杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第297回: 何もしなかった一年が終わる

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2020.
12.09Wed

何もしなかった一年が終わる

何か書いてもらったらすごいんじゃないかなと半年くらい前に思っていたひとをひさしぶりに見に行ったら、インターネットで観察したつまらない相手を上から目線で嘲笑うだけのよくわからないアカウントになっていた。哀しかった。タイミングを逃すとそういうことになるのかもしれないし、声をかけようか迷った末にあきらめた相手にはあきらめるだけの理由があったということなのかもしれない。だれに認められなくともわたしはわたしであり、だれにも読まれぬのに自発的に書きだして、そして書きつづけているので、あるいはその辺に差があったりもするのかもしれない。才能をつまらない悪口に費やすばかりで、他人に求められなければ書かぬようでは所詮、書かぬ人間に属するということなのだろう。でも、才能を見出して書かせることに意味がないのだとしたら編集者の役割ってなんなのだろう。それに何より本物なら金にならずとも書くのが当然という考えは危険だ。それはやりがい搾取でしかない。わたし自身にしても『ぼっちの帝国』が評価されるどころかつまらないやつに呼び出されて笑いものにされたことでがっくりきて、それで今年は170枚程度しか書けなかった。日記も含めればたぶん500枚は書いたろうけれど、それをいえば去年は千枚は書いていた。柳楽先生やイシュマエル氏のすばらしい作品に出逢えたから今年やってきたことはまったくの無駄ではなかったと思う、というか思いたい。しかし金も出さずに書いてもらおうとする厚かましさを今後もつづけるのかわからなくなった。諸屋さんはお願いすれば書いてくれるけれど、原稿料も出せないのにお願いすることがだんだんつらくなってきた。若林さんはたぶん新人賞のために書くことにしたのだろう。評価経済における優劣を競う場であるtwitterは今年、新型コロナの影響でさらに悪しきものへと変容したように思う。震災がスマートフォンとtwitterの利用者を増加させたのと似た変化だが今度のはひどい。もとより評価経済のマウント・ゲームは自己愛の強すぎる人間が他人を貶めることで現実の境遇との落差を埋めようとする手段に利用されてきた。暴力や偏見や悪意と正常化バイアスは結びつきやすい。そのことにつけ込むカルトや政治家や広告代理店がおかしな方向へユーザを扇動している、というかそもそも日本版twitterは運営会社の大株主が、自民党とつながりの深い大手広告代理店なので、意図的にそうした表示をしてしかも成功している。見せられたものを疑う習慣が日本人にはない。疑わぬよう教育されている。権力者によって見せられたものが世界のすべてだ、正しい世界のありようだと信じるよう教育されている。物事を見分けたり論理的に考えたりするのは罪だ、個人として主体的に考え行動するのは罪だと教育されている。そうしたやり口をお隣の国家に学ぼうとする連中がそこで暮らすひとびとを躍起となって貶めたがるのはまったく滑稽なダブルスタンダードだ。洗脳された集団がわたしの街でもプラカードを掲げて拡声器で新型コロナは陰謀だ、トランプは英雄だ、twitterで検索して正しい情報に触れようと訴えていた。この国で小説を書いて出版するのはもう無理なんじゃないかなという気がしてきた。最低限の教育が機能していないがために幼稚な迷信やカルトのようなものばかりが幅をきかせて、そうでないものは表示機会が制限されたり、洗脳されたひとびとによって貶められたりするようになった。そんな社会では何をやってもだめだ。以前は生理的に受け入れられないものに気を遣って目をそらし、いいところだけに目を向けるようにしていたけれど、なんだかもう疲れた。もうむりという気持になった。生理的にむりなものは拒否するか、もしくは逆にだれでも投稿できるようにするか、どちらかなのだけれど、後者にしたところでだれも投稿しないのはわかっている。柳楽先生のエッセイはよく読まれているけれど、だからといってサイトの読者が増えるわけではない。ましてわたしの本が評価されるようになったりはしない。柳楽先生の訳業が出版社に見出されるのに少しでも役立てば……と期待しているのだけれど、そのためには人格OverDriveでは力不足すぎる。柳楽先生やイシュマエル氏のような優れた書き手を集めれば、相乗作用でそれぞれの作品が見出される機会が増えるのではと夢見たのだけれど、どうも現状ではそれぞれが別個に閲覧されて終わっている。そして流入経路や読まれ方を観察すると結局のところソーシャルメディアでの世渡りマウント・ゲームが巧みなひとに見出されるかどうかでしかないし、そもそもソーシャルメディアがカルトや偏見や抑圧やずるい立ちまわりと親和性の高い場であって、小説とは相容れない場である以上、そこでの評価やそこからの流入を期待するのも、そこでの評価やそこからの流入によって何かいい結果が得られると期待するのも、どちらもあり得ないことのように思われる。評価されたと喜んだ作品にしても、閲覧数の傾向からいって、わたしがいいと思った要素ではなく目を背けていた要素が喜ばれただけだったのではないかと疑われ、そう考えたらますます生理的にむりになった。いいと思った要素を育てようとする厚かましさ、を押し通す気力も失せた。金も出していないのに何様だよと。なんでわたしの個人的な夢や執念のために他人が無償で巻き込まれなきゃならんのだよ。諸屋さんにはつづきを書く意思があるかどうか尋ねようかとも思ったが、いやそれもやめるべきだ。無料ただで原稿を要求する下種野郎でありつづけるにも限界がある。これだけの傑作で、これだけ大勢に熱心に読まれてもいるのにつづきを書かないのは、それだけの理由あってのことだろうし、すでに大勢の目に触れているから、遅かれ早かれちゃんとした出版社がちゃんと金を出してつづきを書かせるはずだ。何者でもないわたしにやれることは限られている。オール・トゥモロウズ・パーティーズをはじめたのはよかった。BuddyPressはトゥーマッチだった。Mastodonのほうが簡素で自分に向いている。ダークグレイにオレンジのUIもしっくりきた。とはいえやはりむりをしてでも自力で建てるべきだった。メンテナンスまで業者にやってもらえるのは楽ではあるけれど自由度がない。人格OverDriveのActivityPubが死んだ理由もわからない。問題がMasto.hostと人格OverDriveのどちらの側にあるのか検証するためにFriendicaのインスタンスを建てようかとも考えているけれども、BuddyPressに似た利用感になりそうで手間の割に得るものが少なく躊躇している。今後何をどうするにせよ他人には頼らず、左右されることもなく、自分ひとりでいかに満足を得られるかが重要になる。他人の本を出版するのは悲願であったけれども、ずっと以前、数名に打診したところでは好感触は得られなかった。この件について今後検討することは一切ない。なんだかいろんなことがいやになったが、柳楽先生のエッセイと訳業、イシュマエル氏のこれから書かれる小説、まだ読んでいないピンチョン、などなどをまだ楽しみにできる。自分が書くものについては……まぁいつかは最後まで書くだろう。文字というものを憶えて以来、だれに頼まれずとも書くということを四十年はやってきているのだ。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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