杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第305回: フィルターバブルに憧れて

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2021.
01.20Wed

フィルターバブルに憧れて

人格に問題があってもみずからの欠陥を顧みるところがなく、他人のせいにして社会にまかり通る(自分を疑わないからまかり通るし、まかり通るから自分を疑わない)ひとたちは、どうしてそのようにうまくやれるのだろう。そのひとたちとわたしは何がちがうのだろう。異常者である点はおなじなのに、そのことの罰をわたしは受けて、彼らは受けるどころか他人に押しつけ、押しつけられた他人を世間の先に立って批難する。そのようになりたいかと問われたら、うーん、なりたくはないのだけれど世間はそうしたひとたちの味方であり、そうしたひとたちが社会では正しいとされるので、社会的にまちがった人間(わたし)であるよりは適切な人間でありたい。しかし彼らが正しいとされるのは踏みつけにされた(誤りを押しつけられた)ひとたちがいるからであって、実際には彼らは正しくない。そのように立ちまわっただけだ。そのように立ちまわる方法を知りたいだろうか、よくわからない。他人を苦しめたくはない。苦しめたくないから適切になりたいのであって、適切になるために苦しめるのでは意味がない。出版は自己肯定感のためにやっていて、それは他人を介在させなければ自分でコントロールできるはずのことだ。読まれるかどうかとか評価とかを要素に含めてはならない。

