イシュマエル・ノヴォーク

イシュマエル・ノヴォーク短編集

第13話: パカー

イシュマエル・ノヴォーク書いた人: イシュマエル・ノヴォーク, 投稿日時: 2021.02.12

 五階建ての階段を最上階まで上ったラスターは息を切らせていた。隣に立つルームメイトで、トラックメイカーとしてはラスターの先輩であるワシリー・スタフスキーが呆れたような顔で
「運動不足だな」
 ラスターは深呼吸すると
「ジョギングしたほうがいいかな?」
「それ以前だ。でも、人には必要なことと、そうでもないことがあるしな」
「ぼくにジョギングは必要ない?」
 首を横に振ったワシリーが「それよりも、もっと重要なことがあるだろう?」と言ってドアをノックした。ドアを開けたのはタンクトップ姿に頭にバンダナを巻いたアフロ・アメリカンの青年だった。青年はワシリーと握手するとラスターを見て
「前に言っていた奴か?」
「そうさ。ラスター・ライカーガス。うんと腕がいい。これから伸びるぜ」
 青年はラスターをしげしげと見て「よろしくな」と言って手を伸ばした。ワシリーはラスターの背中を叩き
「さぁ、ハードルを飛び越えようぜ」

 部屋に入るなりラスターは殺風景な部屋を見渡した。家具と呼べるものはU字型の来客用ソファと業務用机ぐらいで、机の上にはダイヤル式の電話と携帯電話が三つ転がっていた。ラスターはソファをどうやってあの狭い階段を通って運び込んだのか、知恵の輪を解くように考えていると水洗式のトイレが流れる音が聞こえた。トイレのドアが開き、中から黒いTシャツを着た、どんなに小さく見積もっても六フィート半はあるアフロ・アメリカンの中年が出てきた。中年は濡れた手をズボンで拭くと手を差し出した。手を握ったラスターが
「ラスター・ライカーガスです」
「いい腕だそうだな」
 手を離した中年が「コービー・グルーサックだ。契約する前に、まずはお前の腕を見せてくれ。信頼を築くには、お互い隠し事がないほうがいいからな」
「グルーサックさんは……」
「コービーでいい」
「コービーには何か隠し事が?」
 グルーサックは口をサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の外壁のように開けて笑った。
「いいや。お前が見て感じた通りだ」
「第一印象?」
 掌をターンテーブルのように回したグルーサックが
「そういう言い方もあるな。それで、金曜までにトラックを三〇用意しろ。もちろん、おれが気に入るようなやつだ。別に全部、おれが気に入るようなものを用意しろとは言わない。お前の腕を知りたい。これから伸びるのか、そうじゃないのか」
「やります」
 グルーサックは椅子に腰掛け
「いい返事だ。期待している。聞いた話だと、お前はイングルウッドの出身なんだってな」
「えぇ」
「どうしてニューヨークに? ロスだっていい所だ」
 ラスターは視線を上に向けた。天井にはシュレッダーで裁断された書類のような繊維が見えた。ラスターが「自分を試したかったんです」
「念願叶ったな。期待しているぞ」

 部屋を出た二人は黙ったまま階段を下りた。通りに出るとようやくワシリーが口を開いた。
「コービーに気に入られたな」
「そう?」
「おれの時は口もきいてもらえなかったからな」
「でも、契約した」
「首の皮一枚さ。時々思うんだ。もし、おれがお前みたいに黒かったらってな」
「それ人種差別だよ」
「そうか? もし、お前がここで手を挙げたとして、タクシーが停まるのは何台目だ? お互い、思うようにいかないってところだ」
「ジョークっていうことにしておくよ」
「そういうことにしておいてくれ」
「そういえば、ドアマンは誰だったの?」
 ワシリーは頭を掻くと通りを挟んだ向かいの古着屋のショーウィンドウを見ながら
「ラッパーのクローフィッシュだよ。いい奴だし、いい詩を書く。コービーも認めているし、間違いなく才能はあるんだが、誰かと組むのが苦手なんだ。おれも一度、組んでみたことがあったが駄目だった。案外、お前となら馬が合うかもな」
「どうだろう? まずはトラックを作らなきゃ。夜に仕事があるから少しでも進めたい」
「その意気だ。今は掃除人のお前だが、半年後には角ばった家に住んでプールサイドでパーティーしているかもな」
「そういうのはいいよ。ぼくには似合いそうにないし。ワシリーは好きなの?」
 顎に手をやったワシリーが「そんな生活、おかしくなっちまうだけさ」

