イシュマエル・ノヴォーク

第2話: 二〇〇三年 アーカンソン州リトルロック

書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2021.08.06

ベッドの上でマーガレット・ホットフィールドは寝返りを打ったマルセル・プルーストならば数項引き延ばして読者に知的満足を提供し編集者に出版社に恥じない出だしであると納得させることができるだろうあるいは商業的に失敗の烙印を押される出だしかも知れない
 マーガレットは薄っすらと脂肪がついた脇腹を撫でた寝間着に着替えてから既に二時間は経っているというのに下着の痕は消えず痒みと共に残っているマーガレットが血流の悪さを実感するようになったのは一か月前の母親の埋葬式を終えてから彼女の母親テレザは病床からロンドンの薔薇園での樹木葬を希望したがウォルマートのレジを打つだけのマーガレットにはテレザの希望を叶えることはできず彼女は遠縁の血が一滴DNAの塩基配列が僅かに似通った叔父の勧めに従ってテレザをリトルロックの墓地に土葬したマーガレットの明日はすべての人々と同じように不確定なものだが彼女にとってそれは恐るべきことのように感じられた一人ぼっちになった彼女にはすべての人々と同じように縋るものが必要だった
 昼下がり弁護士のエリック・コッパードという男がマーガレットのアパートを訪ねてきたコッパードはフェンディのネクタイを顎の角度にぴったり当てはめるように締めており背広は黒だがよく見ると薄っすらと縦縞模様になっている鞄はルイ・ヴィトンでバニラの香りの女性向け香水を振りかけている浪費癖のある軽薄な遊び人のステレオタイプのような男だったコッパードは飲酒と性行為のために万年寝不足で目の下のクマは刺青のようになっているが健康カクテルビタミン注射を週に一回は接種しているので肌のツヤは良いしかしいささか良すぎることでかえって蝋人形のように見えたコッパードは柔和な笑みを浮かべてマーガレット・ホットフィールドさん?と尋ねマーガレットはどぎまぎしながらうなずいた
話をしたいんだ中に入っていいかい?
 マーガレットは金曜日の夜から着たままの寝間着を見ると一〇分待ってと言ってドアを閉めた彼女は急いで寝室に向かい床に転がったままの爬虫類が皮膚の更新のために捨てていったようなジーンズを履き皺が寄ったブラウスに袖を通した急ぎ足で居間に向かうとテーブルを片付け食器を流し台に置いたドアを開けたのはそれから一五分ほど経っていたコッパードは階段に腰掛けながら煙草を吸っていた高潔なバージニア葉にチョコレートの着香がされた煙草の湿った臭いにマーガレットは顔を顰めた小さく咳払いしたマーガレットが話って何?と言うとコッパードは立ち上がって尻のあたりを手ではらいながら中で話そうよ長い話になりそうなんだ
ここじゃあできないような話?
コーヒーがないとできそうにないよ
 観念したマーガレットは手をヒラつかせてドアを大きく開けたコッパードは後ろに流した髪を丁寧に撫でると砂糖はあるかな? 人工甘味料じゃなくて沖縄産の黒砂糖なら最高なんだけど
メープルシロップならある
 コッパードは片目を瞑りならいいやブラックでと言って部屋に入って来たマーガレットは混乱していた昼下がりの日曜日に人が訪ねてきたのはいつのことだったか? 叔父と会ったのは教会だった彼女は誰かの残滓を求めるように居間を見た冷蔵庫に貼られた勤務表台所の棚からぶら下がるショウジョウバエを捕らえるための粘着テープ微かに悪臭を放つ手拭きタオル窓辺に置かれた小さな観葉植物観葉植物の葉っぱには黄ばんだ染みができており何らかの病気に罹患している
水道水じゃ駄目なのかしら
 独り言をつぶやいたマーガレットは恥ずかしさから口を手で塞いだ振り返るとコッパードは椅子に腰掛けていたマーガレットは棚からコーヒー缶をとり出し湯を沸かしたコッパードはマーガレットの後ろ姿を見ながら 「〈ASCについて知っているかい?と言った
 紙フィルターの上にコーヒーの粉を目分量で落としたマーガレットが
何ですって?
「〈ASC〉、 『全米孤独委員会の略知らない?
 ポットのお湯がコーヒーの粉の上に円を描くように落とされていく
知らないとマーガレット口をすぼませたコッパードが
一九七二年に発足した団体なんだ初代委員長はオジー・マッケンジー彼は日系人で本名はオジマ・ケンジ
冗談でしょ?
本当だよオジーは強迫観念めいたものに取り憑かれていた二七歳だった彼は自分がブライアン・ジョーンズと同じ年齢で死ぬと思い込んでいたんだ
 マーガレットはカップにコーヒーを注ぎコッパードの前に置いたコッパードが首を捻りありがとうと言ったマーガレットは椅子に腰掛けコーヒーを一口飲み
譫妄? どちらにせよ病気ね
そうだねぼくも彼は心を病んでいたと思うよここからが面白いんだ彼はドラッグはやらなかったそうだしアルコールも少ししか飲まなかったでも彼は自分が自殺するんじゃないかという妄想に取り憑かれていたもしかすると愛していたのかも甘美な誘惑を前にして彼は愛と真逆の行動に出たそれがASCだったというわけ
意味がわからないわ
