諸屋 超子

豚はいつ飛ぶ?

第12話

諸屋 超子書いた人: 諸屋 超子, 投稿日時: 2021.01.01

 吉田事変とでも呼ぶべきこの出来事を、ようやく話す気になったのは、傷が癒えてきた証拠かもしれない。もしくは、こうも言えるかもしれない。それを事変だ事件だと扱うような僕そのものを、僕自身が受け入れつつあるのだ、と。
 話す相手が君だってことも、まあ、関係しているよね。僕は僕の見解を馬鹿にするような狭量なタイプには、話す気にはなれない。レベルが低いっていうか。わかるだろう?
 人は人を見下せる時にしか正直に話せないんだよ。こういう僕の見解を軽蔑する人もいるだろうけれど、僕は偽善者には理解を求めないことにしている。理解者が少ないことは、恥ずかしいことじゃない。
 吉田さんが、その夜したたか酔って蛸屋の前で吐いたことも、僕に四人分の会計を払わせたことも、飲んでいる間ずっと話していた愚痴(山脇氏が先輩風を吹かせること、吉田さんを持ち物みたいに扱うこと、いつも客の女に手を出すこと、金を一切払わないこと)も、どれもこれもが愚かしく、そのすべてが(その卑しさ故に)僕の純粋性を際立たせるようなものばかりだった。
 そうなると、僕は軽蔑を通り越して憐れみを感じてしまった。吉田さんにも、山脇にも、きらりんふわふわショーコちゃんにも。大袈裟に言うなら汚れた人間のすべてに。控えめに言っても、おしゃれなサロンに棲息する魑魅魍魎のすべてに。
 しかし、事変後も丸山くんの興奮は続いた。早く吉田さんへ連絡しろと、あれから一ヶ月くらいは言い続けていたし、その後三ヶ月くらいは思い出しては言っていたよ。
「あの電話番号、もったいないじゃん」
 そうだよ、僕は丸山君に話さなかったんだ。吉田事変について。何も。
 丸山君は、ある春の夜、暗い顔をして、僕の部屋に来た。僕はどうせまた職場の亜美ちゃんの話だと思った。丸山君は、髪型を変えてから(二回目以降はバーバー山本で「Mignon」のアフターケアを頼んでいた。「毎回あんな高級サロンに行ってたら、女の子をデートに誘う余裕がなくなるから」らしい)たびたび職場の亜美ちゃんをデートに誘った。きっかけは、亜美ちゃんがある朝、会社の玄関前で缶コーヒーをくれたことらしい。
「私、苦いの苦手なんで」
 照れ笑いしながら黒い缶を差し出した彼女に、丸山君は確信したのだ。「亜美ちゃんは僕に気がある」
 丸山君は、自身の愛読書『本当にモテる会話術50』と、『女の子のキモチ丸わかり大全』を僕の部屋に持ち込んでは、連日、亜美ちゃんがいかに自分に興味を持っているか、あの缶コーヒーを渡すことがいかに勇気の必要だったことか、この会話に隠された裏の意味、このメールに隠された乙女心と、繰り返し繰り返し力説していた。
 僕は、なんだか不安になったけれど、そんな風に感じるのは自分が恋愛に苦手意識があるせいだと思ったし、丸山君にもそう言われたし、前向きで自信に満ちた男でいれば、女は勝手についてくると丸山君の本に書いてあったし、吉田さんも偉そうな山脇氏に結局はベタ惚れだったようだしで、口を出すのはやめておいた。 
 あれが良くなかったんだと、今ならわかる。
 大体、恋愛について偉そうに語り出すヤツなんて信用できないよ。人は、大抵叶わないことばかり語りたがる。分からないからこそ理論武装する。 
 丸山君の恋心は燃え上がった。亜美ちゃんの休憩に合わせて休憩を取ったり、わざわざ親の車で出勤して(それだけは僕は異論を唱えた。就業中の駐車場代は丸山君の時給一時間半分に値する)亜美ちゃんを送って帰ったり、何度断られてもめげずに休日のデートに誘った。
 亜美ちゃんは、思わせぶりにも、丸山君にCDを貸したり(この曲おすすめなんで、この車のオーディオに録音していいですか?)休憩中に何度もお菓子をくれたり(営業の若松さんがいつもくれるんです。全部食べてたら、わたし豚になっちゃう)一度なんて会社帰りにショッピングに行ったりしたんだ(飼ってる猫の砂が今日特売なんです。ホームセンターに付き合ってもらえません?)
 とにかく丸山君は繰り返した。
「脈ありだ」
 しかし、ある春の夜、僕の部屋に来て行ったんだ。
「ストーカーってファーストネームはブラムだった?」
 吸血鬼に襲われたみたいな青い顔で、僕の部屋に来た丸山君の、不気味なおしゃれヘアを、僕は一生忘れないだろう。
 燃え殻になってまで、恋に身をやつした丸山君。関係のない職場のおばちゃんに八つ当たりまがいの説教をされるリスクをものともせずにオフィスラブに突き進んだ丸山君。彼を僕は尊敬している。
 僕は気が弱いから、あんな風にはなりたくないけどね。
 


長崎市にある本のセレクトショップ『Book with Sofa Butterfly Effect』店主。読書について、本について、文学について。好きなことは「しゃべって、読んで、無駄な時間を過ごすこと」。本を通じて人と人が交わる場所をつくりたい。月2~4回、本を読んでいなくても参加できる読書愛好会を開催。編集室水平線ウェブサイトにて連作『コロナinストーリーズ』連載中。
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