ぱちっと指を鳴らしたらおれは消えて最初からいなかったことになる、 そうだったらいいのにと空想するがそもそもおれは病的な不器用で指を鳴らせない。 BookBaby から 「DIY Equals DOA」 なるメールが届いた。 まったくおっしゃるとおりプロの編集者が必要だ。 それがないからこんなことになっている。 しかし BookBaby は英語とスペイン語しか受け付けないんだな、 これが。 日本の業者は労せずして素人から巻き上げることしか考えてないから期待できない。 もちろん Amazon.co.jp にも期待できない。 期待できたところで金がない。 校正校閲に数十万、 編集者に数十万、 本来はどちらも不可欠だがだれも読まない本のために破産するわけにはいかない。 全面的な改稿でもないかぎり書いたものを読み返すことはないのだが (推敲さえしない)、 はじめて 『ぼっちの帝国』 を読み返したらふつうにいい話だった。 ただところどころ意味のとれない文章があって、 校正校閲はもとより編集者の手が入っていないのがあからさまだった。 せめて身近によくわかってくれる第一読者が必要だ。 だれともうまくやれないからひとりでやっているのだけれど、 やはりひとりでやれることには限度がある。 編集者を得るために新人賞に出すべきだった。 そうしていたら正当な評価を受けていたかもしれない。 ただ人格 OverDrive の連載機能があったから書けた話であるのは確かで、 いちど公開したからには新人賞という選択肢はなかった。 しょうがない。 書いたものが数十年ものあいだだれからも一度として評価されないという経験をすると売られている小説が読めなくなる。 自分の書いたものに価値がないのならおなじ、 もしくはそれ以下の水準にある小説にも価値を感じなくなるからだ。 たいていの本はおれの本よりつまらないので読めなくなる。 なのでよほど優れた小説でなければいいと公言することはない。 それに評価されているものは世渡りがうまかっただけだと知れてしまうので白々しく思えてなんにも関心をもつことができない。 おれが鼻持ちならない厭なやつでさえなければもうちょっと評価されていた気はする。 ソーシャルメディアだってそれなりに運用できていたろう。 CreateSpace で出版した本の情報を JPRO で修正したら反映された。 アルゴリズムが価格をつり上げる以外の問題、 内容紹介に仮名漢字が使えないとか商品画像が裏表紙になるとか、 はこれで解決した。 あとは.com のアカウントを.co.jp に統合できれば完璧なのだが、 問い合わせたところ祝日であるにもかかわらずすぐに返事があって、 「よく似ているけれど別のサイトだから不可能」 とのこと。 まぁしょうがない。 どのみち何をやっても売れないのだ。 ソーシャルメディアを眺めても書店の売れ筋ランキングを眺めてもエンターテインメントってのは日本社会のおれがもっとも嫌悪する部分で成り立ってるんだなと実感する。 なんもやれなくなる。 twitter 運用をずっと検討してきたのだけれどやはり関わらないに越したことはないな。 あまりに向いていない。 自分がもっとも嫌悪する世界でしかない。 肯定的な要素がひとつも見つからない。 そんなところで露出したところで望ましい読者は得られない。 とすると金を投じて広告するしかない。 これまでの結果を検討したら、 もっとも効果が実感できなかった Google 広告がもっともマシだったように思えてきた。 効果があったとまではいえない水準ではあるが。 しかしそのためにまた手間暇と大金を投じるかといえば、 そこまでして得られるのは失望だけでしかないのは経験上あまりに明らかだし、 このところ無駄金を使いすぎているので何もしない。 そうこうするうちに 15 ヶ月未使用だったためにアカウントが閉鎖されてしまった。 だれにも読まれないことがわかっている小説を書くことにも疑問がでてきた。 何にせよおれの人生はやるだけむだでしかない。 無能とはそういうものだ。 憎まれ蔑まれて育ち、 憎まれ蔑まれて生きてきて、 だれからも愛されたことがなく、 それで書いたものが読まれたり評価されたりするはずがない。 やればやるほど世間の迷惑になるだけだ。 別に他人を不快にしたくて生きているわけではない。 死ねないからには息を潜めているのがいい。 twitter でうまくやらなければ先がないことはわかっている。 おれは生まれてこの方ゲームというのをやったことがない。 楽しみというものをすべて取り上げられて育ち、 隠れてありつけるのは図書館の本だけで、 この歳になっていまさらゲームをやろうとは思わない。 