 アパートに戻るなりラスターは自室に向かい、机の上にあるノートパソコンをエンターキーで叩き起こした。ドットで組まれた黄色い大口の怪物が消え、見慣れた波形が浮かび上がった。手始めにラスターはお気に入りのトラックが収録されたフォルダを漁りはじめた。小一時間ほど、過去のフォルダを漁ったラスターは大きな溜息をついた。どれも浮ついていて、芯がなく、メッセージに乏しいように感じられた。思い切って一から作ることは困難だったが、グルーサックに言った自身の言葉を咽喉の奥で繰り返し、新しいフォルダを作成した。

 二一時。ラスターは閉店したスーパーマーケットの清掃をしていた。目に突き刺すような臭いの消毒薬をしみ込ませたモップで床を拭きながらトラックについて考える。ふと目についたのは棚の上に理路整然と積まれたスープ缶。大量消費時代のアンチテーゼとでも言いたげな物言わぬオブジェ。ラスターが履くゴム靴の底が鳴る。冷媒にフロンを使用した旧式の気化圧縮型冷蔵庫の排気口からは低音が漏れている。ガラス張りの冷蔵庫の中では飛び出した断熱材が冷気に揺られていた。

 明け方、ラスターがアパートに戻ると、居間でワシリーが朝食を終えたところだった。ワシリーはラスターが買った牛乳を飲みながら紙巻煙草を吸っていた。ラスターは小さく溜息をつくと「ただいま」と言って自室に向かった。ラスターは肘掛け椅子に腰を下ろし、ノートパソコンの電源を入れてヘッドフォンを装着した。アビッド・テクノロジー社製デジタル・オーディオ・ワークステーション用ソフト、プロトゥールスが起動し、ノートパソコンのドライブが爪で引っ掻いたような音を立てる。大量消費、複製、享楽。C音のみのベースラインは薄っすらと残響を残しつつ雨垂れのように打たれていく。玩具のようなパッドを叩き、リズムの打点を滑らせる。窓辺に置いたコンデンサーマイクは都市が脈打つ音を捉える。奇声、クラクション、壁の中をつたうパイプの中を流れる温水。窓を開け放ったままたどたどしく弾くツェルニーの練習曲。ワシリーが開けたトイレのドア、ノートパソコンの冷却用ファンが回るホワイトノイズ、ラスターの心音。

 約束の日、イーストハーレムの狭い階段を上るラスターは不安でいっぱいだった。運動不足以外の理由で心拍数が上がっていた。リュックサックの中にはノートパソコンが入っている。これは音源を焼き付けたCDRが動作しないことがあるかも知れないから念のためと自分に言い聞かせたもので、いわば保険であり、お守り、あるいはフェティッシュだった。ドアをノックすると先日のクローフィッシュがドアを開けた。相変わらず頭にバンダナを巻いていた。ラスターが
「やぁ、グルーサックさんに会いに来たんだ」
 クローフィッシュが首を傾げて「入れ」と言った。

 デッキがCDRを飲み込み、グルーサックは机に片肘をついたまま耳を澄ませている。ラスターはU字型ソファに腰掛け、グルーサックが口を開くのを待っている。向かいに座るクローフィッシュは左の握り拳を右の人差し指でスネアドラムに合わせるように突いていた。誰も踊らない部屋の中で聴かれるダンス音楽。
 三〇分ほど経ち、音源を聴き終えたグルーサックは机の引き出しを開けて書類を引っ張り出した。
「ワシリーの言った通り、いい腕だ。これにサインしたらウチの一員になる。だが、その前に約束だ。ドラッグをやるな。これから嫌というほど見るだろうから興味を引くかも知れんが、絶対にやるな。それから、ストリートの連中と付き合うな。ウチはそういう連中を喜ばせるためにやっているわけじゃない。クリーンなやり方、正攻法で戦え。それから、地方ラジオ局に媚びを売るようなものを作るな。もし、こういうものだったら売れると言われても無視しろ。約束できるか?」
 ラスターの脳裏にイングルウッドで暮らしている兄たちの顔が過ぎった。大き目のシャツを着て、銀製ネックレスを何重にも巻き親しげに笑う兄たちの顔が。
 ラスターが言う。
「できます」
 笑顔を浮かべたグルーサックがペンを差し出した。ラスターがサインするとグルーサックは大袈裟に拍手して「まずは一歩だ。この一歩がどれだけ大きなものになるのかは今後のお前次第だぞ」