坂田靖子さんの漫画に「ひとは自分の読みたい新聞を読むんだよ」といった台詞があったけれど、自分が読んだり書いたりしたい場を選んで、それぞれが交わることのない状態、いわゆるフィルターバブルそれ自体は悪くはないのではないかという気がする。もしそれが完全にひとりひとりが孤立しうるものならば、の話だけれど。増幅された他人の声にとりこまれて自分をなくすようでは本末転倒だ。ソーシャルメディアの問題はそこで孤立することではなく、むしろ逆に絆を強要することであって、むしろ孤立こそが自由であり個を救うはずなのだ、なぜならそれは小説が大昔からやってきた営みだから。権威者に押しつけられた世界を正義とみなしてありがたがり、異なる視点を躍起となって叩くひとたちがいる。そうではなく、自分の見たい世界を自力で構築できるようになればいい。そうすればあらゆる異なる世界を尊重できる。だれもが自分の視野を持てず、押しつけられたものしか知らないので、拠って立つところが正しくないと困る、という心理から、正しくない可能性を示す逸脱者を叩いて、それで安心しようとする。古典的人気映画の続編に出演したアフロアメリカン女優に殺到したヘイトはことごとく無視して、いやなら出て行きな、といった態度で被害者の女優を追い払ったくせに、差別主義の煽動者に対しては、公の人物の発言は参照される価値が高いから消さない、と公言して優遇し(そもそも広告代理店と協働して彼を大統領に仕立て上げたのはソーシャルメディアだ、現在の状況をつくりあげたにもかかわらず、良識ぶって掌を返す連中のやり口はどうだ。それでも米国の本社はまだマシのように思える、カルトに汚染された政権と結託した大手広告代理店傘下のわが国のに較べたら。暴徒は完全に「映え」を意識しておりソーシャルメディアの行き着く先が示されたと感じる。ジャック・ドーシーは煽動者のアカウントを永久停止した判断を支持しながらも「危険な」前例だと指摘したそうな。本社と JP は切り離して考えるべきかもしれないけれど無名人のわたしは自分の記事の URL を連投しただけでアカウント開設から半日で永久凍結された。金にならない無名人に対しては殴ってもいいやつ認定を暗黙のうちに公認したり、何もしてなくても永久凍結したりするくせにそのいいぐさは二枚舌もいいとこだ。要するに言論の自由ではなく金勘定の自由が邪魔されるのがおもしろくないだけだろうが。そもそも twitter は私企業が営利目的で投稿を表示する商売でしかない。言論の自由を保障する公共インフラなんかでは決してない。この機に乗じてあたかもそのように装うとは呆れた根性だ。たぶん彼自身、自分のやっている商売で何が起きているのか把握しきれていないのだと思う。インターネットは表示に権利をもつ人間が利益のために都合のよい表示をするものだ。言論の自由とはそもそもなんの関係もない。ないけれどもしかし、あるかのように錯覚させる、夢を見させる余地が過去の一時期には確かにあって、いまだってその可能性までをも否定するつもりはない。ないけれど少なくとも連中のやっていることはすでに述べたとおりだ。利益のために都合のよい表示をする商売でしかない。わたしのような無名人にはフィルターバブルもエコーチェンバーも作用しない。何をどれだけ調教しようともインターネットはわたしに最適化されない。それらはインターネットに最適化された連中にしか作用しない。苦労して古いレコードだけ表示されるように調教した YouTube までもが最近はいわゆる YouTuber のゴミ動画を見せようとしてくる。ああしたものを見せることがよほど金になるんだろうな。連中はユーザの思考や行動(嗜好含む)をコントロールしようとする姿勢が露骨すぎる。個人の嗜好といった独自の視点を許さない。ソーシャルな絆の名のもとにだれも彼もを均一に同じにしようとする。個人の声が増幅されるのではなく彼らの都合で誘導されている。ギャディス『J R』的な商売の都合だ。google にせよ Amazon にせよ Facebook にせよ Apple にせよ彼らがわれわれ個人に最適化されるなんてことはありえない。彼らはどこまでも尊大であってわれわれ個人に彼らのアルゴリズムに隷属することを強いる。われわれ個人が彼らに最適化されるよう強いられるのであってその逆はありえない。結果としてエコーチェンバーなりフィルターバブルなりが作用するのは彼らのアルゴリズムに最適化された「望ましい」個人だけだ。わたしは吸音室にでも閉じ込められたかのような思いをさせられている。わたしの声はわたしにさえ届かない。今回の現象はエコーチェンバーではない。フラッシュクラッシュだ。アルゴリズムに最適化(支配)された群衆が企業の思惑を超えて暴走したのだ。最適化された方向性が雪だるま式に膨れ上がって制御できなくなる。こういうことは今後も起きる。何度でも。規模はそのたびに膨れ上がる。わたしは凡庸な人間だ。フィルターバブルやらエコーチェンバーやらといった現象が本当にあるのならわたしだって反響した自分の声に閉じ込められるはずだ。ところが実際には淘汰され排除されただけだ。似たような声も自分の声も聞こえない。アルゴリズムに最適化された「正しい」声の壮大な反響音が聞こえるだけだ。その反響室で聞こえるのは企業によって都合のいい声だけだ。その都合のよさを雪だるま式に最大効率で極限まで膨れ上がらせる部屋だ。そこに居場所のある人間はごくひと握りの、その声に自らを最適化できる要領のいい連中だけだ。ほとんどの人間はそこから排除される。あなたのフォロワーは何人ですか? きょう何回いいねや共有をされましたか? それはエコーチェンバーではない。フラッシュクラッシュだ。そのことを指摘したのはわたしだけで、理解する者もわたしのほかにひとりもいない。その事実そのものが裏づけだ。ソーシャルメディア企業が煽動者を見棄てたのはいわゆる損切りだ。あのように利用してあそこまで問題を膨れ上がらせておきながらいざとなったら首を切って知らん顔をする。しかし実際どうなんだろう、同じような考えをもつひととインターネットで出逢ったなんて経験があるひとはどれだけいるのか。わたしはありとあらゆる場所と機会でおなじことを何度もくりかえし噛み砕いて説明してきたけれどもだれにも理解されたためしがない。それはおそらくわたしに知的障害があるからだ。頭の悪い人間のいうことは健常者にはわからないのだ。健常者であったならわたしもソーシャルメディアに最適化されたのだろうか。わからない。少なくとも最適化されなければ書いたものが読まれることはないようだ。偉い先生がそんなことをおっしゃっていたし残念ながらわたしも同意せざるを得ない。最適化されるよう読者に強いる一方で最適化されたひとびとへ向けた商品を出版するのが商業出版だ。反響室めいた閉鎖空間でぐるぐる循環する。それをおもしろいと思うのか。そこから排除された個人は何を読めばいいのか。あるアカウントに対しては読書感想文の URL を連投しただけで凍結し、別のアカウントに対しては悪辣な人権侵害をやりたい放題やらせ、違反報告を一顧だにしないのはなぜか。ある声に対しては優先的に表示して増幅し、別の声に対しては表示を抑制して存在しないかのように扱うのはなぜか。その差は何か。どんな理由でどこに着目して選別するのか。その答えは金だ。金になる声を彼らは増幅する。増幅された声がさらに表示機会を獲得して増幅される。倍々ゲームで雪だるま式に膨れ上がりやがてはフラッシュクラッシュに至る。今回起きたのはそのようなことだ。意図的に選別してそのような結果を招いておきながらあたかも自分たちには責任がないかのような態度をとる。企業は差別や暴力のような金になる声ばかりを増幅する。そうでない声は掻き消し埋もれさせる。最適化された声は耳を聾するばかりに反響しわたしの声は吸い込まれて消える。反響室と吸音室が同居する。それがソーシャルメディアだ。