やったことがないからやってもうまくやれないし、 うまくやれなければ惨めになり、 もし仮に奇跡でも起きてひとなみにうまくやれるようになったとしても虚しいだけで、 なんの楽しみも得られない。 そういうのは子ども時代にたしなんでおかなければ一生身につかない。 そして現代の社会生活にはゲームの才覚と技能がもっとも必要とされる。 twitter がいい例だ。 ある意味、 そこでうまくやれたらエンパワメントになるとは考えられる。 しかしどう考えても自分にとってもっとも合わない、 有害な場でしかない。 心身の健康を保つためには全力で遠ざからねばならない。 一方でそこでうまくやること抜きに出版は立ちゆかないし、 出版が立ちゆかなければ最低限の自己肯定感も得られない。 twitter のアルゴリズムと自分の性格特性をすりあわせると次の折衷策を守ればよさそうに思える。 そのいくつかは twitter のアルゴリズムの求めるところに結局は反していため凍結のリスクはあるがやむを得ない。 1、 政治的なことを含め、 なんらかの考えが感じとれるようなことは書かない (リスク: twitter では力のある者へ積極的に媚びなければならない)。 2、 論評はしない (リスク: twitter では 「共有」 が推奨される)。 3、 他人とかかわらない (リスク:かかわらなければ twitter の利益にならないのでスパム判定される)。 しかし自分の考えを書かずに何を書くというのか。 ゲーム的な対策を考えると肝心の投稿ができなくなる。 いかにも何かいっているふうで実際には何もいっていない、 という文言を大量に自動生成すればよいのだが、 いまのおれにその手段はない。 それをなんの考えもなしにごく自然に呼吸するかのように、 脊髄反射みたいにやれる健常者がふしぎでならない。 やっぱりソーシャルメディアでの自己宣伝は性に合わない。 辱しめられるだけだ。 ペイパーバックを配ってレビューを書いてもらうのはどうか、 とも考えたがまずだれにも読んでもらえまい。 迷惑がられるだけだ。 要するに人望がない。 鼻持ちならない厭なやつが何をやったところでうまくいかない。 ましな人間になりたいが、 そのためにはあらかじめ最初から立派な健常者でなければならない。 金を持っていなければ金持にはなれないしだれかに愛されていなければ世界に愛されることはない。 筋トレについても同様に絶望していたが十日で体脂肪率 19% (軽度の肥満) から 16% (標準) へ戻せた。 ジムに通いはじめたばかりの頃はひと月かかったので多少なりとも改善されたわけだ。 十年あまりのあいだこれだけ必死に努力してようやく健常者の体型に近づけただけ、 というのは健常者は生まれつきよほど筋力に恵まれているのだなと感じるが、 とはいえなんの成果も得られぬよりいい。 腕はまだ健常者より細い。 鬱で死にかけていた若い頃は二の腕が、 人差し指と親指でつくった輪で指先が触れるほどだった。 いまは懸垂もできるし 60kg のチェストプレスもできる (腰を痛めるまでは 80kg までいけた)。 虐待によって正常な発育を阻んだ両親が、 かつては憎かったがいまは哀れみと蔑みの念しかない。 そして自分もまた遺伝と環境から、 あの連中と大差ないのを知っている。 必死に努力したところでこのざまだ。 死ぬまでにそう遠くへは行けまいが、 しかし努力せずに死にたくはない。 神の前に立たされたとき連中とはちがうと胸を張りたい。 少なくともおれは努力したし結婚もせず子どももつくらなかったと。 そう考えると出版にしても健常者にはほど遠いにせよ努力した意味はあった。 十年前は WordPress の組版をあれこれ試す技能はなかったし装画もロゴ作成もずっとひどかったのだ。 ISBN さえ持たなかったしペイパーバックの出版など考えもしなかった。 だれにも評価されないしゴミ以下の結果しか残せていないが他人によく思われるために生きているのではない。 極端な話、 神だって鼻をほじりながら 「で?」 とのたまうかもしれないし、 比喩的な意味においてはそれが現状なのだが、 しかし⋯⋯いやもう何もわからない。 やはり鼻持ちならぬ厭なやつである時点で死ぬべきなのだろうし、 神の前に立つ権利さえないのかもしれない。 そして病的に不器用すぎて後腐れなくきれいに自死するだけの能力すら持ち合わせないのだ。
2021.
05.09Sun
(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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