 サインを終えたラスターは疲れ切っていた。さっさとアパートに戻り、ベッドに横になりたかった。グルーサックは立ち上がると肩を回し
「そろそろ時間だ」
「時間って?」
「正しく生きるためには色々と手を尽くさなきゃならんってことだ」
 グルーサックが歩き出し、ラスターは後を追った。階段を下りるグルーサックは三階のドアの前で止まった。
「そこは?」とラスター。
 グルーサックは後頭部を掻きながら「おれの仕事場だ。レーベルだけじゃ食えないからな」
グルーサックと別れ、階段を下りたラスターは通りで深呼吸した。歩き出すと、結局、口を開けることのなかったリュックサックがひどく重く感じられた。その後、ラスターはワシリーへの手土産に中華レストランでウナギのフライと、ブリトーを露店で買い込みアパートに向かった。

 ラスターはアパートのドアを開けた瞬間から違和感を覚えた。強い酒を常日頃から飲む人間特有の体臭が玄関まで漂っていた。居間に行くと、ワシリーと見知らぬ男が椅子に腰掛けていた。居間の四方には腕を組んだ男たちが立っていた。椅子に腰掛けている男、団子鼻で頬と鼻に吹き出物の痕がある男がラスターを睨んで「なんだ?」と言った。ワシリーが
「そいつは関係ないだろ。おれの問題だ」
「そう、お前の問題だ。話を戻す。明日までに荷物をまとめてスクエア・ホテルのロビーまで来い。今度も逃げようなんて思うなよ? 見張りをつけておくからな」
 団子鼻の男が立ち上がるとラスターを軽蔑するような目で睨んで出て行った。男たちは無言で後ろを歩いて行った。二人だけになるとラスターは椅子に腰を下ろした。ワシリーは大きな溜息をついて紙巻煙草に火を点けた。ラスターが「換気扇を回してよ」と言うとワシリーは気のない返事をした。ラスターが
「食べ物を買ってきたんだ。ブリトーとウナギのフライ。お腹空いている?」
手をヒラつかせたワシリーが「生憎、胸一杯だよ」
「そう、君の分は冷蔵庫に入れておくよ」
 ラスターは白い大皿にブリトーとウナギのフライをのせると、レイセオン社のレーダー技師、パーシー・スペンサーによって発明されたマイクロ波オーブンにいれた。ターンテーブルが回り出し、磁雷管から照射されたマイクロ波が分子を振動、回転する。ターンテーブルの上で脂が跳ね回り、トマトソースが飛び出た。三〇秒ほど経つと甲高い警戒音が鳴った。ラスターはテーブルに大皿を置き、フライにフォークを突き立てた。
「うまくいったよ。契約できた」
「そりゃ良かったな」
「それで、さっきの人たちは?」
「ろくでなし御一行様だよ。はるばるシカゴから来たんだ」
 ワシリーは口笛をジェット機がエンジンを噴射するように吹いた。
「家族?」
「まぁな。親父と、あとは誰だか知らない奴らだよ。つまるところのろくでなし……メシの時に聞いて楽しい話じゃないぜ。コービーとはうまくいきそうか?」
「うん」
「それだけか?」
「まずは十分だよ。君が紹介してくれたからチャンスが巡ってきた。君のおかげだ。ぼくだけだったらこんな風にうまくはいかなかった」
「買いかぶりだ。おれはコービーに話しただけ。それだけだ」
 会話が途絶え、ワシリーが大きな溜息をついて後頭部を掻いた。ラスターはウナギのフライの残りを一気に食べた。
「コーヒー飲む?」
 ワシリーは「いいや、もう一本吸わせてくれ」と言って紙巻煙草に火を点けた。

