杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第313回: プライスマッチした

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2021.
02.13Sat

プライスマッチした

わかってくれる人にだけ届けばいいなんて思ってなくて、むしろ別な人間になってソーシャルに最適化されたい。その技術を身につけたい。別な人間にはなれないから苦しいのであって、であれば他人を視界から排除して自己満足を目指さねばならない。でも無価値であるからにはそれも不可能だ。完全に他者を視界から排除するか、別な人間になって社会に同一化するか、どちらかでなければならない。どちらも不可能だ。選ぶなら前者だけれど、どうしても視界に入るし努力の絶対評価だけで自己肯定感を得ることは不可能だ。それだと病的な自己愛にしかならない。他者の評価によって肯定されることは正常さにおいてどうしても必要だ。かといって自己肯定に他者の評価を含めることは努力でコントロールできないものを前提とすることになり、それはそれで不健全だ。他者は異常であり無能であるところのわたしを絶対に肯定しない。それは正当な評価であって、しかしそれを受け入れればわたしは死ぬしかない。だから別人にならねばならないが、それは不可能だ。たとえば運動選手だってだれも見ていないところで世界新記録を出したってそれで自分を肯定することはできないと思うんだよ。彼らの場合はそれでキャリアを築いて食べていかねばならないという事情もあるだろうけれど。そんなことをずっと考えていて、ふと気づいた。わたしは自己肯定感と自己同一性を混同しているのではないか。それぞれ別で相容れない。自己肯定感のためには無能を自覚せぬために、他者を視界から排除し、能力が問われるようなことは避けるのがよい。具体的には書いて出版するのはやめ、読んで感想を書いたり、ウェブサイトを弄ったりすることだけをひたすらやる。好きなものを買って楽しむのもいい。徹頭徹尾それだけだ。ところがそれだけをやっていては自分がだれだかわからなくなる。わたしは書いて出版する人間なので、わたしがわたしであるためには書いて出版せねばならない。書くことにおいても無能である上に publish すなわち公にすることは社会と関わることであり、そうすれば他者の物差しで無能を裁かれることになる。わたしがありえないまでの無能であり異常者であるからには、わたしがわたしであるためには自己肯定感は必然的に貶められる。別な人間、すなわち有能な健常者になれたらそれがいちばん望むことではあるのだけれど、そんな夢はかなわない。わたしはどこまでいってもわたしでしかない。であれば、わたしがわたしである苦痛には耐えねばならないのだろう。無能のきちがいに生まれついたが運のつきだ。自分であることは貶められることで、それと自己肯定感とは別の場に求めねばならない。わたしは無能であり、publish とは社会と関わることだ。無能が人前に出ればどうなるか明らかだ。それは生きてゆく上で避けられないことであり、耐えるしかないことだ。それとは別の場所、すなわち読書で自己肯定感を得るのがよい。失明する前に読みたかった本を読んでおこう。


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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