杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第300回: 使い棄てられない言葉

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
12.24Thu

使い棄てられない言葉

本はいまではソーシャルメディアに隷属する使い捨ての道具となった。評価される対象はすでによそで評価されていたかソーシャルメディア自体で成り上がったかで、後者であるためにはそこに最適化された人格、すなわち相手によって舌や態度を使い分け、いかにも立派な人物であるかに見せかけるのが巧みな、要はいやなやつである必要がある。筒井康隆のデビュー作のごとく、評価のすべてはソーシャルメディアということになった現代では、そこでうまく立ち回って成り上がるしかない。しかし仮にそのようにして成功しても、つくのは筋の悪い客ばかりでそれはいわゆる取り巻きでしかない。無法者の世界では無法者に媚びるしか生きるすべはない。それとは別の評価軸が必要なのだが、出版社がソーシャルメディアに媚びる現状ではどうしようもない。物語を「属性」で分類するコンテンツ開発は、定型化されたものを定型化されたやり方で刹那的に消費するのに適している。そのようなコンテンツは定型化された人間であることを示すタグ付けを、何も考えず反射的に賛同することで容易に獲得する手段となる。BookLive! の関連付けは書名から単語を拾って「この書名の本を読んだならこの本も好きだろう」と勧めてくる方式なのだけれど、これはコンテンツ開発がそのようになされていることが前提の発想だ。つまり彼らにとっての物語とは単語によって要約可能な定型化されたモジュールの組み合わせでしかなく、著者とはそれを実現する手段としての下請けでしかなく、そのようにして開発されたコンテンツは商品名に含まれる単語が検索タグとして利用できるという考え方だ。大手印刷会社が資本に参加するストアがそのような表示をするからには現に出版社はそのような商品開発をしているのだ。そのような世界に抗うにはいまとは別のインターネットが必要なのだが、それがどんなものなのかはまだ見えない。はてなハイクがActivityPub対応して復活したらおもしろいかもしれない。お絵かき機能もさることながらだれもが歩く大通りやだれも知らない路地があるのがよかった。突っ込んだことをやろうとしたらダイアリーがあって、外野でやんやと貶すにははてブがあって、と複数のレイヤーが用意され生態系がデザインされていた。ああいうのを出版でやりたいと考えて数年前にあれこれ試した。BuddyPressでアクティヴィティストリームがあってそれぞれの日記頁があって出版物の頁があって、ということを実際に参加者を集めて実現しようとした。主な目的は品質を高めてブランドをつくることだった。品質を高めるために知恵を持ち寄る場や道具を提供するのが意図だった。そのようにして品質を高めたものにブランド名をつけ、Google検索やモールで目につくようにすることからさまざまなことがはじまるはずだった。いずれブランド名にするために某所で議論して決めた略称はいまでは形骸化して広まり定着したようだ。当時はだれもあんな略称は使ってなかった。あれはもうすっかり黒歴史になってしまったな。いやがらせが殺到して参加者が危険に晒されたので断念し、そんなこともあって筆名も変えて出直した。読み放題が日本に来る前の発想だったから遅かれ早かれ黒歴史にはなっていたに違いない。知恵を寄せ合って品質を高める、という発想についてはいまでも古びていないがあれほど憎まれ叩かれるとは思わなかった。協力してくれた参加者すらたぶんだれも意図を理解していなかった。結局のところ版元になるしかないと思い知り、それで現在の試みがあるのだけれどそのためには、労働の対価(必ずしも金だけとは限らない)が必要だと切実に感じる。本来は自分で書くのをやめてすべての時間と体力を作家のために使わねばならない。作家のケアには相手の事情に平然と土足で踏み込む必要があり、それが許されるには対価がどうしても前提となる。ただそんなことをやったところで結局は閉じている。本というものが閉/綴じたものなので必然ではある。閉じれば読者には届かない。適切な読者を見出し得ない。結局はその矛盾に行き着く。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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