 換気扇のモーターが動き出し、プロペラが回転する。霞んでいた天井付近が明らかになっていく。ラスターはコーヒーを一口啜ると
「それで、何があったの?」
「何の話だ?」
「家族の話」
 ワシリーは額を撫でると煙草を灰皿で揉み消した。
「兄貴が死んだ」
「一言だけ?」
「そう……でも、それ以上の意味がある。兄貴は親父の後継ぎとして真っ当なろくでなしになるように躾けられた。姉貴と弟も同じぐらいろくでなしだけど、兄貴ほどじゃない。兄貴は七つか八つ上だった。喧嘩っ早くて、すぐ頭に血が上るような奴だった。典型的な、絵で描いたみたいなろくでなしだった。兄貴がこの通りだったから、親父はおれをどうかしようなんて思わなかったんだろう。もしかしたら忘れていたのかもな。おれが姿を消しても親父はおれを探したりしなかったが、ここ数か月で事情が変わったらしい。まず、姉貴がどこだかの男と一緒になって出て行っちまった。おれと同じように姿を消しちまったってわけさ。でも、そんなことなら親父は姉貴と男を捕まえるだから、本当の事情は違うだろうな。本当のことについては考えたくない。弟は一九歳とかだったと思うが、コカインを吸って箱乗りをして、通行人を誰彼構わず撃ち殺した。その様子をネットで中継したんだと。とんだ大馬鹿野郎だ。弟は逮捕されて、今は裁判中だと。シカゴに死刑制度があるのか知らんが、弟は死んだも同然だ」
 ラスターの脳裏に故郷の兄たちの顔が過ぎった。ラスターが口を開く。
「それで、君もろくでなしになるの?」
 手をヒラつかせたワシリーが「そんなわけあるか」
「じゃあ、どうするの?」
 ワシリーは顎に手をやり、考えるような素振りをすると
「とっておきがあるんだ」
「何?」
「とっておきさ。本当にヤバい時の切り札……親父の顧客リストさ。家を出る時、いざという時のためにハードディスクにコピーしておいたんだ。親父は気付いた素振りもない。そのあたりのことに疎いからな。知っていたら、本気でおれを探して埋めていただろう。こいつをシカゴの警官たちに送りつけてやる」
「そんなことをしたら君は大変なことになるよ」
「だろうな。とはいえ、誤魔化せるかも知れない。いや、誤魔化せなくても、時間稼ぎぐらいはできるだろう。おれは真っ白だ。ドラッグを売ったことも吸ったこともないし、女を買ったり売ったり、商売敵が目障りだからって消したこともない。おれは……まぁまぁ善良な市民だ」
「だからって」
「ラス、いいかよく聞け? おれはこの意味がわかっている。わかりすぎているぐらいだ。死ぬまでシカゴには帰れなくなるだろう。でも、いいんだ。どの道、死んでも帰るつもりはないんだから。これから準備に取り掛かる。いきなりこんなことになって悪いと思っている。代わりと言っちゃあなんだが、おれのモノは全部やる。売り払えばちょっとした小遣いにはなるだろう」
「ルームシェアする人がいないと、ここには住めないよ」
「なら、引っ越し代の足しにしてくれ。細かいことは明日の朝までに整えておく」
 そう言うとワシリーは自室へと向かった。ラスターは皿を流し台に置くと蛇口を捻った。換気扇のプロペラが回る音はGとAフラットの間を揺れ動いている。食器用洗剤が泡立ち、泡は日々のように流されていく。パイルが粗いタオルの上に皿を置いたラスターは自室に向かった。ベッドに寝転がり目を瞑る。

 顔のない男がラスターの隣をすり抜け、ドアが閉まる。兄たちは不機嫌な顔で何か言っている。ドアが開き、花束を持った男がやってくる。先程の男よりは見覚えのある男、中古車ディーラーで、かつて服役し、今は息子が服役しているルベーン・カンポス。ルベーンは親しげにラスターの母親と談笑し、いつの間にか笑顔に変わった兄たちはルベーンと遊ぼうとしている。ルベーンは兄たちの頭を撫で、照れ臭そうな顔でラスターを抱っこする。

(多分、そういうことなんだ)

