原稿を引き上げる旨を明確にしてもらえたのはよかった。 どっちつかずで困っていたので。 あるひとは一方的な決めつけで罵倒してよくて、 それが正しいこととされて、 別のあるひとは何度も相手の意思確認をしてことを進めても、 どのみち 「無礼」 だってことにされるのはなぜなんだろう。 批判ならロジックが必要だし、 単に好みではないとか、 自分に合わないとかいいたいのなら、 そう書けばいいだけのことだ。 ただの好みでしかないことを批判であるかのように装って、 でも裏づける理屈は提示せず (最初から存在しないので)、 書かなくともわかるのが当然だろうといいはなち、 一方でなんの論理も根拠もなく人格否定をしておきながら、 その人格否定を 「常識にとらわれない自由な思考」 とみなし、 無条件で受け入れない相手を悪しき常識にとらわれた 「無礼」 な輩呼ばわりする。 そういうのは子どもならむりのないことだけれど、 大人が本気でそのような態度をとるのは書き手としてどうなんだろうと困惑する。 少なくとも社会人としてはそれで通り、 そして頭上にクエスチョンマークが浮かんだ側が 「無礼」 な悪人とされるようだ。 筋の通らぬ侮辱や人格否定を賞賛しなければ罵倒されて、 こちらが悪いことにされる。 『ぼっちの帝国』 を出版したときにも、 それまでお世話になったひとに絡まれてそんな目にあったけれど、 そんなふうに悪意をぶつけられるばかりで、 味方はだれひとりなく、 やってきたことは一度として評価されたためしはない。 たとえば虫のいい期待を寄せられがちで、 魔法みたいにその期待を叶えないからといって、 いくらでも理不尽な人格否定を浴びせていいと思われている職業があったりする。 そういう差別が、 世間では常識に抗うかっこいい反逆者の表現だとされたりする。 そういう自己愛的を受け入れなかったからといって、 差別し人格否定していい対象として認定され、 理屈抜きで罵倒していいことにされたりする。 それをおかしいと考えるのは世間にしてみればわかりにくい。 だから受け入れられない。 一緒になって差別に加担するのがわかりやすく、 よしとされる。 子どもはわかりやすい考えを世間に吹き込まれて、 自分がその同じ差別を受ける側にならなければ、 いや受ける側になってさえも疑うことはない。 いろんな視点を教えるのは大人の義務なのだけれど、 だれも何も疑わないのが企業や国家にとっては都合がよく、 抗えば教えた大人も教わった子どもも生きづらくなるから、 その義務は放棄されがちだ。 世間に同調して二次加害をつづけたほうがうまく世の中を渡っていける。 うっかり他人と関わると理不尽な悪意をぶつけられるだけだ。 どれだけ配慮して取り決めを交わしてもそれが配慮なり取り決めであることを相手が認識していなければ無意味だし、 ひとはなんでも自分の都合のいいように解釈する。 味方のいないほうが悪いことになる。 それまでやりとりされていた文字化けについて書いたことを作品についての批判と誤解するような読み方や、 文意が読みとれなくとも質問しないで一方的に決めつけること、 質問したら 「無礼」 とされることも普通なのだとわかった。 書きたいひとは頬っておいても、 あるいは禁じられても書くし、 書かなければそれは本人が表面上どう主張したとしても実際には書きたくないだけで、 こちらが頼まないのに向こうから執筆を再開します、 締切を決めてくださいといってきたところでそれは嘘で、 ほんとうは書きたくないのにむりに書かされたかのように恨んでいて、 そして何かささいなことを口実にして相手が悪いことにして、 結局は書かない。 そういうものなのだとわかった。 自分が書く側の人間であり、 いやならいやだから書かないと伝える性格なので、 世間のひとたちの顔の使い分けを読み切れず、 つい信じてだまされてしまう。 悪口を広められてるんだろうなぁとは思うけれど、 どのみちおれには好意的に見てくれるひとなんて最初からいなかったわけだから、 まぁいいや。 あたかもこっちが悪いかのようにいわれたことの多くが、 最初から何度も向こうの意思を確認してやってきたことなのに。 そんな事実などなかったかにされる。 そういうところも含めて世渡りの技量があるほうが正しいことになる。 ずるく立ちまわるだけの才覚を持たぬ以上はだれの目にも触れぬよう息を潜めてやっていくしかない。 文字化けと作品を取り違えるほど文意がくみ取れなくても、 それで感情的になって一方的に人格否定してくるようなひとでも、 そそっかしいなと思うだけで、 こちらは別に悪感情を抱くことはないけれど、 でもそういうひとのほうが世間的にはちゃんとしたひととして評価される。 「わかりやすさ」 が大事ってことなんだろう。 よくわからない。 特定の職業のひとを理屈抜きで人格否定するような原稿をそのまま載せればよかったの? そんなのが常識を疑うことになるの? いちいち意図をいいわけしなければならないような作品が優れているというの? わからないよ。 ほんとうにわからない。 しかしまぁ、 どれだけ憎まれ蔑まれても、 他人からどう思われるかではなくて、 自分がどうなりたいかで考えたい。 自分はあのようにはならない。 悪いひとではなかった、 いいひとなんだと思うけど、 そそっかしいのと、 あとほんとうの意味では作家じゃなかったんだろう。 たしかに原稿を頼みたいほどいいものをお書きになっていたし、 お借りした作品も素晴らしかったし、 とても評価されていて、 これからもっと評価されるのだろうけれど、 でも人間の種類としては作家じゃなかった。 これまでの人生を振り返ってみると、 こちらから積極的に関わって、 いい結果になった経験ってひとつもないんだよな。 やはりサイコパスの家庭に生まれ育ったからだろう。 糞だめに生まれたら一生臭う。 遺伝的にも環境的にもおれは異常者なのだ。 迷惑をかけたくなければ人目に触れぬよう息を潜めることだ。 両親のようにはなりたくない。 もうすでに遅いけれど。
2021.
05.25Tue
(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
『D.I.Y.出版日誌』の次にはこれを読め!
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