杜 昌彦

GONZO

第22話: 年上の女

書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2021.02.15

ジャージにひっつめ運動靴のその女は紐を短くたぐり寄せつつ絵を覗き込んだ喜色満面の犬は前肢で空を掻いた見物していいかと女に問われ好きにすればとミコトは動揺を隠して答えたふたりと一匹が頭を寄せ合い色鉛筆を走らす手元に視線が集中する水面にきらめく秋の陽光微風に乗って往来から届く音川のせせらぎ犬の息遣いミコトはペットボトルの水で筆を湿しさらに無言の時間が過ぎたやがて彼は手を止めスケッチブックを目の高さにかざした女が感嘆したように深い息を吐いた完成かと尋ねられミコトは肯いた護身用に持ち歩いていたカッターで絵を切り取りあげるといって女に手渡したいいのやったと女は白い歯を見せて笑った犬は小躍りして尻尾を振った何度も振り返って手を振る女と犬にミコトはぎこちなく手を振り返した生まれて初めて他人に気を遣ったその事実のほうが気恥ずかしかった
 次の日にも女と犬は現れミコトの作業を背後で鑑賞した毎日のように同じ場所同じ時刻に顔を合わせる互いの名前すら知らぬのに馴染みになった筆なり鉛筆なりを走らせていると彼らが立ち止まり描き終わるまで背後からじっと見つめる出来映えに納得がゆけば彼らにプレゼントしたジョギング中に荷物を増やしては不便だろうからどこかで棄てるのかもしれないがだとしてもミコトは構わなかった受けとってもらえるのが嬉しかったしボットしかフォロワーのいないソーシャルメディアに投稿するのと同じでこの世界に生きた証拠が一度でもだれかの手に渡っただけで安心できた雨の日にはアパートで識閾下から洩れ出たかのような暗い抽象画を描きながらミコトは彼らに逢えぬのを寂しく思ったそんな経験は初めてだった
 週末の居酒屋のいつもの隅の席でゴンゾに怪訝そうに見られた何よ僕の顔に何かついてると問うといつまでこの暮らしが続くのか尋ねなくなったななんかいいことでもあったかと訊き返された別にと応じたなおもゴンゾはまじまじとミコトを見つめそれから短く溜息をついてまぁどうでもいいけどな油断するなよと釘を刺した家の事情は知らんが爺さんには居場所がばれてる何か思惑があって警察に伏せてるんだ爺さんってとミコトは驚いて尋ねたあんたの爺さんだよ姫川宗一郎会長とゴンゾは呆れた顔で少し苛立ったように答えたおれはボスを通じてあのじじいに雇われたんだ知らなかったのか警察の特殊部隊が家の使用人を皆殺しにしてまで狙うような秘密を自分が知っているとは思えないのと同様に初対面で馘首したはずの家庭教師に執着される理由がミコトにはわからなかったし考えたことすらなかった襲う機会は何度でもあったはずだから人間として好意を抱かれているのだろうと漠然と思っていた家の金に護られていた事実に改めて気づかされて彼は不快になったするとあのギターの金も祖父のものなのだろうか吝嗇家の祖父がそんな真似をするとも思えないが……
 細谷はと口走ってからミコトは恐怖を気取られたと思ったさあな警察に嗅ぎつけられてないってことはあいつには黙ってるんだろうどうもあいつは爺さんとうまくいってないみたいだな息子のほうあんたの父ちゃんとはべったりみたいだがミコトは料理に視線を落として肯いたゴンゾはそれを見て少し意外そうな顔をしながらふんやっぱりそうかあいつはおれを雇うのに反対だったようだ報されてもいなかったみたいで苦情をいいにきたよといったそれでどうしたのとミコトは顔を上げて尋ねたなんだ気になるのか当然こっちから願い下げだといってやったさそれを聞いてミコトは元気を取り戻しなのに諦めきれずに僕に付きまとってるんだねと鬼の首を取ったように傲慢に笑った冗談はその性格だけにしとけよとゴンゾはうんざりした顔で地酒を啜った餓鬼の世話なんざ柄じゃねえが興味が湧いたんだよあんただって答えを知りたいだろうがそう問われるとミコトは目の前の社会病質者から逃げ出さぬ理由もそこにあると認めざるを得なかった毒をもって毒を制す答えを解き明かしてくれる人間がいるとしたらこの肥った老犬をおいてほかにないように思われた
 平日も土日もいつも同じ時間に逢うけど何してるの翌日ミコトは女に思いきって話しかけた顔を直視する勇気がなくて景色と筆先を見つめたままだった同じ場所で同じ景色を描きつづけて飽きもせぬ自分が不思議だったしそれに付き合う女もじっと大人しく座っている犬も不思議だった犬の散歩中に絵を見てるのよと女は答え小さく吼えた犬の頭を撫でながらあなたもいつも同じ時間ねと付け加えたふざけてるのまさかあなたの絵が好きだからこうしてるのそうじゃなくて職業だよ大人なのにいつも昼間からここにいる女は吹き出した大人を夜行性の獣か幽霊とでも思っているのどうして毎日ここにいるか訊かないのとミコトは尋ねた絵を描くためでしょと女は答えたそうだけど普通は学校へ行くものだよそうなの? あたしはあまり行かなかったからわからないあなたは遠隔授業とかそういうのだと思ってたそれでよく大人になれたねあたしもそう思うアクセサリーをつくってネットや置いてくれる店で売ってるの日に八時間は働いているし税金もちゃんと納めているわアクセサリー? そうよ見に来る? と女は尋ねると立ち上がり犬を連れてさっさと歩き出したついてくるものと信じきっているようだったミコトは慌てて絵の道具を片づけてあとを追った女と犬は普段から鍛えているだけあって足が速かった背の高い女だとミコトは思った