ふだん嫉妬そのものの感情を他人に抱くことはあまりないのだけれど、そうした場に最適化された人生は素直にうらやましい。基本的には他人にどう読まれようが知ったことではないし、読まれるために書いているわけですらないにもかかわらず、だれかが祝福される様子を見てしまうと、つい自分と較べて、自分もそのように愛されたらどんなにいいだろうとかなわぬ願いを抱いてしまう。でも実際に自分がそうなりたいかというと、それはまた違うんだよなぁ。結局それはソーシャルな場で祝福される種類の、そうした場に最適化されたサイズ感の才能であって、それは自分ではないという気がする。愛される人間であり人生であったならどんなによかったろう、と正直なところ思わぬでもないけれど、いまこの自分が、と仮定するとそれはとてつもなく倒錯したことに感じられる。まったく相容れない。だれかに承認されるためにやっているわけではないのだ。承認してやるよといわれても何様だよと思うだけだ。にもかかわらずソーシャルでうまくやる健常者が視界に入ると、つい較べてしまってうらやましくなる。その気持があることは否定しない。認める。いや実際、わたしもフィルターバブルに閉じ込められたいんだよ。反響した声だけを聴いていたい。どうしたらそれができるのだろう。小説を読むしかないね。子どもの頃はあたかも当然の権利であるかのように愛される周囲の子どもたちが妬ましくてならなかった。若い頃は努力すれば愛が得られるのではないかと錯覚したが奪われるばかりだった。歳をとってようやくだれにも愛されないことに慣れてきたし、そのような人生との付き合い方を学びつつ、おおむね肯定できるようになってはきたものの、いまだに完全には受け入れかねている。書いたものが正当に評価されていないと感じるのがとりわけつらい。自分がいいと思えるかどうかが重要なのであって、その判断に他人という、コントロール不可能な要素を介在させるのは不健全だとわかってはいるのだけれど。努力でどうにかできることだけを気にしたいのに。うまくやっている他人が視界に入るのがよくないのだともわかっている。なるべく遮断してはいるのだけれど。まぁだれからも評価されないのは裏を返せば馴れ合いがないということで、人格 OverDrive にとってはいいことなのかもしれない。寄稿者は別にわたしの書くものを評価してはいないから。いやでもわたしがだれにも相手にされないことによって寄稿者によるせっかくの傑作が正当に評価されない現状はよくないな。いわゆる元年に出版活動をはじめて十年以上が経過したわけだけれど(そういえば人格 OverDrive の創立記念日を祝い損なった。十周年だったのに忘れていた。いま思い出した、やればやるほど既存システムの壁を思い知らされる。ちょっと突っ込んだことをやろうとするとスノッブな慣例に阻まれる。選民意識というか。上から目線の薄笑いで門前払いされる。すでにできあがった世界に丸腰で侵入しようとするのではなく、いちから新しい世界を創り出さなければいけないと痛感しているのだけれど、その方法が十年やっていまだ見いだせていない。Amazon のインフラに乗っかって、彼らに決して選ばれずだれの前にも表示されることのない商品をむだにつくりつづけるしか方法がない。そういうことじゃないんだけどなぁ。やりたいのは。いまあるのとは別のインターネットが必要だ。それは比喩的な意味であっても技術的にそのままの意味であってもどちらでも構わない。Kindle ではなく epub、twitter や Facebook ではなく Fediverse、Mac や Windows ではなく Linux、そして Amazon ではない別の何か。でもそもそも読書文化そのものがこの国では滅びてしまった。大喜利のネタであったり承認欲求の道具であったりに成り下がった。つまりはソーシャルメディアに隷属するものに。出版と読書は個に向き合う行為でなければならない。まずはそこからはじめなければいけなくて、その方法が見つからない。


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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