杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第302回: 人間のいない世界

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2021.
01.02Sat

人間のいない世界

今年は人間のいない画像が流行するらしい。特定のだれかを感じさせない漫画的な画像ならいいという。世界から人間がいなくなり、いなくなったひとびとから搾取するアルゴリズムの所有者が大富豪になる時代のデザインだ。人間を感じさせないことが何かを買わせるために重要になるとは。だとしたら嗜好を疎外するアルゴリズムは今後も正解でありつづけるのだろう。そしてそれは娯楽とか芸術とか呼ばれるものにとっては突き詰めれば死を意味する。しかし取り残されたひとびとが主な客層であるテレビは、いまだにタレントが顔でものを売っている。世界は『暗闇のスキャナー』の主人公のようにふたつに分割されているのかもしれない。今年の流行色も二色であるらしいし。いやでもUIとしては人間を感じさせて買わせようとするけれど実際には嗜好のような個の人間性を相手にするのではなく、amazonやTwitterのように人間性を排除した数の論理というか「その他大勢」に売ってるわけだよな。つまりテレビ的な感性とAmazon的な搾取は、個を疎外して嗜好のない「その他大勢」からより多くの利益を得ようとする点で同一であるはずだ。Amazonを小売として捉えて(彼らの商売の一部でしかないのに)、嗜好を排除することで成功したモールは三十年以内に破綻する、ということをずっと書いてきたけれど、その捉え方はまちがっていたかもしれない。COVID-19によってAmazonの倉庫で働くようなひとびとが生命の危険に晒されたり失職したりする一方でベゾスは世界一の富豪となった。たとえばダムのような高低差を利用してエネルギーを生み出す装置のように、社会格差を利用して利益を生み出し拡大する商売なのではないか。ひとたび世界有数の富豪となった者は現代社会では未来永劫、搾取する側でありつづける。Amazonが今後も見かけ上の小売業でありつづけるのかは別として、搾取する側が没落する可能性はおそらくありえない。ヴォネガットのデビュー作を読んだときは、なんとまぁ古めかしい発想だろうと思ったものだけれど、近年になるにつれてその読み方がまちがっていたことを思い知らされている。読書は嗜好であり嗜好は文化であって、文化は教育によって次の世代に伝えなければ滅びる。わずかのあいだに効率よく利益を求めるのであれば嗜好のないひとびとに売ったほうが儲かる。そのほうが市場がでかいからだ。しかし嗜好のないところに読書は本来ありえない。中心たる嗜好をないがしろにしてそのまわりの「その他大勢」にのみ売ろうとするのは、最初のうちこそ中心の余波がまわりに及んでいるから売りようがあるが、疎外された中心がいずれ滅びるので、結果として周囲もだれも本になど見向きもしなくなる。滅びるまでの期間を短期間で実証してみせたのが握手券商法だ。本来は音楽に関心のない、嗜好を持たない層に売るための施策だったが、結果としてCDはヴァイナルよりも売れなくなった。滅びたはずのメディアであるヴァイナルは逆に嗜好を重視して人気を取り戻した。epubの流通インフラとディスカバラビリティを担う何かがFediverseでやれたらおもしろいんだけど。ZINEの通信欄でカセットテープのやりとりをする的な。R.Stevie MooreやMartin Newellが活動したような場所だ。ブコウスキーなんか読んでると彼が活躍したリトルマガジンの世界とFediverse的なものって相性がよさそうに思えるんだよな。でもFediverseにブラック・スパロウ・プレスはないしジョン・マーティンみたいな編集者もいない。いなければ自分がなりたいと願った。Goodreads的なものをつくろうとするひとがいるんだからKindleストア的なものがあったっていいでしょ。ただGoodreads的なものの時点でAmazonに頼らずに書誌情報を得るのはむりなんだよな、日本の場合は。業界団体のやつは取次コードかなんか持っていなければ登録さえさせてもらえない。つまり不完全すぎて使いものにならない。しかし国語力のない読者に、その読者が知らないだけの単語を誤字として指摘されて出版停止になるんじゃたまったもんじゃない。そんなものが「本」ということになってしまったら読書は滅びる。だから代替となるものがすぐにでも必要なのだけれど、だれにもわかってもらえたためしがない。Kindle自体に不満はない。モールの表示や商売のやり口に不安があるのだ。epubをつくって自サイトでダウンロード可能にするだけじゃ出版したと見なされないのは、結局のところ社会的な権威付けがpublishには不可欠ってことなんだろうな。他者によって認められなければ出版とは見なされない。「原稿は燃えない」といいたいところだけれど……。基本ぜんぶサミズダートだと思ってやっている。すべての書き手が平等に読まれなければならない社会はありえない。たとえばピンチョンとわたしならピンチョンのほうが広く読まれるべきだし、へたくそな小説を読むよう強いられたらわたしはキレる。出版や芸術においてはパーソナリティや人気による競争性が発生しても別に構わないと思っている。ただ現状はその競争性には恣意的な表示による偏りがあり、読書文化が尊重されていないと感じている。嗜好を疎外する表示が行われる理由は限られたひとびとを相手に商売するよりも嗜好のない「その他大勢」に売るほうが儲かるからだ。嗜好は教育によって拡大再生産される。経済効率を拡大再生産することのみを目的とするアルゴリズムは嗜好を疎外する。ひとびとは見せられたもののみを正しいもの、ひいては全世界と信じるから見せられないもの、すなわち嗜好は正しくないものとして消費者によっても疎外される。だれも次世代を育てなければ嗜好は途絶える。出版文化にいま起きようとしているのは、あるいはもうとっくに起きてしまって取り返しがつかないのはそういうことだ。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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