 目を覚ましたラスターは点けっぱなしになっていた蛍光灯を見た。開け放たれたままの窓を見て身体を震わせる。首を回し、硬直していた筋肉をほぐすとベッドから起き上がった。居間では換気扇の下でワシリーが煙草を吸っていた。ワシリーは煙を吐き出してうなずいた。ワシリーが
「ひどい顔だ。顔を洗ったほうがいいぜ」
「気のせいだよ。それで、どうするの?」
「やれることはやった。気分がいい。晴れがましいとか、そんな所だ。今頃、シカゴは大騒ぎさ。とはいえ、このままおめおめとホテルに行くのは大馬鹿だ」
 ラスターは短く刈った巻き毛を一撫ですると「見張りがいるんでしょ?」
「このアパートと隣のアパートがどれぐらい離れているか知っているか?」
「一〇フィートぐらいあるよ」
「助走をつければそのぐらい余裕だ。幾つかアパートを飛び越えたらクローフィッシュが車で待っている。あとは運任せだ」
「無茶苦茶だよ。いくらなんでも無理だ。間違って落っこちたりすれば怪我じゃ済まないよ」
「無茶とか無理とか、そんなこと知ったことか。ラス、お前はイングルウッドのクソみたいな場所からニューヨークに来た。おれはシカゴのクソみたいな場所から。お互い、無茶を承知でここまで来た。違うか?」
「ぼくは家族と仲違いしたわけじゃない」
「でも、ここに来た」
「そうだね」
「おれがいなくなって、次の奴が見つからないと来月にはここを引き払うことになるだろう。だから、話はコービーに通しておいた。手頃なアパートが見つからなかったら事務所で寝泊まりさせてもらえる。ホームレスはキツいからな。金は……お前がいいトラックを作って売れればいい。そうすればお釣りがくる。それじゃあ、お別れだ」
 二人は握手を交わしてハグをした。ワシリーは紐を通した鞄を背中に背負うと
「見送りはいらないぜ。辛気臭くなりそうだしな」
「ワシリー、君のお蔭だよ。色んなことで助けられた」
「パクられたりしたしな」
「それはもういいよ……気にしてない」
ワシリーが「それじゃあな」と言って歩き出した。ドアが閉まる音、換気扇のプロペラが回る音、灰皿に寝かしつけた燃焼剤入りの煙草から青白い煙が弱々しく立ち上っていた。ラスターは流しで顔を洗うと冷蔵庫を開けた。冷蔵庫には洗われて綺麗になった大皿が一枚。大皿をとり出してテーブルに置くとメモがのっていた。アルファベット、Nに似たキリル文字からはじまる短い言葉。
メモを持ったまま自室に向かったラスターはノートパソコンを起動して言葉を探った。
「……またね」

〈Eメール受信 差出人 不明〉

「よぉ、調子はどうだ? イワンの大将、ワシリーだ。一か月も音信不通で悪かった。聞いて驚くなよ? 今、おれはインドにいる。ガンジス川で沐浴と洒落込みたかったが、包帯に巻かれた死体が浮かんでいちゃあ、そういう気も失せちまう。おれはバックパッカーたちが住んでいる安いホテルにいる。とにかく安い。その分、サービスも最低だ。毎日、カレーしかない。色々と思い出すことがある。たとえば、初めてお前が捕まって、留置場にブチ込まれた次の日に二人で食ったブリトーと、親父が家に来た時にお前が買って来たやつだ。あれ、同じ露店だろ? 他にも思い出すことがある。ユダヤ人のジャズマンのこととか、お前が妙に高い牛乳を買うとか。
もうアメリカに帰ることはないだろう。今度こそヤバいからな。コービーに確認したが、おれとコービーとの契約はまだ生きているそうだ。つまり、仕事は問題ない。ちょっとばかり離れてはいるがデータにすれば数秒の距離だ。機材は今の所、ボロいラップトップだけだが、なんとかする。お前はどうだ? うまくいっているか? お前は引っ込み思案だから利用されやすい。気を付けろよ。

 追記……新しい名前は〈ラシッド・ビル〉っていうことにするから、そっちの名前で登録しておいてくれ。


『ロクス・ソルス』という同人小説サークルで活動しています。それから、ジャズピアノの演奏活動をしています。気が向くと絵を描いたりします。
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