杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第299回: 別の展望

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
12.21Mon

別の展望

適正な読者を見出す、あるいは彼ら(実在するとして)に見出される方法はどこにあるのだろう? 今月の売上、表示機会が抑制されているのか実際には読まれているのに管理画面上、収益がないかのように調整されているのか、一頁も読まれていないのに順位がジャンル一桁台に入ったりするので後者のような気がするのだが、いずれにせよ先月の十分の一しか稼げずに終わりそうだ。しかしそれでも人権意識の偏った客や、本を読む能力のない客に読まれるよりはまだましだ。twitterのアルゴリズムは差別や偏見や暴力を助長したり、ペドフィリアやサイコパスに被害者をマッチングしたりするのに最適化されている。Amazonのアルゴリズムもまた同様の機会を強化する方向性に最適化されている。現代ではそれらが効率よく金を稼ぎ、稼ぐことによってさらに稼ぐ機会を雪だるま式に増大させるからだ。そうしたアルゴリズムに最適化されたコンテンツあるいは人間のみが価値あるものと見なされる。それ以外は切り捨てられ表示機会を喪う。アルゴリズムに評価されることのみが人間の価値になってしまっている。あまりにそのことが当たり前になりすぎていてだれも疑うことがない。疑うも何もそれがすべての土台になりはてている。そんな世界においていかにして本を売るか、という話なのだがこれは前提を疑うべきではないかという気がしている。すなわち、現代に生きるわれわれは遮眼革を装着せられた競馬馬のごとくビッグテックが規定した世界を見せられているわけだけれど、そもそも、見せられた世界を見せられたまま受け入れずともよいのである。そんな当たり前のことがわれわれにはわからなくなってしまっている。なんでも見せられるがままに信じてしまうような旧弊で頑迷な世代のみがしがみつくばかりで、時代の変化に柔軟に適応する新しい世代はインターネットをだれも信用しなくなる日が、半世紀以内に訪れるだろう。その前にAmazonは、おそらく30年以内にいまのトイザらスやタワーレコードのようになる。彼らのアルゴリズムはあまりにもギャディス『J R』的で嗜好というものを一顧だにしないからだ。googleはあまりにもわれわれの視野と同一化してしまったがゆえに、それがだれにも信じられなくなり別の何かが台頭し取って代わられるまでにはもう少し時間を要するはずだ。しかしそれほど遠い未来ではない。半世紀以内にその交代は起きる。もしかしたらその時代をわたしは見届けることができるかもしれない。わたしはいま45歳で、祖父は93まで生きたからだ。しかしそれまで待つつもりはない。別の世界を視ることがいま必要なのだ。いま本を売らねばならない。もうひとつ別のインターネットをつくる話をさいきん読んだか観たかしたのだけれども『ブリーディング・エッジ』だったかドラマ『シリコンバレー』だったか思い出せない。インターネットが廃れてオルタナティヴな情報網が立ち現れる話はもっと古くからあってマイケル・マーシャル・スミスなんかも前世紀末にそういうのを書いてたような気がする。あるいはもっとフィジカルなものであるかもしれなくて、だから2005年に『Pの刺激』でそのような世界を書いた。『パターン・レコグニション』のインターネットを地方都市の路地に、ソーシャルメディアを壁の落書きやチラシや吊革広告に置き換えた。なんにせよいまのやりかたはいつまでも続きはしないし、もしも続いたら文学をはじめとする芸術は滅びるだろうけれども、そう簡単に滅びるようなことはないと信じる(現実的なことをいえば、この国の市場ひいては教育や文化においてはすでに滅びて二度と取り戻せないのではないかと疑っている)。それは人権や嗜好や感情に関わる何かであり、人間の本質と結びついているからだ。それを疎外して価値を決めつけたり押しつけたりするような力や社会、あるいは視野(ものごとの見方)からは、ひとはいずれ自然と離れていく(個や主体性が憎まれるこの国の社会ではどうかわからない)。『巨匠とマルガリータ』は国家によって出版を許されなかった。いまでいえばAmazonやgoogleのアルゴリズムが表示機会を抑制するのとおなじだ。しかし読者はそれを隠れて印刷し、まわし読みした。