ペリフェラル・ボディーズ
第16話: オールド・マン
1970s El Paso
こんなことを言うと決まって鼻で笑われるが、 人はどんどん悪くなっている。 人殺し、 泥棒、 麻薬……昔はそんなことは滅多になかった。 おれが初めて追跡した時は、 レンジャー総動員で荒野を駆け回った。 たった一人の泥棒のためにだぞ? 最後はパトロール隊まで加わった。
昔、 悪いこと、 やってはいけないことは何だと子どもに聞けば 〈道に唾を吐くな〉 と答えが決まっていた。 今はどうだ? きっと、 レイプか麻薬だろう。 人は悪くなっている。 悪くなる速度はどんどん上がっている。 この調子だと、 一〇年後はどうなるんだろうな。 おそろしく思うよ。 エミールをレンジャーに推薦しなかったのは、 そういうことに巻き込まれて欲しくなかったからだ。 あぁいうものは、 できるだけ見ないほうがいい。 長く見ていると、 おれみたいになる。
エミールが将来は軍人になりたいと言ったことがある。 おれは反対した。 どこか遠い国で死んで欲しくなかったんだ。 一度だけエミールを殴ったことがある。 あいつが同い年の娘を道端で罵ったと聞いからだ。 おれのことを女房に気を使いすぎていると言う奴がいるのは知っている。 実際、 おれにそう言った奴もいる。 知ったことか。 初めて会った日から、 女房が死ぬまで殴ったことはない。 女房には、 あれをしろと命令したこともない。 「これをやってくれ」 とは言ったがね。 お願いすることを忘れたことはない。 おれの親父はおふくろをしょっちゅう殴った。 その度、 おふくろは台所で泣くんだ。 いたたまれなかったよ。 だから、 おれは親父みたいには絶対にならないと誓った。 実際、 ならなかった。 話を戻そう。 エミールを殴ったのは、 あいつがやってはいけないことをやったからだ。 やってはいけないこと。 道端で唾を吐かない、 人殺しをしない、 麻薬を吸わない。 泥棒をしない。 道端で同い年の娘を罵らない……人は、 やってはいけないことを簡単に踏み越えてしまう。 そういう連中を嫌というほど見てきた。 どうして、 そんなことをやったんだ? と尋ねても、 連中は答えることができない。 やってはいけないことを知らないからだ。 何を聞いても、 連中は小僧みたいに俯いて、 下を向いているだけ。 恥ずかしい奴らだ。 もし、 おれのことを少しでも理解しているのなら、 エミールは金輪際、 あんなことはしないだろう。 そうあって欲しいと思う。
エミールにはおれが知っている全部を教えてやった。 たった一人で追跡する方法、 野営について、 知らない場所でも居場所がすぐにわかる方法。 銃の扱いも教えた。 あいつは今のおれよりも早撃ちだろう。 だが、 撃ち合いになれば別だ。 撃ち合いは命の奪い合いだ。 相手の呼吸、 表情、 筋肉の動き、 風に揺れている服、 一瞬のことが何時間にも感じられる。 あの瞬間は何度経験しても肝を冷やす。 楽しいとか、 血沸き肉躍るなんて一度も思ったことはない。 こわくてたまらない。 それでも、 目を背ければ死が待っている。 死ぬこと……どんなに丁寧に磨き上げ、 刻み込んだものも一瞬で崩れ去る。 何を言っても聞き入れてもらえない。 どんなに敬虔であっても、 どんなに抜け目なく、 金持ちであっても、 等しく刈り取られてしまう。
最近、 死んだあとのことを考える。 昔なら笑い飛ばしていたようなことだ。 ビールを飲んで、 居間でテレビを観ながら笑って、 熱いシャワーを浴びたらベッドに入る。 女房が寝息を立てるまで顔を眺めていれば、 そんなことは考えもしなかった。 色々と考えることがある。 たとえば、 女房にもっと言うべきことがあった。 できる限りのことは言ったし、 したつもりだ。 でも、 足りない。 おれは出し惜しんだ。 明日があるからと知らん顔をした。 とんでもない間違いだ。
夕べ、 夢を見た。 夢の中のおれは、 うんと若かった。 女房がエミールを抱っこしていた。 エミールは布に包まれていて、 まん丸い顔だけが出ていた。 おれはぷっくり膨れたエミールの頬っぺたを指で突くと遠くから声が聞こえた。 聞き覚えのある声、 女房の親父、 ロブの声だ。 知っての通り、 おれは余所者だ。 本当ならレンジャーになる資格なんてない。 一生、 ロングドライブで終わっていただろう。 それはそれで良かったかも知れないがね。 夢の中で、 ロブがおれを呼んだ。 地平線に陽が沈んで、 ロブは赤黒い太陽を背にしていた。 おれは目を細めたが、 黒い線が揺れているだけ。 ふと、 おれもあそこに行くんだと思った。