打ちだけで一生が終わるなんてうんざりでしょ?」
時計の針が秒針を進める度に怒りが増幅されていくような気がした。コッパードがマスティフ犬のように嗅ぎまわり、マーガレットのあずかり知らないことを調べ上げているという事実は下着を見られたことよりも腹立たしく、ひどく侮辱されたような気がした。呼吸を整えた彼女は、できる限り平静を装い「帰って」と言った。コッパードは気に留めた様子はまるでなく、立ち上がるなり胸ポケットからとり出した名刺をテーブルに置いた。
〈アイアン・マウンテン法律事務所 弁護士 エリック・コッパード〉
事務所の電話番号には二重線が引かれており、その上にペンで携帯電話の番号が書かれていた。コッパードは「気が変わったら電話してよ」と言うなり、甘ったるいバニラの香りを残して出て行った。
夕暮れ時になってもマーガレットはぼんやりしたままだった。一日中眠ったような、徹夜明けのような、半覚醒の引き延ばされた時間の粒子が微細な埃のように積もっていく。台所のガラス窓からはオレンジ色の光が斜めに差し込み、黄ばみ、病んだ観葉植物を照らしていた。これまでのマーガレットの人生に一度も存在しなかった父親という不明瞭な像が奇妙な感情を与えた。彼女自身、これが孤独ゆえの気の迷いであることは理解していたが、記念堂の内部で静かに腰掛けるエイブラハム・リンカーンのように、まるで世界の中心に存在しているような感覚は彼女をこの上なくうっとりとさせた。
連載目次
- 一九七一年 パリ、ホテル・アンリ四世
- 二〇〇三年 アーカンソン州リトルロック
- リトルロック空港
- アーカンソン州リトルロック
- カリフォルニア州ロサンゼルス
- カリフォルニア州サンタモニカ
- カリフォルニア州ビバリーヒルズ
- アリゾナ州エルコ
- 一九七〇年カリフォルニア州ロサンゼルス / ミスター・ジョンソン。死んだよ
- 私たちは何者か?
- テキサス州ダラス
- アーカンソン州リトルロック
- カリフォルニア州ロサンゼルス
- カリフォルニア州ブエナパーク
- アーカンソン州リトルロック
- サタデー・ナイト・サタナイトショー
- 黒いブラックサバス
- カリフォルニア州スキッドロウ
- ブリテン・ボード・システム
- カリフォルニア州インペリアル郡 ~ジャック・トレモンド
- カリフォルニア州インペリアル郡 ~スティーヴ・ブルームデイ
- 裸の街
- 明敏で過敏なパーセプション (一九六六年 アップビート誌 九月号より)
- カリフォルニア州サンディエゴ ~ドーピーズ
- ピンクパープルの力学
- カリフォルニア州サクラメント
- 一九七〇年 コロラド州プエブロ
- ハート・オブ・グラス
- 屈折した知覚
- ミズーリ州セントルイス
- 離見の見
- 審理前会議
- オーディション
- 予備審問
- ハイエナたち
- デイライト
- アリゾナ州フェニックス
- 立証を終えて
- ブリテン・ボード・システムⅡ
- テキサス州エルパソ
- チップの用意はいいかい? ~TAKEⅠ
- チップの用意はいいかい? ~TAKEⅡ
- チップの用意はいいかい? ~TAKEⅢ
- テキサス州エルパソ ~天使のホンキートンク
- はかりごと
- 煙が目にしみる
- フロリダ州マイアミ
- モルフォゲンの輝き
- 暗号美学
- フロリダ州タイタスビル
- 螺旋のたたかい
- 名なしのパリ
- カリフォルニア州ロサンゼルス ~舌の差
- ネバダ州エルコ ~引き裂かれた休息
- 一九七一年 カリフォルニア州オランチャ
- ブリテン・ボード・システムⅢ
- イン・ゴッド・ウィ・トラスト
- 知覚の子
- 回転円卓
- 新しい知覚
- アップビート誌 編集長記〈新しいパーセプション、ライブ評〉
- ジャッキーに薔薇を
- ☆