「〈ASCの理念は孤独を愛せなんだ加盟者は孤独癖のある人限定でも人ってあんまり孤独が過ぎると自殺しちゃうでしょ? だから彼は自殺防止のためにネットワークを築いたネットワークっていっても名前のない電話帳を作っただけ掲載されている電話番号は加盟者に限られている孤独癖のある人たちが孤独が過ぎる人を思い留ませるためのネットワーク完全に匿名で名乗ることは規則上許されていないもちろん直接会って話すなんてもっての外
あなたはそのASCなの?
 手をヒラつかせたコッパードがぼくは除名されちゃったんだと言った
あなた孤独を愛しているようには見えないものね
 うなずいたコッパードはコーヒーを一口飲み砂糖がないと苦いやと言ったそれから髪を撫でると 「〈ASCには興味本位で加盟した面白い話が聞けるかもってねそこでテレザと知り合った
母さんと?
うんある日突然テレザから電話があった。 〈ASCの加盟者は時間なんてお構いなしだからねマーガレットダグラス・ハイドパークっていう名前を聞いたことあるかい?
 耳にしたことがある気はするもののマーガレットは自身の記憶が誰かと混同しているように感じたので彼女は首を横に振ったコッパードが言う
「〈パーセプションっていうバンドの歌手だよ七一年にパリのアパートで死んだんだ
あたし音楽に詳しくないの
ふぅんでもテレザは好きだったみたいハイドパークがパリに行く直前ロサンゼルスのライブハウス、 〈ゴー・ゴー・ウィスキーでライブ……ギグって言うのかな? その後に彼と寝たんだって
母さんが誰と寝たって気にしないわ
そのハイドパークが君の父親だとしても?
 父親誰かが口にしたことを聞いたことがある程度の言葉しかしマーガレットにはもっと遠くのものでありまだクソッタレのほうが親しみを持てる言葉だった
ずっといなかったものだもの今更父親なんて必要ない
 言い慣れない言葉を口にしたことでマーガレットは居心地悪く感じていた台所に目をやると棚からぶら下がる粘着テープが風に揺れていたコッパードが
ぼくは弁護士なんだロサンゼルスのね専門は遺産相続
あなたの意図が見えてきたわね透けて見えそう
君の下着みたいに?
 マーガレットがブラウスの胸元を見ると掛け違いの隙間から白いブラジャーが露出していた上体を捻って後ろを向いたマーガレットがボタンを直した
最低
 コッパードは片目と同じ側の口角を吊り上げ
いつ指摘するか迷ったんだ早々に言うのも気が引けたし
 マーガレットは苛ついた声でそれであなたは何が望みなの?
「〈パーセプションはハイドパークが死んだことで解散したけれど五枚のアルバムを出したCDのセールス有線チャンネルの放送料カラオケ楽譜……著作権はぼくの専門じゃないからこれぐらいにするけれどとにかくそういった諸々の権利軽く見積もっても毎年一〇〇万ドルを下回ったことはないその金が今までどこに流れているか知っているかい?
慈善事業じゃないんでしょうね
まぁある意味では慈善事業かなハイドバークの家族バンドメンバー当時恋人だったビビアン・クロウっていう女の子の家族ビビアンはハイドパークが死んでから半年後に彼と同じようにドラッグ中毒で死んだんだ三〇年以上も前に死んだっていうのに未だにハイドパークはこれだけの人たちを養っている彼らに養われるだけの価値があるとは到底思えないよ君は正当な権利者なんだから権利を主張すべきだテレザを州立墓地なんていう辺鄙な場所じゃなくて彼女が望んだ形にできるし君の人生だって今よりもうんといいものになるレジ打ちだけで一生が終わるなんてうんざりでしょ?
 時計の針が秒針を進める度に怒りが増幅されていくような気がしたコッパードがマスティフ犬のように嗅ぎまわりマーガレットのあずかり知らないことを調べ上げているという事実は下着を見られたことよりも腹立たしくひどく侮辱されたような気がした呼吸を整えた彼女はできる限り平静を装い帰ってと言ったコッパードは気に留めた様子はまるでなく立ち上がるなり胸ポケットからとり出した名刺をテーブルに置いた

アイアン・マウンテン法律事務所 弁護士 エリック・コッパード

 事務所の電話番号には二重線が引かれておりその上にペンで携帯電話の番号が書かれていたコッパードは気が変わったら電話してよと言うなり甘ったるいバニラの香りを残して出て行った

 夕暮れ時になってもマーガレットはぼんやりしたままだった一日中眠ったような徹夜明けのような半覚醒の引き延ばされた時間の粒子が微細な埃のように積もっていく台所のガラス窓からはオレンジ色の光が斜めに差し込み黄ばみ病んだ観葉植物を照らしていたこれまでのマーガレットの人生に一度も存在しなかった父親という不明瞭な像が奇妙な感情を与えた彼女自身これが孤独ゆえの気の迷いであることは理解していたが記念堂の内部で静かに腰掛けるエイブラハム・リンカーンのようにまるで世界の中心に存在しているような感覚は彼女をこの上なくうっとりとさせた


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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