 戦前からあるだろう民家を改築した平屋だったアパートやマンションの谷間に建っているにしては広い敷地を占めていたが板塀で囲われた庭はないに等しい狭さで隣のビルの室外機が間近で唸りをあげていた玄関の土間に犬小屋があり女はそこに紐を固定した犬は満足げに小屋に収まって座り込んだ土間は流しやガス台湯沸かし器があり台所も兼ねているようだった建物は天井が高くこれからの季節は寒かろうと思えた靴は脱がなくていいといわれた案の定冬に床が冷たすぎるからだそうだ自分では描けないから描けるひとに憧れるのだと女は家を案内しながら説明した芸術家なのに? とミコトは呆れて尋ねた芸術じゃないのよあくまで仕事昔付き合っていたひとがアクセサリー作家でね手伝ううちにあたしの商品のほうが売れるようになったそれでそのひととはうまくいかなくなって別れたんだけど商売のほうはこの家のこともあるしいまさらやめられなくなっちゃって好きで描いているあなたを尊敬するわあたしのはただの仕事で何の思い入れもないから
 最初にあげた絵が額装されて廊下に飾られていた女はそのことに触れなかったしミコトも気づかぬふりをした金が目当てではなかろうがこの女もまた自分の容姿に関心を抱いたのだろうかと考えると不安になったほらここが仕事場と通されたのは板張りのテーブルと椅子しかない部屋だった大きなテーブルにはビーズやら革の切れ端やら金具やらがガラス瓶に詰められて並んでいたニッパーや半田ごてのような道具や封筒も散乱していたあげた絵の大半が額装されて壁に飾られていた女が元恋人の性別を口にしなかったことにミコトは思い当たった彼がここにいることを知る人間は自分とこの女のほかにだれもいない家族や警察はおろかゴンゾでさえこの女と逢っていることは知らない気に入られたのはわかっていたが警戒すべきかどうかは判断つかなかった彼自身の装いだってただそうしたいという以上の意味はない
 ミコトは完成品とおぼしきビーズ飾りをつまみ上げて見つめた気に入ったならあげるよと女はいったミコトは驚いて振り向いた絵のお礼と女はいいねえ次はあたしを描いてよお金は払うからさと急に思いついたようにいいだした道具は前の住人が置いていったのを使ってだいたいは揃ってると思う足りなければ買うからいってなるほど壁際に画架も既製品のキャンバスもあったが棚の絵具はどれも石のように固まっていた女は陽当たりのいい窓際に画架を運びここで描くといいわと決めつけて丸椅子に座って髪をほどいて整え膝に手をついて背筋を伸ばし澄ました顔でミコトを見つめた困惑するミコトに服脱いだほうがいい? と女は提案した描かないよとミコトは警戒して答えたなぜと女は尋ね風景より人間のほうがきっとおもしろいよといい募った急にいわれても描けないよとミコトは答えたなぜと女はまた問うたキャンバスに下地を塗って乾かすだけで二日はかかるとミコトは弁解したふーんそういうもんなのねじゃお願いお茶を淹れてくるわと女は告げて立ち上がり作業場を出て行った
 なんだこれとミコトは思ったしかし引き受けるつもりなどなくとも目の前に画材があれば気になる下地材を検分しどうにか使えそうだと判断した刷毛は絵具で固まっていることもなく紙やすりは女の仕事道具を使えばよさそうだったティーポットとカップを手に戻ってきた女はジーンズと白いブラウスに着替えていた相変わらず化粧はしていないハーブティの薬臭い匂いがした金を拒絶すると女は不機嫌になった労働に対価は必要だし無償だからといい加減な仕事をされても困るというそもそも描くつもりなどないとはもはやいいだせなかった営業や納品で家を空けることもあるからと合鍵まで渡された
 初日の作業を終えて家を出たときには陽が沈みかけていた手にはビーズ飾りがあったどうしてそんな羽目になったのかミコトにはわからなかった素直に通うつもりになっている自分が信じられなかった平和な日々がつづきすぎて実家が特殊部隊に襲撃されたことを忘れかけていた幼い頃から面倒を見てもらっていた世話係が殺されたことも男たちに組み伏せられ間一髪で家庭教師に救出されたことも累々たる屍体を乗り越えて生まれ育った屋敷をあとにしたことも忘れかけていた寂れたホテルで二名の人間を殺害したこともそのときの銃の重みや反動も銃撃戦の硝煙も血の臭いも忘れかけていたワイドショーやソーシャルメディアの騒ぎは遠い他人事のようだった新しい暮らしに適応した新しい自分にとって姫川工業の誘拐された御曹司は真実味に乏しい過去の亡霊でしかなかったその亡霊から逃れきれていないことを忘れかけていただからアパートの手前の角で男に声をかけられたときもそれが意味するところをすぐには理解できなかった


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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