罰せられると知りながらも。しかしその読者らは、権力によって存在しないことにされたその本を、どうやって知り得たのだろう? そこに抜け道の手がかりがあるような気がする。『あの本は読まれているか』で『ドクトル・ジバゴ』は海外で読まれ、政治的な意図によって持ち込まれた。現代でいえば『武漢日記』も似たような経緯をたどっている……うーん、この線で考えても何も得るものはないな。「外」が存在しないからだ。現時点では。「内」が「外」を期待するのもばかげている。虫がよすぎる。われわれ自身が主体的に力を持たねば。あるいはインターネットはそのままで、ビッグテックを置き換えるものをオープンソースで実現するというのはありかもしれない。しかしオープンソースコミュニティそのものが排他的で差別的であったりもする。Fediverseの考え方はきらいじゃないがそれが何かを実現するとは思えない。現にオール・トゥモロウズ・パーティーズに思考を垂れ流したところでなんの役にも立たない。カルトに汚染された政党や広告代理店を背後にもつ中央集権の資本主義サービスとは異なり、どこともだれともつながっていないからだ。つながりを目的としてもいない。孤/個を尊重する何かがほしい。しかし情報は伝達されねばならない。この矛盾を解消するような何かが必要で、その実現のためにはいま現在この地上には存在していない新しい考え方が必要となる。考えてみればブルガーコフは出版社によって見出され育てられてある程度知られたのちに弾圧されたわけだ。つまり潜在的な価値がすでに知られていた。現代では出版社によって資本が投下され、そこで見出され育てられて広く知られ、いざこれから資本を回収せんという段階で、出版社とかかわるより自力で出版したほうが効率よく儲かることや、取り分を減らしてまで出版社とかかわったところで、だれからも何からも護ってもらえないばかりか得るための努力すら著者の「自助」(ソーシャルメディアでの立ちまわり)頼みで、結局は自力でやるのと何ひとつ変わらない上に制約ばかりが増えることに気づいた作家が離れていく、という現象が海外では生じはじめている(「海外では」ということにしておこう)。出版社はキャリアの最初期において世間に価値を知らしめるためにのみ作家に利用される時代が訪れつつある。であれば出版社である必要はない。広告代理店で充分だ。というか広告代理店やカルト政党(かつての自民党はそうではなかった)が背後についている中央集権の資本主義サービスをクラックすればいいだけの話だ。だれも話題にしていないことのみが話題にされている単語が「トレンド」に表示されているのを見たことはないだろうか? あれはそういうことだ。広告代理店が世論や消費行動を操作するために何かをやっている。それによって火のないところに煙が立ち、やがてはオーストラリアの森林火災のごとく燃え広がる。つい最近も十代の少年が仮想通貨で詐欺を働くためにソーシャルメディアをクラックした事例があったけれど、そんな技術があるのであればトレンドを編集すべきだった。さりげなく単語を忍び込ませれば運営側には気づかれない。というか悟られぬよう表示させればいい、連中が普段われわれに対してやっているように。気づいて削除したところで手遅れだ。大衆はそのようにしていくらでも操作できる。売りたいものを売ることができるし差別主義者を大統領にしたかと思えば掌を返して道化に仕立てあげたりもできる。もちろんこれは大きな商機でもあるからすでに利用されているはずで、あなたがそのことを知らないのは連中にとって金にならないからにすぎない。考えつくすべての悪い商売はすでに行われており、そうしたものに抗う芸術は、価値として認められるすべから完全に疎外されている。表示機会の抑制によってすべての芸術が葬り去られたあと残るのはなんだろう? そんな世界に生きていたいだろうか? その答えは地下出版物のディスカバラビリティや流通手段を新たに構築できるか否かにかかっている。壁崩壊前の東ベルリンでは禁じられたパンクロックのコンサートが教会(インターネットのはるか以前、二千年前からつづくソーシャルな情報網)で密かに行われた。神父がそれを支援したのだ。手段は見出されるものだ、もしあなたがそれを望めば。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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